眼鏡の向こう
元来から自分の欲求にも自分の感情にも素直に生きてきた。気が乗らないときはやらない、欲しいものがあればねだる、食べたいものを食べる。そこに他者の感情が作用することも影響することもなく、そんなだから、こういう局面においてこの言葉は絶望的なまでに独りよがりに聞こえるのだろう、と乱歩はいたく冷静に自身の性分を解釈していた。
「まあ、僕が云っても説得力なんてないけどさ」
「おやまァ、ずいぶん弱腰だねェ」
くつくつと与謝野が笑う。どうしたんだい天下の名探偵が、優しく紡がれる声がうつくしい。
彼女のうつくしいところを乱歩は沢山知っていた。艷やかな黒髪もきれいに彩られた唇も、強く煌めく紫の双眸も、芯をなくさぬ背筋も無数の命を救う指先もすべてうつくしい。そして何よりもうつくしいのは彼女の心だった。その心が少しでもいいからほしかった。少しでも乱歩だけのものにできたらと。だから彼女にそう告げたのだ。
「君はそもそも僕にこんな人間らしい感情があったことに驚くはずだ、しかもただの感情じゃない、ひどく厄介で面倒で手のかかる感情だろう。そんな代物をこの僕が」
「いいよ、乱歩さん、たしかに驚きはしたけれどね」
わかってるさ、と与謝野が手を伸ばす。彼女の言葉はおかしい。何をわかっているのかわかりやしないのに、それでも乱歩にたしかな安堵をもたらすのだ。
「わかってるよ、乱歩さん、アンタは嘘なんてつかないし」
「そりゃあね」
「その感情に驚いたのも戸惑ったのもアンタの話だろう。そんなに不安がらないでおくれ」
不安、と乱歩はその言葉を無防備に取りこぼした。自分とは無縁の言葉に思えた。だって全知全能の名探偵にわからないことはなくて、おおよその物事を読み解ける脳を持ってどうして不安がる必要があるのだろう。乱歩は彼女の言葉を考える。驚いた、戸惑った、その言葉を口にした彼女を思い、そこでようやく、彼女が自分を名探偵としてなど見ていないことを知った。
「与謝野さん」
「名探偵だって人間さ、そんなことで幻滅したりしないよ」
「……本当に?」
「勿論」
頬に触れる、少し体温の低い手を握りしめる。絡んだ指先はずいぶん華奢で、本当に不可解だけれど、乱歩は無性に泣きたくなった。
「すきだよ、与謝野さん」
「うん」
「この僕に解らないことなんてない筈なんだ、なのに」
「乱歩さん」
「ねえ、与謝野さん、名探偵じゃない僕でもがっかりしない? 嫌いになったりしない?」
細い指先が、けれどしっかりと乱歩の手を握り返す。莫迦だねと笑って、彼女は乱歩の内側に燻る不安を優しく掻き消した。
「たしかに何も解っちゃいないよ」
「ひどい」
「妾がすきなのは名探偵じゃない、乱歩さんだ」
菫色の瞳が、その目元が、ふわと和らいで乱歩に花笑む。彼女のこんな表情を誰が知るというのだろう。知らず伸びた両腕が柔らかい体をとらえ、おやと躊躇う彼女を構わず抱き寄せた。その肩も腰も思っていたよりもずっと細い。心許なさに力を緩めると彼女が笑い出して、折れやしないよ、と乱歩に擦り寄った。
【乱与の場合】
愛してると伝えたら相手は少し驚いてから笑い、その手を伸ばした。冷えた温度が頬に触れる。すがるように手を握り返すと、ふわりと笑って愛してると声が返ってきた。
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文マヨ水着イベ案件
重心が消える。
頭上と足元、手のひら、浮遊感を捉えようとしてさらに沈む。しんと深い耳鳴り。薄く開いた視界、波に揺らぐ筋光は思ったよりも遠く、あらがうことも馬鹿らしくなって藻掻くことをやめた。苦しい。怖い。感情が冷えゆく。感覚が遠のく。息苦しさの反動で思い切り水を飲み込んで、そういえば溺死はどうなるのだろう、と他人事のように考える。
目を閉じる。
彼は今ごろ何も知らずにアイスキャンディを齧っているのだろうと思うと、自分があまりに滑稽で笑えた。そう考えると悪い気分ではなかった。
