ピアーズはクリジルシッパー②
軽快なノックのあとにオフィスのドアが開いて、失礼しますと形ばかりの声掛けとともにピアーズが現れた。その手にはファイルとタブレット、コーヒーがふたつ刺さったホルダーがいっしょくたに抱えられていて、器用なものだ、とジルは笑いながら彼を出迎える。
「お邪魔じゃないですか?」
「大丈夫よ、その資料面倒くさそうだけど」
「ちょっとジルさんの意見を伺いたくて」
言いながらすでにコーヒーをひとつジルのデスクに置いている。お願いします、と返答などわかりきったような声で念を押してくるのでジルは両手を広げた。もとより断るつもりもなかったが彼の根回しに仕方ないわね、の体を取る。そもそもコーヒーがもうひとつある時点で断られるという選択肢はないらしい。
「緊急時の撤退ルートなんですけどチームで話がまとまらなくて」
「やっぱりその話? さっきクリスも同じ話でここにきたわよ」
「だろうと思ってました、それでどうでした?」
「撤退ルートの話? 別件?」
「どっちも」
嘘だな、とジルの判断は早かった。どちらも本題だがこの際本題などよりも別件のほうを深堀りしたい、という本音がその顔に大きく書かれている。撤退時が不安だ。
「一応聞くけど、最近あなたのチームメイトがやたらクリスとのことをせっついてくるのと関係ある?」
「一応言っておきますけど好奇心で口出してるわけじゃないですよ」
「何か賭けてるとか」
「賭けてません」
賭けにならない、とピアーズは肩を竦める。それはそれで釈然としないジルである。
「ピアーズ」
「ええ、もちろん話します。この間の任務でちょっとなんというかかなりやばい局面があったんですけど、そのとき生きて帰ったら彼女にプロポーズするとか言い出した若手がいて」
「いい心がけね、口にするのはまずいけど」
「そう。で、キャプテンが場を和ませようとしてそういうフラグは立てないほうがいいぞと」
「あの人のジョークも大概まずい」
「まずかったです」
地雷でした、とピアーズは鷹揚に笑う。彼いわくかなりやばい局面だったとのことだがまるきり緊張感が伝わってこない。生還すればすべて笑い話ということか。若い。
「フラグも立てられない人が何を偉そうにって」
「ずいぶん強気ね、その人」
「いや俺が」
「余裕あるじゃない」
「そしたらあの人、俺が立てたら洒落にならないとか何とか言い出して。さすがにみんなも黙ってられなかったんでしょうね、今までもこれからも何も進展しないほうが洒落にならないって怒られてました」
「窮地だったのよね?」
「全員生還してます」
なんだか緩い話に聞こえる。生きて帰れるかという局面で部下に怒られる隊長もそうあるまい、とジルは他人事のように同情した。
「ちなみにプロポーズは成功したらしいです。なのでその若手を筆頭にいじったりせっついたり」
「なるほどね、お願いだからそのせいで撤退ルートがまとまらないなんて言わないで」
「さすがにそこまでは。というかこの話聞いて何か思うことないんですか、ジルさん」
「部下にせっつかれたくらいでどうにかなるならとっくにどうにかなってる」
「ですよね」
意気地なし、という決定的な一言は彼の面目のために口にしないでおいた。あえて言い直さなかったピアーズも同じ配慮であろう。とはいえこの空気感でおおよそ言いたいことは伝わってしまうだろうけれど。
ごほん、と露骨な咳払いがソファのほうから聞こえた。
「忘れてるかもしれないが」
ジルとピアーズはゆったりと視線を巡らせた。
「俺はここにいる」
「知ってるわ」
「見えてますよ」
ぎりぎりのところで意気地なしのレッテルを免れた英雄がげんなりした顔でシガレットケースをいじっている。
禁煙、と釘を刺すとまだ吸ってない、とクリスが両手を広げた。まだとは何だ。ピアーズは涼しい顔でコーヒーに口をつけている。
