酔っ払い
たしか酒は苦くて口に合わぬと自ら公言していたはずである。従ってラムネ、なければしゅわっとしたものをと高らかに注文した声を覚えている。そのとき彼はカルピスソーダを片手に満足そうにしていた。
それがどういう風の吹き回しだ。
よりにもよって深夜、気心知れた同僚とはいえ女の部屋に押しかけて、終電逃したと乱歩はたいそう御機嫌である。どのみち列車になど乗れぬくせに。
「まったく珍しいこともあるモンだ、乱歩さんが飲むどころか呑まれてるとは」
「ふふ、太宰とね、国木田にしこたま飲ませてた」
「そうかい」
それでなぜ名探偵がへべれけになっている。
いずれにせよ締め出すわけにもいかない。おそらく明日介抱が必要となる乱歩を部屋に上げ、足取りの怪しい体を支えながら居間に通す。くったりと重たい体をソファに預けて、あわよくばそのまま眠ってくれたらと踵を返した、その矢先である。
「うわ!」
ぐんと腕を引かれてソファにもつれ込んだ。揺れた視界、事態を把握するより先に乱歩が伸し掛かってきて、何事かと問う暇すらなく彼に唇を塞がれた。酒臭い。くぐもる声はあまりに無力で、生温い酒精が遠慮なく口腔に押し寄せる。
「ふ……ッ、な、にす」
「黙って」
「ちょ、っと待……っ、乱歩さん!」
酒の勢いなど御免だ。
躍起になって押し返す手はあえなく絡め取られて終わった。熱に浮いた双眸がゆらりと与謝野を捕らえる。あやしく光る翡翠の瞳。
「与謝野さん」
耳朶を震わせる声は甘く掠れ、ほだされるなと自戒する与謝野の理性をかいくぐって重たい熱をともす。ひく、と背が浮く。すでに陥落の予感しかなかった。
140字リサイクル「すでに負けそう」
だいたい太宰のせい
怪我の経緯に始まり怪我の規模、怪我人の数に重傷人の顔ぶれと、立て続けに依頼から戻った社員たちのそれはまるきり普段通りで、その上で誰が一番悪いかとなると乱歩の推理力がなくとも満場一致で太宰だった。
「いやあ、女医がいると飽きるほど怪我できていいですね」
にこやかに紡がれる言葉の残酷さ、それを知る人間は残念ながら乱歩しかいなかった。
ぐ、と握り込まれた彼女の掌を見た。平手を我慢したのだろうがおそらく引っ叩いても誰も文句は言いやしない。それでも寸でのところで暴力沙汰を我慢した与謝野は、二度と言うな叩き切ってやると唯一異能の及ばぬ男に吐き捨てて医務室へ篭った。治療の憂き目、否、恩恵に預かれぬ太宰は例に漏れず包帯にまみれているが、普段のほうが包帯の面積が広いせいで深刻味に欠ける。
謝罪だの土下座だの繰り広げる後輩たちを尻目に乱歩は医務室へ足を向ける。閉ざされた彼女の城、狭い世界で与謝野は肩を縮こまらせて乱歩を見上げた。大丈夫、と問う。危うい瞳で否とも応ともこたえず、彼女は頭を押さえて首を振った。
「あ、妾は、怪我をさせるために治してるンじゃない」
「わかってるよ、大丈夫」
「あんな──あんな地獄に、何度も、送り返すためなんかじゃ」
「与謝野さん」
わかってる、ひどく単純で簡単な言葉を、乱歩は噛んで含めるように彼女に聞かせた。いつかの記憶と重なってこぼれる、それは懺悔にも似た彼女の叫びだった。
「君の治療はたしかに多少というかかなり過激だけど、ひとを治す意味も君の心も誰も履き違えてやいない。太宰のあれはいつものことだ」
「で、も」
「此処は探偵社だよ。思い出して、行ってきますってみんなどんな顔してる?」
うろと乱歩を見上げる瞳が、涙を纏っていっそう深く彼女の情動を映し出す。理屈も建前もない、無垢な双眸は乱歩の言葉に泣きじゃくる少女のそれと似ていた。あのときのやさしさも、それ故の傷と罪業も、おそらく彼女はずっと背負い続けるのだろう。
本当ならもういいと言ってやりたかった。自身を許してやっていいのだと。けれどそんな言葉が意味を成さぬことも、彼女がそんな言葉を望んでいないことも知っている。
「泣き喚いてる? 絶望してる? いいやみんな呑気な顔してるね、誰も爆弾に吹っ飛ばされに行くつもりなんてない」
それでも今はあの時と違う。彼女の優しさは優しさに他ならず、捨てぬ捨て駒を作り出すために擦り込まれた正義とは違うのだ。
「よく見て与謝野さん、こわいことはもう何もないよ」
「乱歩さん」
「地獄なものか、僕や福沢さんがそんなことさせない。君にとってそんな場所なんかにさせないよ」
この僕が言うんだ、信じられるだろ、細い肩に触れると彼女はぎゅうと口元を引き結んだ。嗚咽を押さえ込む、けれど意に反して溢れた涙ごと、乱歩は彼女を引き寄せた。