(そういえば)
今日はあまり構ってやれなかった。せめて根に持たないでくれるといい。
突然ぐいと腕を引かれた。驚いてさらに水を飲む。鼻が痛い。
遠くに錯覚していた光は思いがけず近く、あっさりと水面をくぐって空気に触れる。
弾かれたように酸素を取り込む。与謝野は彼に縋りついたまま咽せ込んだ。
「ああもう、本当に勘弁してよね、まさか君が溺れるだなんて誰も思いやしないんだから」
間に合ってよかった、乱歩は波に揺れる浮き輪を引き寄せて与謝野に掴まらせる。しぬかと思った。浮き輪にしがみついて咳きこむ背中を乱歩が撫でてくれる。海水にざらついた喉はひりつくし水の入った耳も痛い、思い出したかのように脹脛まで痛みを訴えたが、目下与謝野にとっては溺れたなどという醜態のほうが痛手であった。
「わ、悪い、乱歩さん」
「大丈夫?」
「ああ、助かったよ、しぬところだった」
本当にとげんなり応じた乱歩が浮き輪を引く。すいと体が波を切り、どこへ、と訊くが彼は大人しくしていてと取り合わない。
「足つったんでしょ、一旦休んだほうがいい」
「悪いねェ、何から何まで」
「というかみんなから離れすぎ」
「つい張り切っちまッてね」
首を巡らせると思ったよりも波に流されていたようで、浅瀬ではしゃぐ後輩たちや常識外れの水柱が自分で把握していた以上に遠くに見える。これは確かに気付かれない。流石に反省していると彼がそろそろ足つくよと告げ、おそるおそる探ると爪先が地面を捉えてようやく安心した。
「それにしても乱歩さん自ら来てくれるとはね」
「ほかの奴らだと与謝野さん探し出すところからでしょ。万が一があっちゃ困るもの」
浮き輪をぐいと引き取って、乱歩が覚束ない足取りの与謝野をじかに支える。海水に湿る肌が直接に触れあって逆に転びそうになった。彼はそれすら何食わぬ顔で引き寄せ、第一、と与謝野を人気のない岩場へいざなう。
「第一こんな役得、他の奴らに譲るつもりはないし」
「おや、乱歩さんにしては珍しい」
「いいから足元気を付けて」
足切らないでよと適当な岩場に与謝野を座らせ、腰を屈めた乱歩は教えてもいないのに迷わず右足を掬う。ゆっくりと爪先を倒すようにして強張った筋肉を伸ばし、痛むかと問うので与謝野は首を振った。
「だけど惜しかったね、どうせなら人工呼吸でもしてもらえばよかった」
「何それ、その口実いる?」
「ご機嫌斜めかい」
「心配したんだ」
それに、と脹脛をなぞる。濡れた指先がつと肌を伝い、思わず足を引かせると筋が痛んで与謝野は顔を顰めた。痛むかいと乱歩が取り成すように脹脛を撫でる。彼のてのひら、労わる仕草、穏やかな接触にも関わらず肌が粟立つ。
「乱歩さん?」
「それに、随分長らく僕を放ったらかしにしてくれたじゃない」
「構ってほしかったのかい?」
「他所の男に構われて楽しかった?」
「妾はただ泳いでただけ――」
腰を上げた乱歩が手を伸ばし、咄嗟に身を引くより先に与謝野の頬を両手で掬った。近い。ぽたと彼の髪から雫が滴り、それを追うことすら許さぬと翡翠の双眸が与謝野のそれを捉える。乱歩さん、与謝野はまるきり力を持たぬ声で彼を呼んだ。
「似合ってるよ、与謝野さん」
いちばんに口説きたかったのに、嘯く乱歩がにいと笑う。ここへきて初めて見せた笑みだった。戸惑う与謝野を意に介さず彼が顔を寄せて、触れたくちびるは塩の味がした。見た目通りに読めぬ男のなんと厄介なことか。海水にべたつく口付けに応じながら与謝野は気が滅入る。口説くという名目に相応しい穏健な笑みを浮かべ、けれどその瞳の奥に危うい篝火が揺らめくのを与謝野は確かに見た。
例のあの部屋
がちゃりとドアノブが伝えたのは期待を裏切る堅固な感触であった。
今いちど引いてみる。開かない。押すんじゃないのかい、と言われて押してみる。開かない。役目を果たさぬドアを前にしながら、乱歩と与謝野はたっぷり十秒ほど沈黙した。
「――開かない」
