希望と渇望
結局のところ並大抵の手では死なぬという自負が太宰にはあった。
生に執着はないがおそらくしぶとい類いではある。運も影響しているのだろうがそれを幸運と表現するか悪運と表現するか、太宰にとっては非常に難しいところだった。今となっては自殺が目的なのか、自殺にいそしむことが目的なのか、正直自分でもよくわからないし興味もない。日々気楽に自殺に臨み、死なぬところで案の定と笑い、死んだ際にもきっと儲けと笑うのだろう。強いて言うならのらりくらりと死に向かう自分が自分らしくて気に入っているくらいである。
けれど此処ではそうもいかない。
消極的にも死を追う太宰に、彼女は執拗に生を提示するのだ。
「アンタも本当にいい加減にしなよ、異能が効かないンだから解体なんて手も使えないし」
手間がかかると与謝野は刺々しく文句をつける。その手にはもはや太宰専用とも言える包帯が握られていて、医者が患者に向かって手間を愚痴るとは、と太宰は可笑しい。
「いやあ、今度こそ上手くいくと思ったんですがね」
「どの口が云うンだか」
「女医こそいい加減私を切り刻んでくれてもいいんじゃないですか」
不思議なことにどんな自殺手法などよりも彼女の治療のほうがよほど死に近いような気がしている。思えばあの狂気じみた笑みが自分に向けられたことはこれまでに一度もなく、相容れぬ力のおかげで恐らく今後もなく、なんだかひどく損をしている気がしてならない。
「妾の異能はひとを治す為のものさ、アンタの趣味に付き合うものじゃない」
大体切り刻んだところで死ぬのかいと到底人間を相手にしているとは思えぬ質問を寄越してくる。一体何だと思われているのだ。
「そう云いながら毎度私の手当てをしているあたり女医も難儀ですねえ」
「自分で云ってちゃ世話ないね」
「いっそ放っておいたほうがお互いの得だと思いません?」
「覚えてな、そのうち麻酔なしで執刀してやる」
形のいい唇からは物騒な言葉が小気味よく飛び出してくる。逃がしてやるものかと目を伏せる、長い睫毛のつくる繊細な影を太宰はじっくりと眺めていた。
「私にとっては生きることのほうが逃げになるかもしれませんが」
「構いやしないよ」
ぎゅうと痛いほどに包帯をきつく留めて、与謝野はさあ終わりだと太宰の背を叩く。
「妾はアンタに生きてほしいンだ」
真直ぐな言葉が太宰を射抜く。強く煌めく瞳が太宰を生かす。彼女の台詞を反芻させるだけで脳髄があまく痺れるのだから始末に負えない。愛を紡ぐそれよりもずいぶん甘美な言葉に聞こえて、そうしてそれよりももっと深くのものを求めるいつかを思い、彼女はきっと早いうちに自分を殺したほうがいい、と太宰はわらう。
太与/制限付きの逃避行
「可愛げのない言葉ばかり生み出すその口から愛を囁かせてみたいという欲が溢れてしまう前に、どうか」
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逃げ道なし
一寸した出来心である。たとえば口付けの合間に囁く、たとえば最中に甘く口にする、そんな調子で薬品棚を片付ける与謝野の耳元に口を寄せると、呼ばれた彼女はひくりと肩を震わせて太宰を振り向いた。無防備な瞳が至近距離で太宰のそれとかち合う。おやと思っているうちに澄んだ菫色がじわじわと複雑な色をにじませた。甘やかな声に無意識に釣られたこと、太宰の遊び心にまんまと乗せられたこと、振り向いてしまったことと無防備な一瞬を晒してしまったこと、屈辱と後悔を飽和させた彼女は結局、太宰を睨むという苦し紛れのカードを切った。一連の表情を読んでいた太宰は危うく噴き出すところだった。
「嗚呼もう女医ってば本当にかわいい」
「何しにきたんだい。用がないなら掻ッ捌いてやる」
「わあ過激」
こわいこわいと笑うと与謝野の視線がさらに棘を纏う。剣呑な瞳は真直ぐに太宰を牽制し、これ以上踏み込んでくれるなと強く訴える。広げた両手で降参を示した太宰はそれでも彼女から離れる気はない。
「急に女医が恋しくなりまして」
「説得力の意味を知ってるかい」
「この私の口説き文句にも動じないなんて流石は女医」
「わかってやってるあたりが面倒臭いンだよ、いい加減に退きな」
鬱陶しがる彼女の表情には先に見せた無防備さの少しも見当たらず、綺麗に取り繕ったつもりでそれでも微かに揺れる瞳が太宰の劣情を誘う。此処は職場だ、そんな優等生じみた台詞を吐いてくれたらと太宰は期待した。
「冗談だと思ってます? それか仕事をさぼる口実か」
「何方かって云うと後者だね」
