ギブ・イン
遅くまで研究所に残っていると決まってダンデが現れる。
彼の出没は基本的にタイミングが悪い。ホップを帰宅させ祖母を見送って、ようやく一人になったと意気込んだ矢先に彼が現れて気を削がれるなどざらで、一度は絶妙なバランスで積み上げた書類を雪崩へと追いやり、一度は煮詰まってワンパチの腹に撃沈するという醜態を晒した。気持ちよさそうだな、という言葉も他意はないのだろうが居たたまれなかった。
そもそもソニアは彼に何も伝えていない。
ひとりで専念したいときに限ってダンデが遅くに研究所を訪れる偶然は、もちろん偶然などではなく、早めに帰しているホップが彼なりの心配で兄にリークしているに違いなかった。
余計なことを。
あるいはお節介か。
タイミングに難はあれど来たら来たで資料に没頭してしまうダンデである。上のフロア、書架の前で黙々と文献を読んでいる男の背中を見上げながら、彼も暇ではないだろうに、とソニアは腑に落ちない。
「ダンデくん、そろそろ終わるよ」
システムの制御モードを切り替えて、ソニアはデスクの片付けに取り掛かる。
ダンデから応答はない。いつものことだ。耳を通り抜けているのか耳に届いていないのか、届いた上で返事を怠っているのか知りようもないが、放っておくとごりごり没頭していく男に一応前もって声を掛けるようにしている。それが果たしてどれほどの効果を生んでいるのかソニアにはわからない。
「ダンデくーん」
積み上げた文献を一息に抱える。頭上のダンデは無反応。好きにしたらいい。
低く唸るシステムの音。相棒たちの不揃いな寝息。時折ダンデが本を捲る音と、自分の足音。静寂にほのめく物音は研究所という無機質な空間にあって体温をなくさず、ソニアはいつもそこに人心地を見出した。この時間は嫌いではない。
ふうと息を吐いて書棚に向き合う。最後の一仕事。
デスクでスマホロトムがむにゃむにゃと何か訴えていた。アラームである。
十時か、とソニアは文献を戻しながら、結局この時間は彼にとって何のメリットがあったのだろうと考える。さっさと帰ってさっさと寝たほうが効率的だろうに。
「手伝うぞ」
「きゃあ!」
そんな矢先に本人が現れてソニアは飛び上がった。
勢い余って文献を取り落とした。おっと、と横から手を伸ばしたダンデがすんでのところでキャッチして、他人事のように笑いながら書棚に収める。
「なんっ、えっ、なんでいんの? なんなの!?」
「なんなのはひどいな」
「いや、だってめちゃくちゃ集中してたよね、わたしの声聞こえてた?」
「聞こえてたぞ」
「まじか」
まさかである。
返事しなよと難癖をつけると、したつもりがしてなかった、という新しい角度の返答があった。それほどの集中力に滑り込んだ自分の声をむしろ褒めてやりたい。
「ソニアの声だぞ、オレが聞き逃すはずがないだろ」
「ありがとう。それ真顔で言わないほうがいいよ」
処理に困る。
そうか、と彼は無頓着に相槌を打って、ソニアの手元から勝手に資料を引き受けていった。
「なにか考え事か? 難しい顔してたな」
「ああ、うーん、時間の有用性とか」
「難解だな」
「他人事にしないでくれる?」
ワンパチの寝言が聞こえる。その寝言に応じるリザードンの寝言。彼の相棒も自分の相棒もひとの複雑なあれこれなど無関係とばかりに熟睡していて、複雑なあれこれのおかげで休みそこねている自分らがなにか間抜けに思える。
ダンデは不思議そうに瞬いてから、ああ、と勝手に納得して笑いだした。
「オレのことか」
ソニアは沈黙する。察しがいいのか悪いのか掴みづらい男だ。
「……ダンデくん、疲れてるんじゃないの、こんなとこ寄ってないで休んだら」
「意外とにぶいんだな、ソニア」
「ダンデくんに言われるとすごく腹が立つ」
「言いすぎだ」
彼は鷹揚に笑って、ふとその視線を手中の文献に落とした。琥珀色の瞳が興味深そうに光る。そういえば最近入った本だな、とソニアが記憶を辿っていると、今度借りよう、と案の定ダンデが呟いた。
「オレはオレでこの時間を楽しんでるんだぜ」