「開かないねェ」
何故だ。乱歩はげんなりと溜息を吐いた。与謝野は傍らで他人事のように腕を組んでいる。
「与謝野さん、本当は僕のこと好きじゃないんじゃないの」
「そンな筈ないだろ」
「じゃあなんで開かないんだ」
「妾に訊かれてもね。乱歩さんこそどうなんたい」
「好きだよ。でなきゃ開けようなんて云ってこんな醜態さらさない」
それもそうだ、と与謝野は軽やかに笑う。乱歩さんの推理が外れるとはね、とずいぶん余裕である。乱歩は憮然としながらこの空間から出るための命題を思い返した。そもそも好きだの好きじゃないだの、定義の曖昧な感情を鍵にする時点で実に馬鹿馬鹿しい。
「何時もの鉈は」
「勘弁しとくれよ、役に立つと思うかい?」
「チェーンソー」
「生憎かさばるモンでね」
そもそも持ち歩く代物ではない。乱歩は大仰に嘆息してその場に座り込んだ。お手上げかい、と彼女が失礼なことを問うのでおなかがすいたのだと駄々をこねる。腐る乱歩に代わって今度は与謝野がドアに触れた。
「困ったねェ、好きになるッて云っても」
「出られないことより開かない理由のほうが問題だよ、与謝野さん、もしかして」
「ああ、わかった」
他に、と言いかけた乱歩を遮って与謝野が腰を屈めた。乱歩はぱちりと瞬く。不敵な笑みを浮かべた唇で、わかったよ乱歩さん、と彼女は繰り返した。その瞳はずいぶん自信に満ちて美しい。
「何」
「ほれ」
くいくいと指で促されて顔を寄せる。耳打ちなど意味があるのか、と思った矢先に触れたのは彼女のくちびるであった。やわらかい接触。鼻腔をくすぐる仄かな花のかおり。閉じることも忘れた視界のすぐそこ、伏せられた瞼を縁取る長い睫毛が微かに震え、うすらとそれが開かれたかと思うと唇が離れていった。
かちゃりと解錠の音がした。与謝野は勝ち誇って乱歩に笑いかける。
「ほら。もっと好きになった」
綺麗な答えだろう。目元を緩めて微笑む彼女はたしかに綺麗だった。
「……ああ、もう、君ってさ、本当」
たちが悪いよ、と乱歩は片手で顔を覆う。勘弁してほしい。撃沈する乱歩をよそに、そいつは光栄だと彼女はくつくつ笑っている。
「不意打ちってどうなの」
「どんな顔するかと思ってね」
「君のそういうところ本当よくないよ」
「それじゃさっさと出ておかないとねェ」
腰を上げた与謝野が乱歩に手を差し伸べる。乱歩はその手を取るとぐんと勢いをつけて立ち上がった。おっと、とたたらを踏んだ彼女を逆に支え、その距離がいつもより近いものだから互いに顔を見合わせてしまう。
「……与謝野さん、ここ出たらもっと好きになることしない」
「おやおや」
噴き出した彼女がドアノブを握る。口説き文句にしては酷いねと笑うが不意打ちだってよっぽど酷い。此処を出たところでなかったことになどしてやるものか、と乱歩は取ったままの華奢な手を握り締めた。
はすみの乱与は『相手のことを好きにならないと出られない部屋』に入ってしまいました。
40分以内に実行してください。
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執着と頓着の話
身じろいだ拍子にシーツが揺れて、さらけ出された彼女のほそい肩が微かに震えた。剥き出しの肌が少しばかり寒々しい。触れさせた手のひらはそれでもぬくい体温を感じ取り、乱歩はそこに自覚の薄い安堵を見出した。
さらと髪のすべる音、覗いた肩口に滲む情痕が色めかしい。つ、とその赤を指先でなぞる。毒々しい色合いとは裏腹にすべらかな肌だった。
「……なんだい」
「ああ、やっぱり起きてた」
おきたんだ、起き抜けの彼女の声は掠れてずいぶんと甘やかに響く。小さく呻いた彼女はまだ眠りたいようで、窮屈な布団のなか、まるであどけない幼子のように背を丸めた。
「怒りそうだから先に云っておくね、痕つけちゃったごめん」
「いいよ……、そこなら隠れるだろ」
「うん、まあ、ぎりぎり」
「残念がるンじゃない」
