いっそ逃げてしまえたら
彼が自分をどう思っているかも、自分が彼をどう思っているかも、互いにずいぶん昔から知っていて、その上で長い時間を友人として相棒として過ごしてきた。死にかけたこともある。消息のわからなくなったこともある。身も心も傷の絶えぬこの日々が、いつかすべて笑い話になったとき、息を潜めた感情がようやく息づくのだろうとジルは思っていた。
けれど。あまりに長い戦いだったのだ。
「君が大事なんだ」
なにかを諦めた瞳でクリスは告げた。この仕事に誇りを持っている、少しでも世界や誰かを守れたらと思う、そう言った後の、だけど、という言葉に続くものだった。何を諦めようとしているのかジルにはわかる。本当なら聞きたくなどなかった。
「これまで何度も君をなくしかけた。本当になくしたこともある。同じ思いを君にさせたことだってある。もう充分だと思ったんだ」
「充分?」
「俺も、君も、充分たたかった」
だから、と彼が手を差し出す。不器用な笑い方が似合わなくて余計に痛ましい。ジルはその大きな手に触れた。幾度も守られてきた大切な手だ。
「君を愛してる」
「……ええ」
「このまま、どこかへ逃げよう」
終わりにしよう、彼が諦めたのは戦うことだった。ジルや同胞、部下たちを目の前でなくす恐怖と、同胞の死を踏み越える懊悩と戦うことを彼は諦めた。
触れた手を彼が握り返す。微かな震えが伝わった。すまないと聞こえた気がする。ジルはかぶりを振って、あなたが望むのなら、とどうにか微笑んだ。
「あなたが本当に望むのなら私はどこへでも行く。ずっと隣で戦ってきたのよ、逃げる時だって一緒じゃないと」
「ジル」
「だけど私にはわかるわ、人並みの生活を手に入れたふりをして、テロのニュースが流れるたびにあなたはチャンネルを変えるのよ。これまでの色んなものを見ないようにする」
自分の逃げた戦場で誰かが死んでゆく、彼にはきっと耐えられない現実だろう。見ないようにして、その挙げ句にひどい夢を見るかもしれない。大きく震えたクリスの手が間違っていないことを如実に表していて、愛おしくも愚かしいその実直さがジルは可笑しかった。
「私は平気よ、あなたがいればね」
「俺は――」
「逃げたいならいいわよ、逃げましょう」
彼は答えを出さぬまま項垂れた。それが答えでもあった。どこまでも強く不器用な彼が、彼自身の心から逃げられるはずがなかったのだ。
すまない、とクリスが再び呟く。弱虫とせり上がる声を押し殺して、私も愛してる、とジルは笑った。
【はすみのクリジルの場合】
愛してると突然言われた。そして、だから逃げちゃおうよと笑いかけられる。全部から逃げようよ。差し出された手は震えていた。弱虫の癖に、と呟いた声は、届かなかった。
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うっかり
しんと耳鳴りのような音がやまない。その向こうからどうやら自分を呼ぶ声があって、ジルはどうにか瞼を押し上げた。揺らぐ視界、ぼんやりと捉えたのは必死の形相で呼び掛ける相棒の顔である。少しずつ耳鳴りが遠のいて彼の声が届く、体中の痛み、抱き起こす彼の腕の感触、あらゆる感覚が一度に戻ってきてジルはようやく現状を思い出した。
「……大丈夫よ、生きてる」
「ジル」
「そんな顔しないで」
英雄と謡われる彼が随分と情けない顔を。できれば彼の頬に手を伸ばしたかったけれど、思った以上に腕が重たくてそれすら叶わない。ふうと息をついてたくましい腕に身をゆだねる。手を彷徨わせると彼が握りしめてくれた。
「しっかりしろ、ジル」
「クリス……」
「頼む、ジル、死なないでくれ」
