ピアーズはクリジルシッパー
オフィスに顔を出した上司の表情はずいぶん物騒で、その顔が不機嫌や苛立ちの部類ではなく焦燥のたぐいだと知るピアーズはお疲れさまですと冷静だった。ああ、と生返事を寄越したクリスがジルは来たかと問うので首を振る。
「きたら伝えますよ、ひどい形相で探し回ってるって」
「……俺そんなにひどい顔してるか」
ピアーズは答えなかった。クリスも深くまで追求はしなかった。
助かるよ、と本音か皮肉かわからない、おそらく彼の性分からして前者だろうが、簡素な言葉を残してクリスはオフィスをあとにする。ドアが閉められて遠ざかる足音を確認し、さらに数秒をかぞえてから、ピアーズはデスクの裏で息を潜める彼女に声をかけた。
「行きましたよ、ジルさん」
「ええ、ありがとう」
ジルは蹲ったまま、助かったわ、と先の上司と似たような台詞を吐く。ピアーズは溜息混じりに彼女を見下ろした。
「なんで鬼ゴッコ? 新手の訓練です?」
「どっちかっていうと隠れんぼね」
「いやどっちでもいいです」
数刻前である。
生ける伝説と謡われるクリス・レッドフィールドが、長らく相棒をつとめるジル・バレンタインにようやく募らせた想いを告げたらしいと、その話は事務職員から上層部、下手をすると現場に出ている隊員にまで広がっている。ピアーズはその現場に居合わせた。切羽詰まった上司にロマンチックな場所を選ぶ余裕などあるはずもなく、会議室の手前でギャラリーも多数、それでも今この瞬間、長い戦いを生き抜いたふたりがようやく思いを通わせるのだと、その感動を不特定多数の同志たちと待ち望んだ。口笛をかまえる者もいた。そうした矢先に、あろうことか彼女は逃亡したのだ。
長年の相棒に告白して逃げられた。
目下英雄に付きまとうレッテルは悲惨きわまりない。
「怖気づいたわけじゃないんでしょう?」
「まさか」
だろうな、とピアーズは瞑目する。ゾンビ――には吐いたらしいが、手強いクリーチャーにも果敢に立ち向かう彼女がひとりの男、ましてや気心知れた相手の言葉ひとつにまさか怖気づくだなんて。
ジルはすこし笑った。だって何年待ったと思う、とその問いかけは独り言に近い。
「さあ、考えたくもないですね」
「でしょう。少しくらい焦らしてやらないと割に合わないわ」
「なるほど」
したたかなことだ。
所詮これもひとつの戯れに過ぎないのだろう。悪戯な口ぶりは長年の関係を今少しと名残惜しんでいるようにも聞こえた。悪いのはここまで甲斐性を見せずにきた彼のほうだ。それでも明日にはきっと寄り添っているであろう英雄たちを思って、どうだ世界は平和だ、とピアーズは誰にともなく大声で叫んでやりたかった。
はすみのクリジルへのお題は『知ってたよ、君の答えは』です。
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恋とか愛とか
不器用だの朴念仁だのと散々笑われてきた彼なりの配慮であろう、遠慮がちなキスはいつもくすぐったくて、まさかこんな形で彼の優しさを知る日がくるとは、とジルは可笑しい。
「……ジル?」
「ごめんなさい」
たまらず笑い出したジルにどうしたと問う、その台詞こそ穏便だが彼の表情は複雑で、かち合った双眸にはむしろ中断されたキスへの未練がわかりやすく滲んでいる。そういうところだ。
「私、考えてみたらあなたに恋したことない気がして」
「――それは」
クリスがかくんと瞑目した。
「それはヘッドショットよりえぐい」
「無駄なく確実に仕留める?」
「きみ俺を仕留めるつもりだったのか」
捉えようによっては、とジルは肩を竦める。キスも甘い言葉も下手に違いないと一方的に思い込んでいたような相手だ。野暮と名高い男が、けれど俺が仕留めたんだ、と思いがけない口説き文句を寄越したのでジルはふたつほど瞬きをした。
「意外」
「俺は君が思ってるよりも君のことが好きだったぞ、君とは違って」
「それ皮肉? 似合わないわよ」
何か言いかけて、諦めて口を閉ざしたクリスが言いたくもなる、と溜息交じりに溢した。
「だってそんな余裕なかったもの、生きるのに必死で」
「そういう極限状態でこそ芽生えるものがあるんじゃないのか」
「吊り橋効果って知ってる?」
「吊り橋か? あれが?」
確かにそうだ。ジルは笑ってしまった。
悲惨な犠牲者、死にゆく同胞、少しでも油断すれば憐れな化け物に食われるか同類と化してしまうような現場である。生きるか死ぬかの境界線はあまりに曖昧で、たしかに吊り橋と呼ぶにはいくらか苛烈に過ぎる。