眠たげな与謝野はそのくせ乱歩の奥底を的確に汲んで釘を刺す。残念か、と乱歩は彼女の言葉を捉えて笑った。たしかに残念だと、それを的確と呼ぶ自分が可笑しい。
「嗚呼、まったく世も末だね、この僕がこんな曖昧な代物で君を自分のものにしたつもりになってる」
「結構だけどね、妾はものじゃない」
「云うと思った」
野暮だと文句をつけると彼女は息を吐くように笑った。情痕をなぞる乱歩の手に自身のそれを添えて、悪い気はしないけれどと囁く。まるで独り言のようにすり抜ける、重心のない言葉にこそ本音が滲んでいるようで乱歩は参った。
「君って本当たちが悪いよ」
「乱歩さんこそ」
ずるい人だと呟いて息を吐き、嗚呼だめだ眠ろうと彼女は音を上げた。どうにも睡魔が手強いらしい。そういうところだと余程言及してやりたかったけれど、彼女の言う通り眠たいことも確かで、身を寄せる背中に腕を回して乱歩はやむなく目を閉じる。
乱与へのお題は
・かつては友達
・額にキス
▼指でなぞる
・いつもより早く目が覚める
です。好きなお題で創作してみましょう
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まわりが迷惑
耳を疑った。そうして刻が止まった。事務所に居合わせた全員がもれなく動きを止め、おそらく各自数秒は呼吸を忘れたためである。与謝野の呼吸は三秒ほど止まった。心臓まで止まるかと思った。なんだって、と唯一いつも通りに時間を刻み、いつも通りに呼吸をしている名探偵に聞き返す。
「悪い、乱歩さん、今何て」
「だから、君がすきだって」
何度もいわせるな、と乱歩が口を曲げる。状況を整理するつもりがただ追い打ちをかけられただけで、書類の散乱する音や珈琲の引っ繰り返る音を聞いて与謝野は普通に反省した。軽率だった。
「乱歩さん――」
「云っておくけどすきの種類ならわかってるからね、僕そんなに唐変木でないし、というか天才なんだからそれくらいわかる」
「はあ」
「君が今混乱している通りの意味だよ。具体的に云おうか、君のいちばんになりたいし君に触れたい、独り占めだってしたい、君との時間を誰かに自慢したい、それから」
「待って、待っとくれ」
彼の言葉が逐一心臓に優しくない。だってそれは確かに彼の言う通り混乱を呼ぶ意味合いのそれでしかなかったし、止めなければどこまでも続きそうな具体例が与謝野の平常心や寿命をごりごり削り取ってゆく。キーボードの上で手を震わせる国木田に関してはすでに死にそうだ。
「……ずいぶん趣味の悪い冗談じゃないか」
「ひどいことを云うね、僕の一世一代の告白が冗談だって?」
「一世一代にしちゃ突拍子がないよ、ご覧、この静まり返った事務所を」
一部の人間が石と化した事務所を手で示すと、乱歩はふむと鼻を鳴らした。彼の告白ほどではないが静寂を極める事務所というのもなかなか珍しい光景ではある。しかしというか当然ながらというか、彼は大して興味はないようで、そうかわかった、と十中八九此方側にとっては何の解決にもならぬ解決を見出す。
「突拍子が駄目なら予告すればいいんだろう」
「へ?」
「今から云うからちゃんと聞くんだよ」
にこりと笑った乱歩が与謝野の手を取る。そうきたか、与謝野は二の句が継げない。うすらと開かれた翡翠の瞳が真直ぐに此方を見つめ、けれど確かに、そこに彼の言葉を裏切らぬやさしい色を見た。
「愛してるよ、与謝野さん」
ふわりと頬が熱を持つ。違う。そうじゃない。乱歩を諌めるはずだった言葉はまんまと心臓をうたれた自分に向けることとなった。
【はすみの乱与の場合】
愛してると突然言われたものだから心臓が飛び跳ねた。寿命が縮まった気がする。突然言うなと諌めると、なら予告すると呑気な声が言って、いまから言うねと口を開いた。違う、そうじゃない!
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