「だから君は心置きなくみんなをいってらっしゃいって見送って、ドジ踏んで怪我した奴らをおかえりって出迎えたらいい」
わしわし頭を撫でると彼女が覚束ない手つきで乱歩にすがりついた。肩口に顔を埋めるようにして小さく頷く、あどけない仕草がかつて少女の瞳に年相応の涙を許した光景と重なる。変わったと言えばひとに縋ることを覚えた事だろう。明かりを反射する髪飾りに目を細めて、乱歩は苦い涙を受け止めながらやれやれと息を吐いた。
はすみの乱与へのお題は
・朝帰り
・後頭部にキス
・名前を呼んで
▼おかえりとただいま
です。好きなお題で創作してみましょう
https://shindanmaker.com/591476
未証明
君はどうだかしらないけれど、と乱歩が唐突に話をはじめた。駅前の喫茶店に新しいメニューが出た、裏手の猫が子猫を産んだ、福沢のネーミングセンスがひどい、いや名前なんてつけてるの、云々、ふたりで他愛ない話を繰り広げていた矢先である。他人よりもずっと複雑かつ難解な思考をする男は基本的に脈絡というものを作らず、好き放題に話を飛躍させたうえで相手の困惑すら気に留めない。与謝野はとうに慣れた。
「なんだい、乱歩さん」
「君は賢いし僕に口うるさいことも云わない、だけどそれだけが理由じゃあないと思うんだよね」
「悪いが判るように話しとくれ」
「そう、そんな風に云われたって腹も立たない」
結構だが一向に話が見えない。
なにが言いたいんだい、と折れずに聞き直すと、つまり、と乱歩はようやく会話に応じた。
「君と話すのは楽なんだ、ストレスにならないし何よりたのしい。与謝野さんの言葉なら聞く気にもなるし、ああ、あとその声もすきだよ」
「何も出ないよ」
「別におだてちゃいないよ」
口を曲げる乱歩に与謝野は冗談だよと肩を竦めた。もとより彼にその手の台詞など期待していない。
「それで? 妾が光栄だよと云って終わる話かい?」
「君ってたまに根性悪いよね、誰に似たんだ」
「どの口が云うんだい」
白々しいったらない。話逸れてないかい、と問うと逸れてるねとあっけらかんと返された。逸れていると言うがそもそも本筋はどこにあるのだ。与謝野が幾度目かの疑問を巡らせたとき、こういう時間だよ、と彼はやはり彼だけの脈絡で笑った。
「君との時間がたのしくて独り占めだってしたい、だけど誰かに見せつけたい気もする。まったく不合理だ」
「ずいぶんご機嫌に見えるけどね」
「そうだよ、とてもね。この感情を知ってる?」
彼の口元に浮かぶそれはいつもの不遜な笑みとは少し異なるもので、微かな違和感を拾い上げた与謝野はおやと口を閉ざした。この男はいつの間にこんなにも柔らかい笑い方をするようになったのだろう。長い付き合いを有するはずの男がなにやら新鮮に思えて、与謝野はひとつ、彼の脈絡に心当たりを見つけた。
「乱歩さんは知ってるのかい」
「さあね、感情の正解なんて擦り合わせようがないし」
「謎解きならお手の物だろ」
「ふふ、そのとおり」
繰り出される乱歩の言葉は普段となにひとつ変わらない。自信に満ちて押しつけがましい、正解をしらぬというくせに彼は彼なりに答えを見つけて、その答えがたいそう気に入ったようである。ひとの気も知らないで、と与謝野は可笑しかった。
「答えは出たのかい、名探偵」
「そうだね、実に難解だけれど」
自慢の眼鏡は懐にしまったまま。乱歩は芝居がかった仕草で手のひらをその胸にあてた。
「これが恋だといいなと思うんだ」
恋をするなら君がいい。扱いづらい感情を掲げて彼は鷹揚に笑うのだ。彼の頭脳にしてはずいぶん遠回りで不毛なこたえで、呑気なものだ、と与謝野もつられて笑いだした。
はすみの乱与へのお題は『いつから恋って気付いてた?』です。
https://shindanmaker.com/392860
いやな夢
誰かに会いたいと思うなんていつぶりだろうか。
不毛な感情のやり場がわからず、不毛とわかっていながら処理しきれぬ自分が腹立たしく、深夜の静寂すら感傷を助長させるようで乱歩は気が滅入った。肌寒いだなんてきっと錯覚だ。それでもなにか心許なくて、狭い布団の中でもそりと彼女を引き寄せる。
「――いやな夢でもみたかい」
やわい輪郭で問う、与謝野の声は幼子をあやすようで耳朶に優しい。乱歩はやけっぱちになってそうだよと応じた。ひどい夢だ。
「母上に会った」
「へえ、悪夢には聞こえないけどね」
「そう? だってこんなわけのわからない感情」