「あなたを頼りにしてたことも大事に思っていたことも本当よ、死んでほしくなかったことも」
「ジル」
「だれよりも強くて優しいことも知ってる。寡黙だなんて言われてるけど感情的で向こう見ず、正義感だって昔とかわらない。あと案外打たれ弱いし致命的に鈍いし、懲りずに装備は落とすし」
「君に言われたくないな」
「装備落とさないわよ、私」
「そっちじゃない」
にぶい、と指摘されてジルは笑い出した。よりにもよって彼に言い切られるとは。
「複雑なのよ、あなたの気持ちも自分の気持ちもちゃんとわかってたけど」
「そうか?」
「長い付き合いだもの。それでも恋じゃなかった、あなたへの信頼も愛情も、そんなもので括るつもりはないわ」
希望も絶望も共にした。背を預けて預けられて、互いに数え切れぬほどの傷を負って、戦い続ける中で膨れゆく感情はたしかにあった。信頼していた。心配もしていた。だれよりも大切だった。恋よりもずっと無骨で居心地がよくて、そこに名前をつけることのほうがよほど野暮にも思える。
彼との関係。彼からの信頼。紙一重の感情と執着。
だれにも譲るつもりはなかった。
「それで? 俺の傷を抉るのが目的か?」
「まさか」
どうやら拗ねている。ジルは笑いながらクリスの髪を掻き上げた。
「愛してるって言おうとしたのよ」
知ってるかもしれないけど。囁くとクリスが目を細めて、意外だ、とうそぶいてジルの軽口をふさいだ。じゃれつくようなキスはやはりくすぐったくて、そのくせキスらしい甘やかさはたしかにあって、こんなキスのほうがよほど意外だ、とジルはこみ上げてくる笑いを今度こそやり過ごした。
はすみのクリジルへのお題は『境界線なんていらない』です。
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臆病者の言い訳
白い肌を巣食う傷跡に指を添える。すでに薄くなったもの、真新しいもの、きっと消えぬ傷跡、いくつもの傷を辿ってクリスはふいに遣る瀬なくなった。最初の悪夢からずっと彼女は隣にいて、隣で支えて、当たり前のように血みどろになって戦ってきた。決して生易しい道ではない。彼女はどうして戦うことを選んだのだろう。
「君の、強さが羨ましいよ」
「クリス……?」
「傷を負う必要なんてなかったはずなんだ」
こんな道を選ぶ必要などなかった。無骨な銃火器を背負って化物と対峙し、クリスよりもずっと華奢な体を長らく危険に晒し続けている。彼女ほど頼もしい同胞も他にいない、けれどこうして生身の彼女を目の当たりにしたとき、その認識がいかに残酷であるかを思い知る。
「安全な場所にいてほしいなんて、俺が言ったら怒るか」
「そんなこと」
「だけど、君がいないと、俺は」
彼女が生きていてくれないと。彼女が隣で戦っていてくれないと。相反するふたつの我が儘を、ジルはわかってると甘美な声で受け止めた。大丈夫、と細い腕でクリスを抱きしめる。
「ジル」
「大丈夫よ、愛してるわ、クリス」
囁くような声、じかに触れる体温がクリスの不安を包み込む。頬に添えられたてのひらが温かくて泣きたくなった。今だけは愚かな臆病者に成り下がって、優しい彼女の愛を乞う。
本人たちにもわからない
ただの同僚にしては距離が近い。深い関係にしては甘やかさに欠ける。部下どころか長い付き合いを有する昔馴染みでさえ好奇の目を向ける関係性について、けれど、クリスは期待に添った答えどころか答えそのものを持ち合わせていない。興味を持つのは結構だが持つだけ無駄というのがクリスの所感である。
「結局どういう関係なんですか」
どうって、とクリスは口籠る。自分だって知りたい。
同僚で戦友で相棒で、自分たちの関係を表す言葉はあまりに多くてあまりに足りない。お前たちが期待しているようなものじゃない、と当たり障りなく躱そうとした矢先にぐんと腕を引かれた。割合に容赦のない力である。無防備に傾いたクリスの頬に、おそらく通りがかりであろう、ジルが掠めるようにキスをした。
「こういう関係」
ゆるやかに腕を絡めて片目まで瞑る始末である。え、と固まる部下たちの目に映るのは突如見せつけられた高度な戯れ合いか。あるいは彼女の思わぬ茶目っ気か。
クリスは両方である。
「……本当か?」
「さあね」
どう思う、と頬をつつかれる。いたずらに笑う唇をいっそのこと掠め取ってしまおうかとも思ったけれど、やはりこの距離が惜しくて踏み出せない。部下をからかうな、と彼女の手を取ると、当の部下たちは勘弁してくださいと溜め息混じりに散っていった。
140字リサイクル「苦し紛れで」