絞り出すような声に大袈裟だと笑ってやりたかった。けれどずるずる落ちてくる瞼が彼の不安を裏付けていて、案外大袈裟ではないのかもしれない、とジルは他人事のように考える。思えば彼に応じた声もずいぶん掠れていた。ジル、呼びかける声は耳に届くのに意識が重たくて応えてやれない。
「目を閉じるな、お願いだ。ジル」
置いていかないでくれ。泣きそうな声が懇願する。
「君を――きみを、愛しているんだ」
そうして紡がれた台詞である。
え、とジルは耳を疑った。
「――あれ」
おおよそこの場に似つかわしくない沈黙が訪れた。
体中の痛みも一瞬で飛ぶほどの一言である。朦朧とした意識でもわかる、苦しげに絞り出された声は確かにその言葉を紡いだ。気だるさも忘れて見上げた先、クリスは先までの悲痛な面持ちをどこへやったか、きょとんと目を丸くしている。
「生きてたのか」
「生きてるって言ったじゃない」
「……聞こえてた?」
「ええ、しっかりと」
クリスは盛大に息を吐いて項垂れた。両手が塞がっていなければ頭を抱えていただろう。嘘だろう、と先よりもよっぽど悲壮な声で言うものだからジルはうっかり噴き出すところだった。笑いを堪えて傷が痛む。本当に勘弁してほしい。
「あなたにしては随分ロマンチックだったわ」
「君のせいで台無しだ」
「本気?」
「もういいから喋るな」
到底死にかけているとは思えない。長年の付き合いを有する相棒から愛していると言われた、それが地獄の只中だというのだからまったく自分たちらしい。ジルはなんだか気分がよくて、大丈夫よ、と噛んで含めるように言った。
「これでもう死ねなくなったもの」
目を閉じて微笑む。力の強まる手のひらを握り返した。
「生きて帰ったらもう一度言って」
この会話が彼との最後だなんて考えたくもない。自分だって彼に言うべき言葉がある。包み込む体を揺らした彼が、少し間を置いてから約束するよと言うので、ジルは傷口の痛みも忘れて今度こそ笑った。
【はすみのクリジルの場合】
愛してると突然言われた気がして相手を見た。相手は驚いたように目を丸くして、まさか聞こえたのかと聞いてきたから頷いて答えれば嘘だと言ってくれと頭を抱えてしまった。
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公式がラブコメさせたがるのでさせた(5序盤)
脳天を撃ち抜かれた女がよろめいて、その皮の下から現れた本体が奇声をあげてクリスに襲い来る。銃声。血飛沫。再度脳天を撃ち抜かれたのは相手を間違えた憐れなクリーチャーで、耳障りな悲鳴を上げた化け物はしばらくのたうち回ったのちに動かなくなった。果たして脳天と呼んでいいものか。あまり考えたくはない。
そろりと顔を上げるとジルと目が合う。
背後に迫るクリーチャーをも冷静に撃ち抜いて、彼女はにこりとクリスに微笑んだ。
「──その女、誰?」
笑顔が綺麗すぎる。
いや、とクリスは思わず口ごもった。まず戦線で目にするような笑顔ではない。誰と言われても、と妙な汗がにじむ。
「だれだったんだろうな……」
というか何だったのだろう。
遠い目をするクリスに彼女は小さく息を吐いて、なんでもいいけど、と腑抜けた背中を叩いた。
「あの程度じゃあなたの相手にもならないわね」
「そうだな、君くらいでないとな」
「それ褒め言葉?」
目を眇める彼女に深い意味はないと取りなして、あまり役に立たなかったハンドガンを握り直す。危うく死ぬところだ。げんなりするクリスの頬にふと彼女の手が伸びて、クリーチャーのものとも元の女性のものともわからぬ返り血を指先で拭った。怪我はない、と訊かれる。つらい。
「逆をやりたかった」
「なにそれ」
「君にときめいてもらう」
「ときめいてる場合?」