「ああ、残念、どちらも外れです」
とんと薬品棚に手をつく。硝子の内側で震えた薬瓶が微かな音を立てた。女性の内では長身と分類される彼女も太宰にしてみれば小柄で、至近距離で影をつくる太宰に今度こそ与謝野の瞳が大きく開かれる。太宰、と無防備な唇が無防備な言葉を滑らせた。太宰はうっそりと目を細めてその美しい双眸を覗き込む。
「云った通りです」
「は」
「貴女が恋しい」
名を呼ぶ。その声を拒絶したくて出来ぬ葛藤に、じわりと揺れる瞳が熱を映した。
「さあ、私を満足させて」
理性など彼女の手で断ち切ってくれたらいい。貴女のせいだとうそぶいてめちゃくちゃに暴いて、したたかな瞳の溶けゆく様をじっくり堪能する、甘美たるその時間に太宰は思いを馳せた。
[太与の場合]
君の名を呼ぶ。すると途端に表情が変わり、驚く暇もないうちに睨みつけるような視線を寄越される。呼ぶなと訴えるその瞳が、いつか揺らいで溶けてしまえばいいのに。
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やぶへび
くんと腕を引かれて危うく転ぶところで、何をすると振り向いた矢先に身をかがめた太宰の唇が耳元に寄せられた。思わず竦んだ与謝野の肩を押さえ、彼は男のくせに腹立たしいほど色香をまとうその唇で、うすら寒い愛をひとつ、囁く。
見上げた男は上機嫌に笑んでいる。そのくせ瞳には小狡い捕食者の色をちらつかせ、この危うい対峙に何人の女が騙されたのだろう、と与謝野は同情した。
「アンタも暇だねェ」
「またまた、女医ってばつれないんだから。流石の私も自信なくしちゃいます」
「そんな柔な神経してないだろ」
近い、と押し返すと太宰はへらと笑って一歩退いた。この男が上機嫌をひけらかす時ほど油断ならぬものはない。今しがた滑り落ちた告白ひとつにしたって何を企んでいるのか深読みをしなくてはならぬ案件で、そうとわかっていながら腹の底など到底読めやしないことが一番の厄介である。日頃からふわついた言動を繰り返す彼の言葉にはまるきり現実味がない。与謝野ははあと溜息をつく。
「溜息は傷つくんですが」
「だったらもっとそれらしく云うんだね」
「いくらでも云いますよ。貴女を愛してる」
「はいはい、妾も愛してるよ」
気まぐれに伸ばされた手を払うつもりだった。けれど彼の手はぴたりと動きを止め、おやと視線を上げた先で太宰は完全に虚を衝かれた顔をしている。与謝野は思わず瞬いた。え、と彼の緩んだ口元から腑抜けた声が零れ、まったく信じられないけれどその耳に朱までさしているものだから与謝野は文字通りに目を疑う。なんだその顔は。つられてこちらまで絶句してしまい、おおよそ自分たちに似つかわしくない沈黙を破ったのは太宰のほうだった。いやいや降参、と芝居がかった仕草で両手を上げる。
「案外やり手ですね、折角ですしもう一回云ってくれません?」
「調子に乗るんじゃない。大体何なンだい、さっきの純情ぶった気色悪い顔は」
「わあ女医ひどい」
私も吃驚しましたよ、その台詞に苦笑を合わせるものだから聞かぬふりをしなければならなかった。彼の深意になど間違っても触れてやるものか。与謝野は冗談も大概にしなと居心地の悪い応酬を切り上げにかかる。
「冗談?」
「うわ!」
けれど先よりもずっと強い力で腕を引かれ、驚いて顔を上げると彼が随分近い距離から与謝野を見下ろしていた。先刻置いたはずの一歩分の距離はまるきり意味を成さず、絡め取られた視線を逸らすこともできずに与謝野はきゅと口を引き結ぶ。
「別にいいですよ、貴女がそう思いたいのなら冗談でも構いませんし」
「は」
「言葉なんて所詮無力だ。貴女が目を逸らすのは自由ですが私の本当のところまでを否定するのであれば」
するりと頬をくすぐる。彼の指先にぞわと肌がうずいた。
「覚悟するように」
それだけです、ひらりと身を引いた太宰は何事もなかったかのように微笑んだ。引き攣った喉でかろうじて物騒だねと毒づくと、彼は序の口ですと嘯いて去っていく。
与謝野は天井を仰いだ。あの顔は何だ。何だったのだ。余裕ぶって攻め手を演じる彼の眼差しに彼らしからぬ焦燥の色を見た気がした。いいや気のせいだ。無意識に答えを弾きだそうとする思考を無理やり振り払い、与謝野は平静を言い聞かせてゆっくりと息を吐き出した。
【太与の場合】
愛してると突然言われた。どうせいつものくだらない冗談に過ぎないだろうから自分もだとからかうように言えば相手が顔を真っ赤にしてこちらを見るものだから面喰らう。なんだよ、その顔は!