悪夢に違いない。吐き捨てると与謝野が笑いだした。わからないのかい、と。
「妾だったら恋しいって云うけど」
くつくつと笑い声がくぐもる。乱歩は鼻を鳴らして彼女の頭に頬を押し付けた。
「いい子にしてればいいかな」
「そうだね、まずはその手をどかしな」
寝間着を探る手を渋々引っ込めて、魘されたらどうしようと目を閉じる。起こさないでおくよ、と与謝野が笑った。不毛で報われやしない、けれど抗いようのない感情だってある。夢でも幻覚でもなんでもいい、また会えますようにと願うほかないのだ。
はすみの乱与のお話は
「誰かに会いたいと思うなんていつぶりだろうか」で始まり「また会えますようにと願うほかないのだ」で終わります。
https://shindanmaker.com/804548
あと少し
裏の通りのほうが空いていると与謝野の手を取り、すいすい雑踏の合間を縫って進む彼のつくる小さな道を、与謝野も手を引かれながら足早に進む。
与謝野の歩幅を顧みぬ彼の足取りは一見して不親切だが、それでも与謝野が人の流れによろけるとすかさず腕を強く引いてくれる。ぐんと平衡を引き戻す力強さ。その手は思ったよりも大きくて、なんだか知らぬひとと手を繋いでいるようで落ち着かない。
「与謝野さん?」
瑣末な違和感すら捉える彼の頭脳はこういうときに厄介である。
大丈夫、と足を止めずに問う乱歩に首を振って、なんでもないよと与謝野は彼の背中を追う。
「人酔いした? 君って案外ナイーブだし」
「ひとりで列車にも乗れない人に云われたくないね」
「云ってなよ、どのみち僕には必要ない」
不遜で独善的な言い分を彼は何のてらいもなく口にする。彼の世界はずいぶん昔から彼を中心に出来上がったまま変わることがなく、そんなだから、彼はこどものように無邪気に与謝野の手を取って軽口を叩く。
彼の世界で乱歩は少年のまま。与謝野は少女のまま。
美しい世界はそれだけに、ほんとうの世界をも見る与謝野には残酷だった。
(ねえ、乱歩さん)
いつの間に自分のそれより広くなった手のひらを握り返す。
骨ばった指も。見知らぬひとのような横顔も。これまで通りにいられるはずがないのだと、まるで神さまが。
(妾、もう十八なんだよ)
当てどもなく自分を殺したがって泣いた、あれから与謝野はいくつもの強さを身につけたけれど、彼にとってはいまだに庇護すべきこどもなのだろう。掬い上げた少年と救われた少女。けれど与謝野はもう違う。
手を取って取られて、無邪気でいられた少女はもういない。見て見ぬふりだってできやしない。焦がれるような情動を持て余す、浅ましいひとりの女が少女に終わりを告げる。
「乱歩さん」
遠いような背中に呼びかける。うん、と乱歩はいつも通りに気のない返事を寄越す。
「乱歩さん」
何かがもどかしくて何かが心細い。この感情を知ってほしい、けれど知られることもこわい、彼が聞いたらくだらないと一蹴しかねない感情を持て余し、たまらずその手を握りしめるとまったくくだらないね、と本当にその台詞が聞こえた。
耳を疑った。
「――妾なにか口に出してたかい」
「いいやまったく。でも実にくだらない」
わかってるよ僕だって、と脈絡の見えぬ話を勝手に続けながら、乱歩は与謝野の手を握り直す。先よりもずっと強い力だった。
「舐めてもらっちゃ困るよ、君こそ僕のほうが年上だって忘れてない?」
「あの」
「云っておくけど待ってるのは僕のほうだからね」
乱歩は振り向きもせずに喋り続ける。独言のように言い募る言葉は明確な意味を持たず、けれどそれがどんな感情を示すのかわからぬほど与謝野は鈍くない。待ってる、と与謝野は彼の台詞を繰り返した。
「そうやっていろんなことを噛み殺すうちはまだまだ」
「そういうものかい」
「当たり前だろ、僕は君の自由を望んでるんだ」
雁字搦めなんてもうたくさんだと吐き捨てて、ああでも、と乱歩はそこでようやく振り向いた。翡翠の瞳がうすらと覗く。したたかな眼差し。
「待つけど手放すつもりなんてないからね」
ぐ、と握られた指先の力に与謝野は言葉を飲み込んだ。ずるいひとだ。胸中で毒づいたはずの言葉は声に出ていたようで、しってるよ、と乱歩が満足げに笑う。手があつい。顔があつい。まだまだ、と彼の言葉を反芻し、与謝野は湿った吐息を零して顔を伏せた。
はすみの乱与へのお題は
・ひとつ年下の君
・キスマークをつける
▼強欲
・背中合わせ
です。好きなお題で創作してみましょう
https://shindanmaker.com/591476