咲く花に寄せて
 子どもたちは未来を取り戻し、古代ポケモンは再び眠りにつく。  目を覚ますと事態はすでに収束へと向かっていた。  バ・グーンの医務室でミクリは意識を取り戻した。起き上がると傍らにいたダイゴが、安堵と疲弊を滲ませながらすべて終わったよと笑う。そうか、と頷いたミクリの二言目は彼女を求める言葉だった。 「ナギは? 彼女は無事か?」 「ああ。さっきまでいたんだが」  ダイゴが呆れ混じりに立ち上がる。 「呼んでくるよ。その体で先に彼女の心配をするあたり、なんというか相変わらずだな」  ちなみに僕も無事だ、と両手を広げるので見ればわかるとミクリは笑う。生きていて安心した、と告げると彼は満足げに口角を上げた。  ダイゴが部屋を出ていく。一息つこうかと思った矢先に全身が軋んだ。未曾有の大災厄を前にうっかり失念していたが、思い返してみれば相当痛めつけられたのだ。こんな身で他人を案じたところで説得力はないな、とミクリは友人の苦笑を思い返す。  この痛みに後悔はない。ナギは怒るだろうけれど。  彼女が無事なら何でもよかった。  扉の開く音がして、顔を上げると案の定険しい顔をしたナギがいた。疲れた様子ではあるが目立った怪我はなく、ああ、とミクリはようやく胸を撫で下ろす。ああ、ほんとうに無事だ。ほんとうによかった。 「ナギ」 「——この、馬鹿が!」  第一声がこれである。やっぱりか、とミクリは笑ってしまった。ひどい戦いの末、お互い生きて再会できたというのに。 「まあまあ。全員無事に済んで何よりじゃないか」 「何が全員無事だ……!」  はたとミクリは口をつぐんだ。  彼女の声が震えている。いつだって光を失くさぬ瞳がゆらりと揺れて、涙を纏った。 「ナギ」 「どうして……っ」  瞬いた拍子に涙がひとつ落ちて、ぱたりとシーツを濡らす。  手を伸ばすことも忘れていた。ミクリは茫然と彼女の涙を見つめる。怒られるとは思っていたが、まさか泣かれるとは。 「……私は、きみを傷つけたのかな、ナギ」 「違う! 私が、おまえを……」 「ナギ」  ようやく右手がいうことをきいた。震える指先を包み込むようにして、自分の体温よりもずっと冷たいそれを握りしめる。はっとしたナギが手を引こうとしたが、ミクリは離さなかった。 「……私はきみが大事だよ」  途端にナギが怯えたような顔をする。やめろ、と小さな唇が小さな拒絶を紡いだ。あまりに拙い抵抗だ。ミクリは彼女の手を強く握りしめて、偽りようのない感情をゆっくり形にしていく。 「きみは怒るかもしれない、それでも私はきみに傷ついてほしくないんだ。守りたいと言ったら嫌がることもわかってるよ、だからせめて傷を負ったときは傍にいたい。傍にいてほしい」 「や、やめてくれ」 「ナギ、私はきみが」  何かを言おうとして、結局何も出てこないまま、ナギはゆるゆると首を振った。聞きたくない、と声にならぬ声が聞こえる。いつだって強く、誇り高く、まっすぐな彼女の、途方もない不器用さがこんなにもいじらしい。 「……聞きたくないかい?」 「だめだ、ミクリ。これでは、私は、また」 「私の気持ちは変わらないよ」 「そんなこと、私だって……!」 「ナギ?」  ミクリはナギを見つめた。揺れる瞳で、揺れる声で、思わずあふれ出たというような言葉だ。途切れた先の本音を、彼女はいつも口にできない。 「……心臓が、潰れるかと……」  怖かった、と告げるナギの声は、普段とかけ離れてひどく頼りなかった。 「私のせいで、おまえはひどい目に遭って……私はやめろと叫ぶこともできなかったんだ」 「あれはナギのせいじゃない、悪いのは奴らだろう」 「ああ、おまえならそう言うと思っていたよ。それでも、私は息もできないほど苦しかったんだ。こわかった。おまえが、もし、目を覚まさなかったらと」  彼女が自分の弱さを吐露することは滅多にない。それほどの恐怖だったのだろう。本当なら、その脆さも優しさもすべて抱き締めてしまいたいのに。 「……わかっただろう。この一件でもおまえを何度も傷つけた。私だっておまえを傷つけたくないんだ、傍にいてはいけない」 「……そうか」  よくわかったと、ミクリは目を伏せた。  ずっと燻っていた感情がある。本当は手放したくなくて、それでも彼女が大切で、彼女から離れるほかなかったこと。負担になることも傷つけることも怖くて手を離すほかなかったこと。果たしてそのこたえは正しかったのだろうか。あの時は正しかったのだろう。  今は違う。ミクリのすべきことは、怖れることでも迷うことでもなく、彼女の手を取ることだ。 「いくら傷ついても構わない。私はきみが好きだよ」  もう一度。揺らぐ瞳をまっすぐに見据える。  呼吸すら忘れたナギは、言葉を探し、逃げる道を探し、やがてそのどれもが見当たらないとわかるや、どうにか表情を取り繕おうとして失敗した。止まったはずの涙がひとつ、こぼれ落ちる。 「わ、私は」 「ナギ」  ミクリは掴んでいた手を強く引き寄せ、今度こそその痩躯を抱き留めた。ひく、と強張った肩は、けれどやがて諦めたように力を抜いていく。片腕という状況がただ惜しかった。 「ミクリ、私は、あの時もおまえを傷つけて」 「うん」 「わかっていたんだ、私のためだと、なのに私は」 「いいんだ、ナギ。あれは私の弱さでもあった。ナギのせいではないよ」 「やめてくれ。このままでは、また、おまえの優しさにすがってしまう」  触れた肩が記憶していたよりもずっと華奢で、そのアンバランスさにミクリはひどくやるせなくなった。どれほどの荷がこの肩にのしかかっていたのだろう。重いと、苦しいと、それすら叫ぶのが下手な人なのに。 「こうやって泣くくらいなら、すがってくれ、ナギ。いくらでも」 「いやだ、おまえの負担になんてなりたくない」 「私だってきみにつらい思いはしてほしくないんだ」  わずかに身を離して、ふたつの感情の狭間で揺れる瞳をひたと見つめる。赤い目元が不釣り合いにあどけない。 「負担なんかではない。逆だよ、ナギ。私はもっときみの肩の荷を引き受けたいくらいなんだ」 「だが、それでは……」 「私はきみが好きだ。それは何があっても変わらない。死にかけたって変わらなかった。余計なことは考えなくていい、私の想いだけを信じてくれ」  まだ事態がすべて片付いたわけではない。きっと互いにやることは山積みで、体中の怪我だって治さねばならなくて、医務室で抱き合っている場合ではないことくらいわかっている。それでも今でないと駄目なのだ。後悔するのも迷うのももうたくさんだ。 「観念したらどうだい、ナギ」  ついにナギの体からふつりと力が消えた。ここまで決して身を預けようとしなかったナギが、ミクリの肩に力なく頭をもたれさせる。 「……信じていいのか?」 「当たり前だろう。もう一度、ちゃんとやり直そう、ナギ」  彼女の頭に頬を寄せ、ようやく帰ってきた安堵感に、ミクリはそっと息をつく。  ありがとう、と消え入りそうな声が聞こえた。それはこちらの台詞だ。彼女の強さと弱さとを今度こそきちんと抱き締めてやりたくて、片方の腕に今持ちうるすべての優しさをこめた。

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