アイキャンフライ
 頬をくすぐるようなやわい感触、鼻腔をかすめる甘やかな香り、たゆたう意識がぼんやりと彼女の気配をとらえて、は、と目を開くと思った以上に近くにブラウンの双眸があった。  がばとニュートは起き上がる。揺れるデスクの上、引っ繰り返りそうになったインク瓶を押さえながら、起きた、とティナの声は涼やかである。 「三徹目に臨む前に一度休んだほうが効率的じゃないかしら、ミスタ・スキャマンダー?」 「え、あれ、まだ二徹目じゃ」 「ねぼけてる?」  棘がある。  目を眇める彼女に、いや、とニュートは曖昧に言葉を濁した。思えばたしかに久しぶりに彼女の声を聞いた気がする。 「まったく、いい大人なんだから自己管理くらいちゃんとして、限度のわからない歳じゃあるまいし」  要するに無理の利く歳は過ぎたと言われている。君こそ、と反駁しかけて、すぐさま地雷となりうる危険性を思ってやめた。機嫌によっては先二日ほど口をきいてもらえなくなる。女性に年齢の話はタブーだという助言及び忠告をくれたのはジェイコブだったが、そうなると目下ニュートにできることは体力も気力も申し分ないと誠意的に示すことくらいだ。 「――まだいける気がする」 「早く寝なさい、ピーターパン」  諦観の滲む溜息であった。休眠を促す台詞とは裏腹に深入りせずに踵を返す、それが彼女なりの配慮とわかっているがいささか名残惜しいニュートである。さっきキスした、と背中に問うと、しらない、と軽やかにあしらわれた。
はすみさんは『徹夜失敗』もしくは『ポスト』というお題で、500字小説を書いてみてください。 https://shindanmaker.com/746629
たまに本気だす先生
 ついと逸らした視線をブルーの瞳にとらえられ、たまらず顔ごと背けると今度は両手で頬を掬われた。やや強引に引き戻された視線の先、間近に迫る彼の双眸はどこか剣呑で、ティナは本能的に顎を引かせる。こわい。 「は、離して、ニュート」 「君はいつも目をみて話せって言うのに」 「それとこれとは――」  話が違う。続くはずの抗議はあえなく彼に飲み込まれた。頬を押さえる手つきはやわらかく、そのくせティナの吐息を執拗に奪う唇はずいぶん荒っぽい。嫉妬、焦燥、ぎらつく双眸に見たのはそんな感情だった気がする。ティナは耐えかねてぎゅうと目を閉ざした。滅多に見せぬ彼の苛烈な一面、それがよりにもよって自分に向けられているなんて。 「あ、の……っ、ニュート、待って」 「だめ」  食われるような口づけに翻弄され、思考をまるごと持っていかれそうな危うさにティナはそろと目を開く。その一瞬だ。ばちりと彼の瞳とかち合った。まっすぐにティナを捕らえるしたたかな眼差しに、ひく、とティナの背が強張る。 「なん、で」  目を閉じぬまま。おののくティナの鼻先に自身のそれを擦り寄せて、ニュートは簡単なことだとゆっくり瞬きをした。 「きみが余所見しないように」    僕だけを見てと。掠れた声が耳朶を這う。  そんなことを言われては何ひとつ逸らせやしない。視線も意識もまんまと彼に籠絡され、やりきれぬ熱にくらりと目眩がした。せめて目を閉じてほしい。普段を裏切るティナの懇願は、ついぞ彼に届くことはなかった。
はすみさんは『流星群』もしくは『目を逸らす』というお題で、500字小説を書いてみてください。 https://shindanmaker.com/746629
窒息
 たかだか皮膚の接触ひとつ、いやふたつくらいはあるかもしれない、うぶな少女でもあるまいと自身をコントロールできるつもりでいたティナの思考はあっけなく麻痺して、揺らぐ理性ごと絡め取ってゆく熱量にすこし、おののいた。  くらりと甘い目眩がする。ティナの頬を包むてのひらも、擦り合わせた唇も、口腔でもつれ合う粘膜も、彼らしく優しくもあって時折荒っぽくもあった。いいように翻弄されるばかりのティナは為す術なく彼のシャツに縋りつく。鼻から抜ける声がまるで自分のものと思えない。ふわつく思考、待ってという建前すら飲み込まれ、ティナはとうとう可笑しくなって笑いだした。 「……ティナ?」 「ごめんなさい、ちょっとまって」 「キスを? 君が笑いやむのを?」 「両方」  掻き乱された呼吸と込み上げる笑いとで息が苦しい。ニュートは何がそんなにおかしいのかわからぬようで、あるいは焦らされている心境なのか、そんなに面白いかな、といくらか憮然とした顔をしている。正直ティナも何がこんなにおかしいのかわからない。 「アメリカってキスのとき笑う?」 「謝ったじゃない。あなたに皮肉は似合わないわ」  ふ、と吐いた吐息は思ったよりも熱っぽく、敏感にキスの名残りを察知したニュートが鼻先を寄せてくる。待ってってば、とティナはむずがるように笑った。 「ねえ、こんなキスどこで覚えたの?」 「知りたい?」 「いいえ」  彼がどんな女性とどんなキスをしたかなど考えたくもない。手前勝手な言い分ばかりのティナにニュートはいよいよ痺れを切らしたようで、待ってというほうの要求を却下して再びくちを塞いだ。じくりと熱がともる。くぐもった声も不自由な吐息もなにもかもを彼に籠絡されて、ああ、溺れそう、とティナは熱い舌をそっと含んだ。