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ただの仲直り
ゆるやかに浮上した意識がぼんやりと深い夜の色合いを捉える。暗がりのなかに携帯の充電のランプだけが点滅し、ひそひそと雨の音が聞こえて夕方から天気が崩れたことを思い出した。弱い雨音がほかの音を呑み込んで小さな静寂を作り上げる。思った以上に深く眠っていたらしい脳が起きるのを待ちながら、雨空よりもずっと気難しい薄紫の双眸を思い返していた。彼女は泣かなかった。溢れそうなそれを堰き止めて、うつくしい唇を噛みしめて、莫迦だねと言った。
剥き出しの感情を他人にぶつけることなど太宰には滅多にないことだった。
太宰の苛立ちも、それを曝け出した後悔も、彼女は真っ向からぶつかって受け止めた。
起き抜けにぼんやりするほど眠ったのはいつ以来だろう。
闇に慣れた瞳が彼女の白い肌を捉える。寝息を立てる彼女の寄り添いきらぬ体温が肌寒くて、太宰はシーツの中で彼女のからだを引き寄せた。
「な、に……」
「ああ、すみません、起こすつもりは」
薄く開いた目蓋をとろとろとまたたきさせて、おきてない、と彼女はぼんやり応じた。太宰は可笑しくてその頭に口づける。苛烈であざやか、情深く健全な意思を脳髄に詰め込み、本来相容れるはずのない彼女はそれでも太宰を受け容れる。
「罪深いおひとだ」
「……きこえて、る」
「ふふ」
太宰はわらって指通しの良い髪をさらさらと弄ぶ。彼女はその感触が心地よいようで、んん、と声をくぐもらせて目をつむった。うつろだった感情の端のほうがじわりと満たされる、太宰はいたく機嫌が良い。
彼女と喧嘩をして、仲直りをした。
たったそれだけのことだ。
「ねむいですか」
「アンタは……」
「もうすこし」
もう少し起きていたい。ぬくもりを持つ感情を名残惜しんで、太宰は息を吐くように笑んだ。ひとびとがこの時間をどう呼ぶかも知っている。けれどそれでは野暮な気がして、ひけらかしたい欲求をおさえて名前はつけないことにした。
「いいですよ、ゆっくり眠って」
「ん……」
くすぐるように髪を梳いて額にくちづける。かろうじて意識を保っていた様子の彼女が、優しい接触に目を閉じてうつらと擦り寄った。
「だざ、い」
「何です?」
「アンタが、怒ってくれて」
よかった、輪郭をなくした言葉はそのまま穏やかな寝息へと落ち着いてしまう。
太宰は息を吐いて天井を仰いだ。やられた、と喉元でちいさく笑う。死にも生にも頓着しない太宰の首根を離さぬ彼女は、太宰の内側にその感情すら諦めていなかったのだ。
寄り添う肌が温かい。うなじに残る情痕に彼女が気づかぬことを願って、睡魔の訪れぬ目を閉じて雨の音を聞く。
太与/眠らない夜、君のとなり
「君と、くだらない喧嘩ができるようになった」
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