言ったそばからぞろぞろと焦点の合わぬ感染者が押し入ってくる。場合じゃないな、と真っ当に応じてクリスは今度こそ銃を握った。一足早く応戦に入ったジルが次々と敵を撃ち抜いてゆく。ぶれぬ眼差しとぶれぬ指先、うっかり見惚れそうになるところを慌てて視線を引き剥がして、濁った声を上げる化け物たちに銃口を向けた。集中しろと自身に言い聞かせる、その一方でやきもちかと訊きそびれたことをクリスは静かに後悔していた。
公式サイトのクイズ「女性を保護したクリス、このあとどうなった?」→選択肢A「ジルが登場してラブコメスタート」
悪夢
彼女に向けて引き金を引く。
ひどく生々しい夢を見た。
夢の中の銃声で目が覚めた。
引き金を引いた感触がまだ指先に残っている。銃身の反動、硝煙のにおい、夢の途切れる寸前に見たのはくずおれる痩躯だった。からっぽの絶望感がじくじくと感情を蝕む。
呼吸がいやに熱っぽい。クリスは息も落ち着かぬままに隣を見た。彼女が眠っている。
「ジル」
声にならぬ、ほとんど吐息に近い音だ。覚束ない指先で髪を撫でて、触れるか触れないか、頬に手を添えて体温をたしかめる。穏やかな寝息。彼女の瞼が震えて、のろのろと姿を見せた瞳がクリスをとらえた。
「クリス……?」
どうかしたの、と彼女はやさしく囁いたはずだった。
言葉を成す前に唇を塞いでいた。
「――ん、何……ッ」
惑う彼女の唇を追って、クリスは苦しげな吐息を執拗に遮った。押し付けがましいキスにジルが強く抵抗する。引き剥がそうともがく腕を押さえ込んで、押さえ込もうとして、けれど失敗した。手が震えていた。
「クリス」
違和感に触れた彼女が宥めるように頬をなでる。やんわりとクリスの顔を離して、どうしたの、と今度こそその言葉が形を成した。
「何かあったの? ひどい顔してる」
囁く声が優しい。感情のやり場をなくして、クリスはまともな言葉ひとつ見出せずにジルの肩口に顔を寄せた。縋りつくクリスを包み込むように、彼女が大きく腕を回す。
「ジル――」
「大丈夫よ、ここにいる」
しい、と彼女の吐息が無力な言葉をやさしく遮る。寄り添う体が温かい。手に負えない感情がじんわりとほぐれていって、クリスはひとつ、頼りない息を吐いた。
「夢を見た」
「やっぱり」
「君を死なせる夢だ。この手で撃ち殺した」
「夢だってわかってるじゃない。それにあなたに殺されるなら悪夢じゃないわ」
クリスは顔を顰めた。冗談にしてはたちが悪い、けれど冗談ですらないのだからもっとたちが悪い。彼女はその言葉の残酷さになど気付いていないように笑って、過去の後悔から身動きできずにいるクリスの手をそっと引く。
「怒るぞ」
「もう怒ってる。忙しい人ね」
「ジル!」
「ごめんなさい。だけどあの三年のほうがよっぽど悪夢だったのよ」
自分でもわかるほどにクリスは情けない顔をした。彼女はやはり笑っていて、そんな顔しないで、とクリスの髪を掻き上げる。自ら地雷を放り込んでおいてずいぶんな無茶を言う。
消化しきれぬ感情があったはずだった。嚥下するほかなかった葛藤も。殺してくれと何度も願ったと、いつか聞かせてくれたひどい願いも嘘ではないだろうに。彼女はそれでもクリスに寄り添って、大丈夫だと繰り返すのだ。
「……あなたの手は」
ジルが額を寄せた。擦り寄るように収まった彼女が、クリスの手を握り締める。
「私を殺さないで掬い上げたのよ」
――それが。どれほど幸運なことだったか。
「お願い、あなたが苦しんだりしないで」
今のほうがずっと夢みたいなのだと。おどけたはずの声が、かすかに揺れた気がした。
ジルの手を握り返す。ひどい夢だった、けれどきっと彼女の悪夢よりずっとしあわせなのだろう。夢くらいで大袈裟だとどうにか反駁すると、そのまま返す、と彼女は息を吐くように笑った。
はすみのクリジルへのお題は『望んでいなかった幸せ』です。
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