てのひらに純情
階段を上がるとそこに惨状が広がっていた。
ポケモン馬鹿を地でいく幼馴染が偏った好奇心や探究心から研究所に入り浸ることは珍しくなく、ソニアは無茶な絡まれ方をされない限り基本的には放置を決めている。その結果時折こうして後悔する羽目になる。そこかしこに積まれた文献、資料、検索結果を表示したまま放置されたスマホロトム、狭いスペースで器用に巣を広げ、その手前でダンデが資料を捲りながらぶつぶつやっていた。
ソニアは嘆息する。
ロトムがかわいそうだ。
「……ちょっとそこのひと、邪魔なんですけど」
「おお、すまん」
言ったきりダンデは再び彼の世界に戻ってゆく。場所を空けることもなければそれらしい様子も見せず、ええ、とソニアは面食らった。退いてくれない、けれど返事はある、どうしろというのだ。
「ダンデくん、場所空けて」
通れない。ストレートにクレームを入れるとダンデはぺらりと頁を捲って、あと少し、と告げた。
ソニアは早々に諦めをつけた。彼のあと少しが少しであった試しがない。
「ダンデくんさー」
階段に腰掛ける。
煮詰まった論文の息抜きもかねて、話しかけるだけ話しかけて彼の気を散らそう、という作戦に出ることにした。
「こんなとこでぶつぶつやってないでたまには家帰りなよ、おばさんに顔見せてんの?」
「ああ」
「とか言ってどうせほんとに顔見せたくらいで終わりでしょ、ホップと会ってる? 話した? ここ最近あいつの初恋話で持ち切りなの知ってる?」
「ああ」
ぜったいに知らない。
ソニアは半眼になって頬杖をつく。
「いやもー若いよ、若い。初恋とかさ、何年前? みたいな、まじ聞いてないでしょダンデくん」
「んん」
「相槌変えてもだめだから。なんなの? これだけ話しててよく集中できるね? このままソニアさんの初恋話でも聞く?」
「おう」
「おうじゃないよ」
スマホロトムがいよいよスリープに入った。ソニアはソニアで行き詰まった論文の仮説をひとつずつ辿りながら、初恋なあ、とついでに大して甘酸っぱくもない記憶も辿る。
「わたしの初恋はねえ、今思うとあれ庇護欲から始まったんだよね、もうほんと手かかるし世話焼けるしでわたしがいないとだめだこいつみたいな」
「うん」
「ずーっと隣で面倒見てて、見てるつもりで、でも実際違くて、ある時気づいたわけ。手貸してるつもりでわたしが支えてもらってた。振り回されてるつもりで引っ張ってもらってた」
仮説と仮説の整合性。検証にあたってデータがいまいち弱い。やはりもう一度ワイルドエリアへ、と今度は脳内でスケジュールを辿り始めるソニアに、ダンデは相変わらずそうか、と無頓着な相槌を打つ。
ああ本当に聞いていない。この男。
「まあ気付いた時にはわたしの手なんて必要なくなってたんだけど。がんがん先行っちゃうから引っ張るどころか引きずられてたし、最終的に足止めちゃったのわたしのほうだし、関係ないけどダンデくん今週ワイルドエリア行く予定とかない?」
「ああ」
「あ、うん、いい、あとで聞くわ。そんな感じでわたしの初恋は背中見送って終わりました。そろそろ通してくれない?」
天候ごとのデータがほしい。とりわけ雷雨。けれど彼の場合検証地点に若干の不安が生まれる。まるごとエリアが違いました、というオチも大いにありえる。大いに笑えない。やはり自分の足で向かおう、とソニアは髪をいじりながら結論を弾き出した。
「——そいつは」
「え? ああ、ダンデくん、やっぱワイルドエリアいいや」
「そいつは、無敵のチャンピオンになったんだろ?」
「え、うん。え?」
え、とソニアは声を取り零す。彼の言葉に肯定する、それがどんな意味を持つのかじんわり理解が追いつき始めて、あわせてソニアの耳がじんわり熱を持つ。
ダンデが資料を閉ざした。今まで見向きもしなかったくせにあっさり視線を寄越して、それとも、とソニアの手を捕らえる。
「それともオレ以外の男に初恋か?」
ふつりと呼吸が止まる。
心臓まで止まるかと思った。
「は……っ、なに、聞いて」
「ずっと聞いてたぞ」
「わ、わたしの初恋……?」
「ワイルドエリアの件も」
「なんなの!?」
これだからマルチタスク人間は嫌いだ。
ずるいひどい詐欺だと喚くソニアにダンデはけろりと笑った。いいことを聞いた、などとのたまってソニアの羞恥と不満と血圧とをいっしょくたに煽る。
「ワンパチだったらどうしようかと思ったんだ、普通に妬けるな」
「馬鹿にしてる? 馬鹿にしてるな!?」
「ソニア」
するりと。指先が絡んだ。
ダンデの眼差しがまっすぐにソニアを射抜く。喉元まで出かかった文句も愚痴も八つ当たりもすべて力をなくして、じりじり胸を焼く小さな予感にソニアはこくんと喉を鳴らした。なに、とかろうじて声を絞り出す。
「ソニアの初恋は終わったのか?」
「しにたくなるから蒸し返さないで」
「そうか。オレは終わってないんだ」
彼のマイペースがハイペースすぎてついていけない。ダンデは頑なにソニアの手を取ったまま、怖じけづくソニアを引きずるように先へ先へと導いてゆく。ああ、本当にこの男は変わらない。
「オレの初恋の話をしよう」
長くなるぞ、と琥珀色の双眸が熱を孕んだ。
ほら見たことか。ソニアはくらくらしながら数分前の自分に辟易する。彼のあと少しが少しであったためしがない。
(2019/12/30)