乱与
事前の乱歩の忠告もむなしく満身創痍で帰社した敦の解体、もとい治療を終えて、少し休むよと欠伸まじりに彼女が医務室を閉じて二時間ほどが経つ。
定時は過ぎた。まばらに事務所をあとにする社員たちを横目に、乱歩はそろりと医務室に滑り込んだ。明かりは煌々とついているがひとの気配がまるでせず、奥の寝台のカーテンがきっちり閉ざされている様を見る限り彼女はまだ寝ているらしい。
知らず息をひそめている自分に気づいて乱歩は馬鹿馬鹿しくなる。
起こしにきたのだ。なにを遠慮する必要がある。
シャ、と薄い色合いのカーテンを引くと、案の定まっさらなシーツに身をうずめて眠る与謝野がいた。
「与謝野さん、そろそろ起きたら」
反応はない。穏やかな寝息だけが医務室の静寂のなかに輪郭を持ち、ちかと何かが反射したかと思うと枕元に鎮座する蝶であった。衣服が皺になりそうなものだがそのあたりはいいのか、と妙なところで無頓着な彼女に呆れる。
「与謝野さん」
触れるか迷って、やめた。
規則正しい彼女の呼吸。悪夢に怯えて眠ることをこわがっていた頃を思うとずいぶん成長した。無造作にほつれて艶すらなかった黒髪は、その身と心に栄養さえ行き届けばこんなにも美しい。
乱歩は緩慢に手を伸ばした。シーツに散った髪を掬い上げて、さらりと落とす。深い寝息。ながい睫毛が白い肌に影を落とし、そのコントラストに魅せられて、乱歩はそっと息を吐く。
嗚呼。これは。
「与謝野さん」
髪を挟まぬよう細心の注意をはらって、無防備な寝顔の脇に手をつく。キ、とかすかな音が立った。からだを寄せる。本来蝶が居座るはずの頭を撫でて、乱歩はそろりと顔を寄せた。
「――悪趣味だよ、与謝野さん」
ふ、と彼女の笑う気配がした。案の定である。目蓋から覗いた薄紫はしっかりと芯を宿し、ばれたか、などと吹いている。
「ばれるよ。僕をなんだと思ってるのさ」
「そいつは失礼したねェ、名探偵。わかってて襲ってくれてンのかと思った」
「襲ってほしいの?」
「アンタのほうが悪趣味だ」
淑女になんてことを訊くのだと彼女は可笑しそうにしている。なにが淑女だ。乱歩は鼻を鳴らして、髪に触れていた手のひらで彼女の柔らかい頬を辿った。
「君が淑女? じゃあ僕は紳士でなくちゃ」
「乱歩さんはいつだって紳士的だよ」
「皮肉に聞こえる」
「皮肉だからね」
鼻先を寄せると彼女がわずかに顎を引く。吐息がかすめるほどの距離、なんだいと空とぼけるような仕草に乱歩は目を細めて、いつの間に生意気にまでなった口を塞いだ。
「――ん、ぅ」
ひくりと細い肩が震える。舌を添わせたくちびるは少し苦く、うえ、と口付けの合間に呻くと彼女が息をついて笑った。
色づく吐息が鼓膜を甘く震わせる。シーツの擦れる音。軋む寝台。医務室の扉のむこう、お先に失礼しますという社員たちの声がやけに遠くに聞こえて、そういえばまだ人がいたのか、と乱歩はようやく顔を離した。
「レディのご要望に応えたっていう紳士的な建前は必要?」
「屁理屈の間違いじゃないのかい」
「どうだかね、君って昔から我儘が下手だから」
わがまま、と白々しく首を傾ける与謝野の髪を手櫛でなおしながら、おなかがすいた、お酒が飲みたい、続きがしたい、と彼女の我儘を羅列する。与謝野はくすぐったそうに笑い声を立てて、わかったよ起きるよ、とようやく降参した。
相ジョ
賑やかしいバラエティ番組の笑い声とやかましい彼女の笑い声、パソコンを相手にしながら聞いていた音からやがて、彼女の声だけが消えたことに気付いて相澤はタスクバーの時計を見た。いつの間にか日付が変わっていたらしい。作成途中のファイルに保存をかけてパソコンから顔を上げると、案の定ソファで船を漕いでいる福門がいた。
「おい」
相澤は溜息まじりに立ち上がる。そんなところで寝るな、と声を掛けたが一歩遅かったようで、すでに芯をなくした彼女の体がかくんと傾いた。
「福門」
