空中楼閣の夢
二日酔いの一歩手前のような、混濁した意識にささやかな酸欠を添えてダンデは起床した。
むくりとベッドから起き上がる。
沸き上がる疑念や感情、ふやけた記憶と心当たり、明らかに負荷の強いそれらを起き抜けの脳味噌はひとつずつ処理して、最終的に行き着いた感想は飲みすぎた、という至極ありふれたものであった。噂にきくあれか、とダンデは頭を掻く。酔った勢いとか酒の過ちとか若気の至りとか。
場所、自身が取っているシュートシティのホテルの一室。
時間、心許ない薄暗さからしておそらく明け方かその前。
状況把握は問題ない。昨夜の記憶もかろうじて残っている。問題ない。
唯一の問題は隣で眠る彼女だ。
「………………ダンデくん?」
訂正。
たった今目覚めて混乱と混迷と困惑を極めるソニアである。
「おはよう、ソニア」
「お、おは……、え、あれ?」
ソニアは自分の置かれた状況を数秒ほど吟味してから、おはよう、と途切れたままの挨拶をやり直した。その間にも優秀な頭は状況の分析から考察そして理解にまで辿り着いたようで、う、のあたりから徐々にソニアの表情が強張りはじめる。
「や、……った……?」
「その言い方が合ってるならな」
「やってたらそんな落ち着いてないよね」
「セックスならしたぜ」
「やってんじゃん!」
みなまでいうな、とソニアの声は悲鳴に近い。
ダンデは苦笑する。さいあくほんと最悪と泣き言を散らかす彼女はそのままばさりとシーツを被り、ひとまずダンデの視界から消えることを選択した。なんでもいいが最悪を連呼しないでほしい。
「ソニア?」
「ぜんぶ覚えてるの、ダンデくん」
「そうだな」
「ものは相談なんですけど」
ソニアの声がくぐもる。シーツに遮られた分いささか感情が汲みづらい。けれど少々考え込みやすく少々ネガティブなソニアのことだ、相談という名の自己逃避であろうことはダンデにも想像がつく。
「……わすれてくれない?」
案の定である。
読み切ったダンデの答えは早い。
「いやだ」
「即答……」
早々に次の手を失ったソニアがシーツの下で動きをなくした。息はしている。ゆったりと呼吸の形だけえがく塊を、ダンデは先の言葉を否定する気も起きずにただ見つめる。忘れてほしいと言われた。嫌だった。それ以上に展開のしようがない。
「……なんで」
「うん?」
やがてソニアがぽつりとこぼした。その声はどうにか普段通りを保とうとしていて、ほんのわずかでも冗談で片付く道が残っていないか探しているようにも聞こえる。
「なんで? わたしだっていやなんだけど。ダンデくんわかってんの? 全部終わっちゃうんだよ、ともだちも、幼馴染も、ライバルも、ぜんぶ」
「構わんぞ」
「構うってば、わたしはいや」
「ソニア」
「いや!」
引き攣った声が、静寂を巡らせた室内にいびつに響く。
彼女は頑なだ。けれどダンデも頑なだった。むっとなったダンデは彼女がかぶっているシーツに指をかけて、抗う手も難なくかわして息苦しそうな世界を開かせる。彼女は往生際悪く背中を向けたまま。
「なにが、嫌だったのか」
「……」
「教えてくれないか、ソニア」
触れようとして、やめた。
丸められた背中が見るからにダンデを拒んでいる。下手に触れると本気で拒絶されかねない、そういう不安定な神経質さを滲ませていた。彼女は一体何に怯えているのだろう。強張った肩は形にならぬ葛藤をダンデに訴えるようでもある。
「……ぜんぶなくなるのが、嫌」
「ぜんぶ?」
「カレー掻き込んですぐどっか飛んでく幼馴染とか、いっしょにガラル粒子の資料漁る友達とか、迷子の思い出しかないライバルとか」
「思い出もうちょっとどうにかならないか」
「わたしは大事にしてたの。忘れてくれないとか、じゃあどうすんの? 恋人になるの? そんなすぐ壊れちゃいそうな関係に?」
わたしはいや、と彼女はこれまでの自分たちに執着する。
ダンデは天井を仰いだ。なるほど、と得心がいく。これまでの曖昧な距離はたしかに心地が良かった。一歩近い幼馴染であって一歩遠いライバルでもある。交わる道と交わらぬ道、それを互いに楽しみながら実のない応酬を繰り広げたりもして。
ぬるま湯のような不確かな関係。
彼女にとってそれ以上に確かなものはなかったのだろう。
「だったら」
そうして今、ダンデの胸中に燻るのは当然の疑念だ。
「だったらどうしてオレを拒まなかったんだ」
ひくりと薄い肩が震えた。
ダンデは慎重に彼女の肩に触れる。振り向くまいといっそう身を強張らせて、覚えてない、とソニアはこの期に及んでまだしらを切る。
「ソニア」
「わかんないよ、酔ったテンションってあるじゃん、なんかいけそうみたいな」
「どこにだ」
「振り出しに戻れる。ダンデくんもわたしと同じで、なかったことにしてくれる」
「買い被ってるな。オレはそんなに聞き分けよくないぜ」
「どうしてもだめ?」
「だめだ。ソニアが二回目びびってヘッドボードに頭ぶつけたことだって忘れない」
「なんでそうどうでもいいこと覚えてるわけ」
忘れてよ、とソニアの声が掠れる。
ダンデはゆっくりとソニアの肩を引き倒した。ようやくかち合った翡翠色は不思議と凪いでいて、大雑把に突き進むことしか知らぬダンデにはそこから微細な感情を汲んでやることなど到底できやしない。見えぬ葛藤、押し殺された感傷、そこにひとつ、見知った感情を見つけた。
諦観の色だ。
「——ダンデくんがすき」
ソニアは息を吐くように笑う。
「それ以外にないじゃん。ゆうべそうなったのも、今こうなってるのも」
彼女の声は自嘲するかのようでもある。諦めたのだろう、ダンデはとうに腹を括っている。
大切な幼馴染だった。大切な友人だった。隣にいる理由ならいくらでも持っていたのだ。だったら、とダンデは欲張る。だったらひとつくらい理由のいらぬ関係があったっていい。
ダンデはそろりと小さな手のひらに触れた。
「オレだってソニアが好きだ」
ずっとだぞ、とダンデは笑う。
「なくなるならとっくに全部なくなってたと思わないか? 計算がちがうぞ、ソニア博士。むしろ増えるくらいだ」
「うそだあ」
「本当だ。大事にする理由が増えるだけだ」
なにもなくなりやしない。
ソニアは小難しい感傷をその瞳に湛えて、ほんとうかな、と不安げに口元を歪めた。本当だといいなあ、とダンデの手を僅かに握り返す。絡めた指先は少し冷たい。
変わる関係に思いを馳せる。彼女の不安をわかっていながら踏み止まらなかったのはダンデだ。それほどの思いを彼女はどこまでわかっているだろう。身勝手な執着にも居直るほかなく、なにも心配いらない、とダンデはあやすように唇を寄せた。
(2020/02/11)