「で、撤退ルートどうするんですか」
「別の話始めたのはお前だろう。そもそも俺は純粋にジルに相談しにきたんだ」
「それはそれで問題なんですって。何純粋に相談してるんです? 俺らの話聞いてました?」
「お前最近俺への当たり強くないか?」
「ちょっと、ここで揉めないで。そもそもあなたは自業自得」
「君もか……」
打ちひしがれるクリスが多勢に無勢だと独りごちた。この件で今さら彼を責めるつもりはないが今日ばかりはコーヒーという歴然とした差がついてしまっている。部下の味方に立ったことについて、あなた手ぶらじゃない、と指摘すると彼は苦い顔でとうとう黙ってしまった。詰めが甘い、とピアーズも容赦がない。苦い立場にありながら先刻も今も立ち去る様子はなく、部下への牽制かあるいは疎外感の回避か、そういうところはわかりやすいくせに、とジルは呆れていた。
はすみのクリジルへのお題は『「うん、知ってる」』です。
https://shindanmaker.com/392860
神様なんていないが
もう会えないと思っていたのだと、彼のしずかな声が夜闇に滲んで消えた。
無骨な指先がシーツに散った髪をゆるやかに弄ぶ。知らぬ誰かのようなブロンドのそれを、クリスは不器用なりに変わらぬ優しさでその指に絡めた。
「君の墓は結構こたえた」
「そうね、普通はそこで諦めるわ」
普通、とクリスが空とぼけるので、普通、とジルはそのまま繰り返す。そもそも現場に居合わせてあの光景を目の当たりにして、何をどう前向きにすれば生きているなどという希望を抱けるのだ。
「あの高さから落ちて助かると思う?」
「普通は死ぬだろうな」
「普通はね」
ジルは彼の頭を張った。人を何だと思っている。
「違う。相手がウェスカーで死体も出ないときたら誰だって怪しむ」
「はいはい」
思えばとんだ皮肉だ。この身を擲ってまで血みどろの因縁に終止符を打ったつもりが、この身を擲ったことで余計な戦いにまで彼を巻き込むこととなった。
諦めてくれたらよかった。取りこぼした声は思ったよりも湿っていて、ああ、と彼は苦そうに笑った。
「君にはわからないだろうな、君を見て俺がどんなに」
「泣きそうだったか?」
「神に感謝したか」
「そのほうが嘘っぽい」
なにが神だ。
彼こそきっと知らないだろう。会えないと思っていたことも諦めていたこともジルのほうだ。本気だと尚も嘯く彼に身を寄せて、はいはい、と本来なら手の届かぬはずだった時間に目を閉じる。取るに取らぬ穏やかな時間。静かで優しい夜だった。
はすみのクリジルのお話は
「もう会えない」という台詞で始まり「静かで優しい夜だった」で終わります。
https://shindanmaker.com/804548
怪我ネタの予定だった
同僚、友人、相棒、どれを取っても真っ先に連絡を受けて差し支えないはずの立場にあって、ジル・バレンタインが怪我を負ったという事実を、クリスはどういうわけかクレアから聞かされた。
左上腕部にひどい裂傷。頭部に軽い擦傷。命に別状はなし。慌てて向かった提携先の病院で処置を終えたジルと鉢合わせて、クリスの顔を見るなり彼女はあら奇遇ねと笑った。何が奇遇だ。
「元気そうで何よりだ、その包帯も決まってる」
「あなたに皮肉言われると妙な気分」
「俺もまさか君の怪我を妹から聞かされるとは思わなかったよ」
というよりいっそ惨めでもあった。聞いてないの、と意外がるクレアの声に同情の色が滲んでいたのはおそらく気のせいではない。
「クレアから聞かなかったら俺は君が怪我をしたことすら知らないままだった」
「一段落したら連絡くらい入れたわ、どのみち耳に入ってたと思うけど」
たしかに彼女の言うことにも一理ある。同じ職場に身を置き同じ肩書きを持ち、それでなくてもジル・バレンタインの名前など組織の中で知らぬものはいない。英雄とも謳われる彼女の怪我とあればその話が行き渡るのに半日もかからないだろう。