んん、とくぐもった声が聞こえる。閉ざした瞼をうつらと持ち上げるあたりかろうじて起きてはいるらしいが、その瞼もろくな瞬きを成さぬままゆるゆる閉ざされてしまった。起きてはいるが起きる気はないらしい。
「起きろ、せめてベッドに行け」
「むり」
「おまえな」
なにが無理だ。
普段であればとうに叩き起こしている。けれどこのまま寝るとむずがる彼女の、仕事に追われて時に眠る時間さえ削られる日々を思うとさすがに気が引けた。いかんせん身を置くところは相澤も同じである。教師としてヒーローとして、それらの仕事がいかに体力と気力を消耗するか身をもって知っている。
はあ、と相澤は深い溜息をついた。仕方ねえなと呻いて、くったりと力をなくした彼女の体を抱き上げる。
「んー……」
「寝てろ」
職業柄平均以上に筋肉の乗った体は手放しで軽いとは言えない。けれど有する条件は相澤とて同じで、多少の距離を抱えて移動するくらいなら現場での業務よりもずっと容易い。密着する体温はまるで子供のように高く、こいつ本気で寝る体勢だなと相澤はげんなりしながら彼女をベッドに下ろした。
シーツのほうは思ったよりも冷えていたらしい。ベッドに横たわるなり福門は寝苦しそうにして、ふるりと細い肩を震わせた。
「さむ……」
「我慢しろ」
「あいざ、わ」
おまえは、と問う声は言葉足らずで要領を得ないが、おそらく先に続くのは寝ないのかというそれで間違いない。正直まだやることは残っているしテレビもつけっぱなし、彼女を運ぶだけ運んで本来なら眠るつもりなど微塵もなかった。
けれど。彼女があまりに寒そうにしているので。
三度目の溜息。相澤はベッドに乗り上がるとそのまま福門に覆いかぶさった。ぎし、とスプリングが音を立てる。遠慮なく伸し掛かる体重を受けて、夢うつつにいたはずの彼女の瞳がぱちりと瞬いた。
「――え、は?」
「なんだ」
「いやそれこっちの台詞、待ってこれ添い寝? 添い寝だよな? つーか仕事終わったの?」
「終わってねえよ」
まだなにか訴えようとしている口をうるさいと言って塞ぐ。一瞬前までまどろんでいたせいもあるのだろう、状況についていけぬ彼女の抵抗はどうにも拙い。
「寒いっつったのおまえだろ」
「え、温めてくれるとか? まじ? そういうの言っちゃう?」
「だれが言うか」
そんな薄ら寒い台詞。端から口にする気も起きないがどうせ必要もない。
「わかんだろ」
ひゅ、と彼女が無駄口を飲み込んだ。まじか、と引き攣った声を零す彼女の手をとらえ、往生際悪く逃げを打つ体を押さえつける。波打つシーツの合間、身を寄せた体だけがずいぶんと熱くて、口実すら不要だったかと相澤はひとり可笑しかった。
クリジル
ぱちりと目を覚ますとすぐ近くまで迫ったブルーの瞳があって、あら、と涼しげに呟く彼女をよそにクリスは一瞬声も出なかった。
「……ジル?」
「おはよう、クリス」
眼前で彼女が微笑む。文句なしに最高の寝覚めだ。体を横たえたソファが窮屈なこととデスクの上にはまだ書類が重なっていること、窮屈なスペースで彼女が馬乗りになっていることを除けばまさに完璧である。
「おはよう、まさか君に襲われてるとは思わなかった」
「あなたがメッセージ寄越したんじゃない、仮眠取るから一時間後に起こしてって」
「起こし方……」
「ご不満?」
いや全然、とクリスは溜息混じりに応じる。たしかに一時間前、クリーチャーよりよほど手強い睡魔にこれは寝たほうが効率的だとペンを置いて、アラームをセットするかわりにスキンシップの口実も兼ねて彼女に一方的なメッセージを飛ばした。返事も待たずにソファに突っ伏したあたり限界ではあったのだろう。正直今の今まで忘れていたくらいだ。
「すまん、助かった。起きるタイミング外したかな」
「そうね、無精髭でも抜いてみようかと思ったんだけど」
「君本当に容赦ないな」
本気でピンセットを隠し持っていそうなあたりが笑えない。もう少しお手柔らかに頼むよ、とクリスが苦笑すると、ジルがしたたかな双眸をきらりと煌めかせた。
「キスのほうがよかった?」
「無精髭よりはずっと」
