石に花咲く
遠くにエリキテルの声がする。
むこうは雷雨かな、と打って変わって晴れた空を見上げながら、ダンデは欠伸をひとつ噛み締めた。先から何度かウソッキーが顔を覗き込んできては興味なさげにダンデの体を跨いでいく。寝そべる体にうららかな日差しが心地よく、一度勢い余ったソーナンスが倒れ込んできたりもしたが、目下ダンデを襲うのは野生ポケモンなどよりも睡魔ばかりである。
ナックル丘陵は晴れ。風はおだやか。野生のウソッキーは無関心。
ならば何の問題もないのでは、とダンデは目をつむる。
ラルトスの声が聞こえる。どこかで霧だ。
「——ワイルドエリアは落とし物多いって聞くけど」
ふいに瞼の裏側に感じていた陽光が翳った。
耳に心地よく馴染む声。覚えのある人物に瞼を持ち上げると、眼前にピンクの毛並みが広がっていた。
「元チャンピオンまで落ちてるとはね」
踏まれるよ、と幼馴染がヌイコグマを抱えている。
まぶしさに目を細めて、ダンデはやあと笑った。
「ソニアに似てるな」
「ひとをウソッキーか何かだと思ってる?」
「冗談だ」
「ダンデくんの冗談って結構わかりづらいよ」
あとあまり面白くない。ソニアの渋い言葉にダンデは辛辣だと笑った。
嫌がるヌイコグマが彼女の腕の中でわさわさもがいている。はいはいとヌイコグマを地面に下ろして、ソニアは尚も寝そべったままのダンデを見下ろした。彼女らしい鮮やかなファッションを白衣で覆ったちぐはぐな姿。ちぐはぐだけれど収まりがよくて、不思議とバランスがよくて、とても彼女らしくてダンデは好きだ。
「見たとこ昼寝っぽいけど一応聞いとくね、迷子?」
「安心してくれ、昼寝のつもりだ。ああ、えーと、奇遇だな」
「奇遇っていうかワンパチだけど。びっくりしたよ、急に走り出したと思ったらダンデくん見つけてくるんだもん」
遠くでヌイコグマと戯れ合っている彼女の相棒は、おそらく長年の経験から迷子と嗅ぎ付けたのだろう。やさしい。
「ソニアはフィールドワークか?」
「うん。今のとこ収穫はダンデくん跨いでくウソッキー」
「ソーナンスが倒れ込んできたのもあるぞ。見せたかった」
「それソーナンスが間抜けなの? ダンデくんのほう?」
受け止めた、と両手を広げるとさっきよりはおもしろい、とソニアが破顔した。手厳しいようで甘い彼女だ、なんだかんだで笑ってくれる。となればそれで満足してしまうダンデである。我ながら幸せな性分だ。
「起きないの、ダンデくん」
「気持ちよくて起きたくないんだ」
うんと伸びをする。
ソニアは大きな瞳を二度ほど瞬かせて、きょとんとした顔でダンデの横に腰を下ろした。
「収穫だ」
「なんだ?」
「ダンデくんがわがまま言ってる」
収穫か、とダンデは苦笑した。
ダンデにしてみれば長らくわがままを突き通してきたようなものである。チャンピオンになるまでとなったあと、強くなることもその象徴であることも、好きで追い求めて好きで手にしたものだ。バトルをすること。勝ち続けること。気付いたらわがままは使命というたいそうな名前にすげ替わっていて、やがてそれを当たり前としたまま駆け続ける自分がいた。
だから今、彼女にわがままをわがままとして拾われて。
ダンデは妙にくすぐったい。
「オレはずっと好き勝手に生きてるぞ」
「知ってるよ、でもだからって休んじゃいけないわけじゃないじゃん、ダンデくん走りっぱなしなのに愚痴のひとつも言わないし」
「無敵のチャンピオンだったからな」
「無理通せるほど若くないんだよ」
「刺さるな……」
ソニアが肩を竦める。冗談だという一言を期待したが残念ながら付け足されることはなかった。
ダンデはゆっくりと瞬きをする。思い返すのはここしばらくの怒涛のような日々だ。小さい頃から目にかけてきた子どもが気づけば立派なトレーナーになって、いくつもの戦いを経てダンデと対峙するまでに大きくなり、そうしてダンデは敗北した。誇らしかった。駆けた日々に後悔はなく、新しいチャンピオンの前途も明るく、何年ぶりの敗北を味わいながらダンデは胸を撫で下ろしたのだ。
だってチャンピオンマントを外してこんなにも身軽になった。こんなにも自由になった。
ただのダンデになって、今、こんなにも。
「——ソニアは」
彼女のあざやかな髪が揺れる。
なあに、とダンデを見つめるその瞳は、幼いころと変わらずまっすぐで優しい。
「ソニアは、白衣が似合うな」
途端にソニアが口を引き結んだ。