「しってる。ていうかもしかして本命こっち? 資料?」
「ん? ソニアに決まってるだろ」
「真顔やめてって」
ソニアは辟易した。何のてらいもなく言い放つのだから元チャンピオンの神経はすごい。
一方のダンデはほんとうのことだ、と苦笑を滲ませる。苦笑というあたりにわかっていないな、という含みがあるようで、ソニアはなんだか居心地が悪い。
「心配だからな、夜道だって危ない」
「町の外れからハイキングコースみたいな道路行くだけなんだけど」
「迷うかもしれないだろ」
「それダンデくんの話だよね?」
ソニアのちくりとした一言をきれいに受け流すように、これで終わりか、とダンデが問うた。いつの間にこんな技を覚えたのだ。流されたソニアはまだあるけどと半眼になってデスクに残った資料を示す。
「明日やるからいいよ。あと念のため言っとくけどあの距離迷うのダンデくんだけだからね」
「うん? ああ、そうかもな」
「ねえ、わたし本当に大丈夫だよ、ワンパチもいるし」
「うん」
「それともなに、かわいい彼女の顔が見たかった?」
明日やると言っているのにわざわざ本を取りに行こうとしていたダンデが、後半のつまらぬ戯言にふと足を止めた。
振り向いた彼がじいとソニアを見下ろす。あれだけ注意したというのに真顔で、まだ何も言っていないけれど真顔で、なんだ、とソニアは気圧される。
「そうだな」
おもむろにダンデが手を伸ばした。
身構えるソニアの頬におおきな手のひらが触れる。皮膚のかたい指先は、そのくせいつも繊細で優しい。
「顔が見たかった。それと」
ダンデがそろりと顔を寄せた。
視界が翳る。ソニアは思い出したように目を伏せて、触れるだけの口づけを交わした。
「こういう下心も、ある」
ぞわりと低い声が耳朶を這う。
茶化すより先に再び唇をふさがれた。む、と気の抜けた声がこぼれて、唇づてに彼の笑う気配がして、ソニアはいたたまれなくなって口を引き結ぶ。意地になる唇を食むようにして、ダンデの唇が這う。
手のやり場に困っていたら彼の手に絡め取られた。ソニアの指をくるむ手のひら、頬を押さえる手のひら、彼の体温にあてられてくらりと脳が揺れて、ソニアは浮いた手でダンデに縋りつく。
「ん、ぅ」
大人のキスくらい知っている。
唇を緩めたほうがいいのだろうか、という矢先になまぬるい粘膜が触れて、ソニアの唇を彼の舌先がゆっくりとなぞった。
「——ソニア、くちを」
開けて。熱に掠れた声がソニアを煽る。
ですよね、とソニアは小さく喉を鳴らした。だって口を開けたらいよいよそれらしいキスが待っている。もつのか、心臓。自問していると頬を撫ぜる彼の指先が耳を掠めて、たまらず弱い悲鳴を上げたソニアの唇を、彼がとうとうこじ開けた。
「……ソニア」
「……ごめんて」
不可抗力である。慄いて彼の舌を噛んだ。
じんわりとした熱を孕んだまま、けれどふたりの間には厄介な沈黙が横たわる。気まずさと気恥ずかしさと、ソニアの後ろめたさとダンデの自嘲。
普段であれば彼が気にするなと笑ってこの空気を処理していただろう。けれどダンデが放った言葉は、すまない、というおおよそ彼らしからぬそれだった。
「ダンデく」
「すまん、がっつきすぎたな」
ダンデがソニアを抱き寄せる。落ち着かぬソニアを安心させるための抱擁かと思ったが、それも違った。
強い力だった。持て余した情動のやり場をなくして、まるで縋るように彼はソニアを掻き抱く。それらしい欲望を否が応にも実感せざるを得なくて、ソニアはこわごわ広い背中に手を回した。
「……ダンデくん、あんなキスどこで覚えたの」
「知りたいか?」
「しりたくない」
そうか、と無頓着なダンデの相槌。けれど抱きしめる腕が、その力が、息苦しいほどの情欲を訴えるようでソニアはそれきり口を閉ざした。何も言わない。言えるはずがない。
ぬわわ、とワンパチの無邪気な寝言がどこか遠い。
ダンデの瞳を思い返す。真顔などよりももっとたちの悪い、貪欲に熱を求める捕食者のそれ。いまだ熱いダンデの腕の中、今後どんな構えで残業すればいいのだろう、とソニアは頭が痛い。
(2019/12/06)