「仕方ないわね」
駄々っ子をあやすように笑ってジルが顔を寄せる。さらと細い髪が頬をかすめて、クリスはメッセージを飛ばした一時間前の自分に喝采を送りながら目を閉じた。
キスを待ちわびる。けれどクリスが迎えたのは、それこそ母親が幼子におくるような、額へのやさしいキスだった。
「……そっちか」
「ここ職場よ」
額はセーフなのか、とクリスは思わず口を曲げる。というか誰がどう見ても彼女に押し倒されているようなこの体勢はいいのか。当のジルは他人事のように、物騒な顔、とクリスの不満顔をからかう。
「そろそろ起きる気になった? 私も仕事が残ってる」
彼女は彼女でクリスを構いきって満足したらしい。ふわりと伸し掛かる体重が減って、彼女の起き上がる気配をいち早く察知したクリスは咄嗟に細腰を抑え込んだ。ささやかな悲鳴。自由をなくしたジルがじっとりとクリスを睨んで、クリス、といくらか低い声で横暴な行為をなじる。
「前言撤回、不満だ」
「キスならしたわ」
「俺がクレアにするようなキス?」
「それ嫌がられない?」
心配ないと応じて、一応語尾に、たぶん、と付け足す。彼女が少々不憫そうな目をしたが素知らぬふりをした。言いたいことはいくらでもあったが話が逸れる。クリスは構わずに頭を引き寄せて、抗議の声ごと彼女の口を塞いだ。
「ちょっと」
首をよじらせる彼女の唇を追ってしつこくキスをする。もとはと言えばその気もなく挑発してきたのは彼女のほうだと、すべてを彼女になすり付けようとしたが無理があることもわかっていた。きっとあとで怒られる。額にキスをして謝ったら殴られるだろうな、と身勝手な口付けに興じながら、クリスは役に立ちそうもない謝罪の手を考えていた。
アルアニ
ごつんと鈍い音が聞こえて、果たしてそれが鈍い音だったのか鈍い衝撃だったのかあるいは痛みか、さらに言うと聞こえたというよりも脳内に響いたというほうが正しく、要するにアルミンはその一撃で目を覚ました。
後頭部が痛い。若干だが首も痛い。ぐらりと揺れた視界にはアニがいて、ごめん、という彼女の言葉を聞く限り先の一撃はどうやら彼女によるものらしかった。
「えっと……なにしてるのか聞いていい状況かな」
「寝込みを襲ってる」
「え? 物理?」
物騒に過ぎる。
なにか怒らせただろうか、と床に寝そべったまま本気で思案するアルミンを覗き込んで、アニは冗談だと驚くほど冗談とは無縁のような顔で告げる。彼女の冗談は基本的にわかりづらい。
「僕ひょっとして寝てた?」
「最初見たときはソファでね、さっき見たら落ちてた」
「え」
てっきり落下した衝撃で起きたものと思っていた。けれど目を覚ましたのはたった今で、アニの口ぶりからするとそれより前から床で寝ていたことになる。だとしたら先の衝撃は一体。アルミンは痛む頭でぐるりと考え込む。
「床で寝たら体痛めるんじゃないかって抱えたけど無理だった。あんた意外と重いね」
「え、いやまあそりゃ、っていうか抱えたの? 君が? 僕を?」
「いけそうな気がして」
「うわ……」
知りたくなかった。現状床で寝ていることがせめてもの救いである。
失敗に終わったらしいことでアルミンの面目もかろうじて保たれているが、少なくとも一瞬は抱え上げられたらしい事実が痛む頭に重たくのしかかる。そもそも彼女は抱えたが無理だったと言った。つまり、とようやくアルミンは後頭部の鈍痛の正体を把握する。
「つまり僕落とされたっていう」
「だからごめんって」
あらゆる情報とついでにダメージが多方面から来て、だめかもしれない、と思っていたらそのまま口に出ていた。無理だ、痛い、と床に身を投げるようにして彼女に訴える。
「立ち直れない」
「そんなに? もう一度やってみる?」
「そっちじゃないよ」
落とされたことに臍を曲げているわけではない。一体何だと思われているのだ。
ああ無理だ傷ついたとアルミンはわざとらしく駄々をこねる。男の矜持が、と言い募ったところで彼女がはあと溜息をついて、わかったよ、とアルミンの顔を覗き込んだ。