ああ、とダンデは失言に気づいて苦笑する。体のいい褒め言葉も彼女には通用しない。先のわがままと同じだ、聡明で繊細な幼馴染は言葉の裏側にある情動まで汲み上げて、いつもダンデを心配する。
「——あのね、ダンデくん!」
場合によっては怒る。
「わたしだってダンデくんのチャンピオンマントが羨ましかったよ。妬ましかった。だけど違ったの、わたしはマントが羨ましかったんじゃない、ダンデくんの誇りが羨ましかった。いつまでもバトル馬鹿でいられるダンデくんが」
「バトル馬鹿」
「そりゃチャンピオンのダンデくんはかっこよかったよ、ガラルの誰もが憧れて誇るヒーローだった。でもね」
ダンデの頭のすぐそこに手をついたソニアが、勢い込んでダンデを見下ろした。至近距離の切実な眼差し。彼女は傍らで臨戦態勢を取るウソッキーにも気づかず、まっすぐにダンデを射抜く。
「わたしは今のダンデくんだってすきだよ」
ウソッキーは興ざめしたように去っていった。
お、とダンデが声を取りこぼす。あ、とソニアが口を噤む。ふたつの声はおおむね同じタイミングで生まれて、同じタイミングで消えていった。
沈黙。
ガア、とアーマーガアが頭上を通り過ぎていく。
「……な、んちゃって」
「ソニア」
無理がある。
人のことを散々やり玉に上げたくせに彼女の冗談も大概だ。名前を呼ぶなりソニアは一気に顔を赤くして、忘れて、と勢いよく身を離した。
「わ、わたしホップの様子見にいかなきゃ、げきりんの湖って今頃ウォーグル——きゃあ!」
「ホップなら心配いらない」
「うそ! あそこのウォーグルえぐいって!」
身を起こしてソニアの腕を掴んで、引き止めたはずが思ったよりも力んでいたようで結果的に引き寄せる形となった。バランスを崩した彼女をダンデは難なく受け止める。両腕に収めたからだは思っていたよりもずっと華奢でやわらかい。
「ホップはチャンピオンも認めた男だぜ、心配いらない。本当だ」
「わか、わかったから、離して」
「逃げないか?」
「めちゃくちゃ逃げたいよ」
じゃあ駄目だと、名分を得たダンデは心置きなくソニアを抱きしめる。
ひくりと細い肩が強張った。彼女はダンデの視線から逃げるようにうつむいて、逃げないから、と消え入るような声で訴える。そうか、とダンデは笑いながらそれでも彼女を離さない。
「実のところチャンピオンじゃなくなって気が楽だったんだ。ようやく解放されたとも思ったよ、がっかりするか?」
「しないよ、長いことよくやってたよ」
「ああ、オレもそう思う。だけどいざ自由の身になってみると変なんだ、今まで通りに好き勝手やっていいのか急にわからなくなった」
ソニアが顔を上げる。頬にはいまだ朱を残したまま、それでもその瞳はまっすぐにダンデを案じていた。大丈夫だと、どこまでも世話焼きな幼馴染にダンデは笑いかける。
「わからないなんてオレらしくないとも思ったよ、だけどこれでいいんだ。簡単だ。だってチャンピオンじゃないオレはこんなにも」
こんなにも。小さくて臆病な男だったのだ。
わがままひとつさえ幼馴染の前でしかこぼせぬほどに。
「ソニアはすごいな」
ちっぽけで身勝手なわがままだ。それでも彼女は当然のようにそれを掬い上げて、受け止めてくれる。
だからダンデはダンデを見失わずにいられる。
「ぜんぶ吹っ切れた。オレも同じだ」
「は?」
「白衣なんて関係なかったな。ソニアはずっとソニアだ、だからオレはずっと」
「えっ、待って何言おうとしてる? 今? それ今!?」
「オレもソニアが好きだぞ」
「待てっつーの!」
からから笑うダンデの口を、ばかなの、と叫んだ彼女が渾身の力で押さえた。今さら塞いだところでどうにもならない、そもそも先に口を滑らせたのは彼女のほうだ。
やわらかい感触につい下心が疼いて、ダンデは衝動のまま彼女の手のひらを舐めた。ぎゃあ、と悲鳴を上げたソニアがダンデを突き飛ばす。突き飛ばそうとして、けれど屈強なダンデの腕には敵わずあえなく失敗に終わった。
「ソニア」
「待ってむり、心臓吐きそう」
「オレのせいか?」
ほかに誰がいると毒づいた彼女が、う、だのあ、だの意味を成さぬ言葉を羅列して、やがてくたりとダンデに身を預けた。
「……白衣じゃないときに口説いて」
「よしきた」
ウソッキーが遠巻きに様子を窺っている。あとでな、と目配せをして、ダンデは腕の中の小さな幼馴染を抱きしめ直した。まるで子どものような不慣れな抱擁。主人の悲鳴を聞きつけたワンパチが駆けてくるのが見えたが、彼女が気づくまで黙っておこう、とダンデは今すこしの体温を堪能する。
(2019/12/01)