けれど。
「――耳に入る?」
クリスはうめいた。色を変えた声にジルが首を傾ける。
「君の怪我だぞ、大事な相棒で大事な友人だ。それを人づてに聞いた俺の気持ちがわかるか?」
ラクーンシティの英雄。アンブレラ壊滅に貢献した勇猛なる戦士。ジル・バレンタインの名前に付随する肩書はたしかにものものしく、けれど、クリスにとって彼女の名前はまるで別の意味を持つ。
たったひとりの相棒だ。同僚で友人で、そうして、たったひとりの女性だった。ともに戦うこと、背を預けること、そこにクリスがどれほどの矛盾を抱えているか、彼女はきっとわかっていない。
大袈裟よ、と笑う声はどこか他人事ですらあった。
「この程度の怪我でいちいち心配してたらあなたの身がもたない」
「君の心配するところはそこか?」
「次は夜道を一人で歩くなって言い出す? 彼氏面なんて似合わないわよ」
言いそうだけど、とジルは軽やかにクリスを茶化す。言うだろうな、とクリスはひとつの諦観を抱いた。
同僚で友人で相棒で、名前のむずかしい関係を壊さぬよう大切に守ってきた。けれど彼女を心配する、ただそれだけのことすらままならないのなら。
「クリス?」
利き手を守ったところが実に彼女らしい。怪我から逃れた右腕を引き寄せて、クリスは彼女の澄んだ瞳をじっと見下ろした。
頑なに守り続けた一線を越えた距離。ジルが静かに息を呑む。
「相棒も、友人も、君を心配する理由にならないなら」
引き返せぬことはわかっていた。きっと彼女もわかっている。これまでの距離を守ろうとしたジルが身を引こうとして、けれどクリスは無情にもその腕を離さない。
いらない、という残酷な一言が、クリスの口から溢れ落ちた。
「そんなものはいらないんだ」
今までの関係。今までの時間。相棒も友人もこの思いに足りぬというなら平気で捨てられる、それほどの感情を彼女はどこまでわかっているだろう。
ジルの瞳がゆらりと揺れた。かすかに瞼を震わせて、じゃあ、と感情にそぐわぬ微笑みを浮かべる。
「……じゃあ、やめる?」
変わることへの躊躇も不安も隠し切れず、その双眸は怯えているようにも見えた。
そろりと唇を寄せる。彼女は拒まなかった。諦観の滲んだキスを交わして、それでも後悔していない自分が後ろめたくて、心配したんだ、とクリスは身勝手なそれを囁いた。
はすみのクリジルへのお題は『この気持ちは君にどこまで届いてる?』です。
https://shindanmaker.com/392860
密室
エレベータを待っていると不意にクリスが隣に並んだ。
帰りか、と彼が問うてくる。そのつもり、とジルは横目に彼を窺った。交わらぬ視線。おそらくこちらの視線に気づいているくせに、隣の男は上昇するエレベータのランプを見つめたまま。あるいはそのふり。他にエレベータを待つ人影はなく、誰もこないまま、エレベータが到着する。
送ろうか、と彼が先に乗り込んだ。
ありがとう、とジルも後から乗り込む。
扉が閉まって、来るか、と身構えた矢先、くんと腕を引かれた。
視界の端、下降を始めた数字のランプがぶれて、見上げた彼の輪郭もすぐにぶれて、大きな手に頬を掬われてジルは目を伏せる。差し当たってのキスは触れるだけのもの。
「飯でもどうだ」
「いいわね」
完成された密室。吐息の掠める距離で、それでも互いに気のない会話を交わす。あるいはそのふり。
「奢り?」
「仕方ないな」
クリスが目を細める。その奥に揺らめく情欲をたしかに見た。
「ならもう少し」
唇を擦り合わせる。ふ、と鼻から抜けた声は味気なく霧散した。うすらとフロアを確認したが到着までの猶予はあまりなくて、ジルは結局、見て見ぬふりをした。
140字リサイクル「お代はキスでいいよ」