「悪かったよ、どうしたらその鬱陶しいのやめてくれる?」
「なんでもいい」
「うそつき」
彼女の言うとおりたしかに嘘だ。すでにアルミンの手はアニの頭に添えられていたし、彼女を引き寄せながらもその口元は笑っている。
素直に顔を寄せたアニが、これで満足かいと吐息混じりに問う。寝込みを襲っていると最初に吹いたのは彼女で期待したのはこっちだ。これから決める、と不実に答えて、アルミンはそれきり彼女の唇を塞いだ。
ニューティナ
シャワーを浴びてから一眠りすると言っていたはずがやけに静かで、もしやと寝室を覗いてみると果たしてそこにはベッドに行き倒れる魔法動物学者の姿があった。
はあ、とティナは頭を押さえる。三日以上をまたぐフィールドワークから戻ると彼はいつもこんな調子だ。擦り切れそうな顔で帰ってくることも擦り切れたように眠る姿も正直見慣れたけれど、今回は輪をかけてひどい。ティナは息をついて脱ぎ捨てられた靴を直す。
「ニュート、お願い、寝るならちゃんと寝て」
シャワーも着替えることも後回しでいい。せめてシーツに潜ってほしい。せめて枕を使ってほしい。きちんと体を休められる体勢で眠って、少しでも早くその疲労感から解放されたらとティナは彼の体を思う。
ニュートが起きる気配はない。無理に起こすことも気が引けて、ティナは早々に諦めて魔法に頼ることにした。杖を取る前にせめてネクタイくらいはと、自らの手で緩めようと彼に触れた途端、思いがけぬほど強い力で腕を引かれた。
「ちょ……っ」
ぐんと視界がまわった。腕に食い込む指が痛い。力任せに押さえ付けられた体に彼が馬乗りになって、悲鳴の出かかった口を大きな手で塞がれた。ふ、と声になりそこねた彼の名前がくぐもって消える。見たこともないほど強張った顔つきで、ニュートは懐から抜いた杖をティナに突きつけた。
――まずい。
ティナは咄嗟に首をよじって彼の指に歯を立てる。怯んだてのひらの、一瞬できた隙間から慌てて彼の名を呼んだ。
「ニュート!」
「え、――あ」
は、と青い瞳に正常な光がともる。
突きつけられた杖が離れた。力任せにティナを押さえ込む腕の力が緩んで、ごめん、と彼が覆いかぶさるように脱力する。
「ごめん、……そうだ、家だ」
「あなたいつも旅先でどういう生活してるのよ」
「ごめん……」
力なく伸し掛かる彼の背中を撫でながら、自分のほうこそ謝るべきかティナは迷った。不用意に触れようとしたのは自分だ。首元で盛大な溜息を吐いているニュートに、あの、とティナはこわごわ声をかける。
「私こそごめんなさい、その、ネクタイを緩めようとしただけなの」
「君が謝ることじゃない」
「でも」
「やめてくれ、君が僕に触れられない理由なんて作りたくないよ」
僕だって触れたいし、と呟く声はやけに神妙だった。おそらくだがそっちが本音だろう。それくらい口が回るならある意味心配もいらないと判断して、ティナは強張っていた体からようやく力を抜いた。首筋に触れるこそばゆい吐息と髪の感触から身をよじって、けれどそれすら許さぬと背に回った腕がティナをきつく抱き締め直す。
「気が張ってたんだ、本当にごめん」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないって言ったら一緒に寝てくれる?」
そんなに強く抱き締めなくたって逃げやしない。加減を知らぬ抱擁を受け止めながら、ティナはやれやれと息をつく。
「さびしかったってちゃんと言ってくれたらね」
「さびしかったよ、すごく」
「私もよ」
「……もしかしてここキスするところ?」
「そうね」
首になついていた頭を上げて、ニュートがのそりとティナに顔を寄せた。苦笑するティナの唇をやさしく塞いで、遠慮がちに触れていたそれが少しずつ熱を孕んでゆく。さびしかったのはティナだって同じだ。少しでも早く体を休めてほしいと願う心と裏腹に、素直な両手は長く焦がれた広い背中にすがりついていた。