はすみさんは『窒息寸前』もしくは『思わぬ弱点』というお題で、500字小説を書いてみてください。 https://shindanmaker.com/746629
たった一言
 やり場のない沈黙を漂わせて足を進める、けれど彼の歩調は普段よりもどこか鈍くて、のろのろと揺れる足取りに互いの肩がぶつかった。ごめんと告げる彼の声、大丈夫と応じる自分の声、上の空に交わされた会話はそれきり続くことはなく、行き交う雑踏に吸い込まれて消える。  なにか心細い。  無数の傷を持つ大きな彼の右の手、その小指にティナはそろりと手を伸ばした。 「……ひと、多いわね」 「うん」  指先を握る。ゆるく曲げた関節をひっかけて、するりと落ちかけたティナの手を彼の手が大きく包み込んだ。じかに触れる体温があたたかくて、それだけ胸の内がうら寂しい。正反対の感情を持て余してティナはそっとうつむいた。 「時間まにあうの?」 「大丈夫、余裕もって出たから」 「靴紐ゆるんでるわ、ニュート」 「船で直すよ」  普段通りを装う会話はそれでもどこか空々しくて、転んだってしらないから、と応じる声も笑えているかいまひとつ自信がない。本当ならもっと話したいことがある。本当なら指を絡めて握り返したい。  ぎゅうと握りしめられた手のひらは窮屈で、口にできぬ寂しいを彼ばかりが訴えているようで歯痒かった。ティナだって彼と同じだけ名残惜しいのに。 「……またしばらく会えないのね」 「すぐだよ」  すぐだ。言い聞かせるように繰り返す彼の声に、ティナはうそつきと笑った。 「あなたいつも私と会えない時間が長く感じるなんて言うくせに」 「あれは、そうだな、言葉のあや――口説き文句?」 「本気? あれで?」  そうだよ、と笑うニュートがやわい手つきでティナの指を辿る。皮の厚い指先がまるでティナをあやすように肌を撫ぜ、彼らしい触れ方が余計に胸を締め付けた。 「気をつけてね、ニュート」 「君も」 「あなたって目を離すとすぐ無茶するんだから」 「その台詞そのまま返すよ……」  指先で訴えるとようやく彼の手が緩んで、あなたほどじゃない、と抗議しながらティナはニュートの手を握り返した。関節のふち、手の甲、指の届く限り、彼に刻まれた傷跡をなぞってゆく。遠回しに心配を訴えるティナの手を一度強く握って、ここでいいよ、とニュートは足を止めた。 「……いつも、待たせてごめん」 「なによ、待っててなんて言ったことないじゃない」 「いや、だって、好きでやってる仕事だし、それで君を縛りつけるのも勝手だろ」 「そう? いつかよその男に逃げたってしらないから」 「待ってて」  僕を。食い込むような台詞にティナは笑ってしまった。今さら誰が逃げるというのだ。往生際悪く絡んだままの手をくんと引いて、躊躇いのちらつくブルーの双眸を覗きこむ。 「キスしても?」 「キスしないの?」  重なった声にそのままちいさな笑い声が重なった。する、と律儀にこたえた彼が片手でティナの頬を包み、遠慮がちなキスにティナは目を伏せる。皮膚のかたい掌、かさついた唇、交わされた接触は味気なくて呆気ない。一度触れただけの口付けが心許なくて、離れてゆく彼の唇を追いかけるようにキスをした。 「……いってらっしゃい、ニュート」 「うん」  かすめる吐息さえ名残惜しい。  焼き付けるようにティナを見つめたニュートが、やがて振り切るように目線を落として踵を返した。絡んだ手がほどける寸前、一度だけ力がこめられて、体温が遠のく。背を向けた彼はいつも振り返らない。遠ざかる猫背を見送りながら、温もりの残滓ごと手のひらを握りしめて、さむいな、とティナは息を吐いた。
はすみのニューティナへのお題は『泣きたくなるのは間違いだ』です。 https://shindanmaker.com/392860

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