2019年煩悩納め「キスから始まる」

ミツ木々/クリジル/乱与/相ジョ/ニクジュディ/ニューティナ/ダンソニ
ミツ木々
※転生パロ
 届きそうで届かぬ指先がようやく背表紙を掠めて、見かねてその本を引き抜いてこれですか、と差し出すと微妙な顔で睨まれた。 「……どうも」  彼女はにこりともせずに本を受け取る。  あれ、とミツヒデは目を瞬かせた。既視感。台詞に見合わぬ温度の低い声、他人に向けるにはあまりに遠慮のない眼差し、凛とした面立ちも短く切り揃えられた美しい髪も、どこかで見た。 (――見た?)  ちがう、とミツヒデは直感する。 (知ってる)  見たのではない。知っている。  長い髪を風に靡かせる姿を知っている。変化の乏しい表情が柔く綻ぶ瞬間を知っている。ぴんと伸ばされた背筋も、その身もその心もとても気高く美しかったことを。  ああ、とおもむろに彼女が声を上げた。  知っていると訴える感情と知らぬと訴える記憶の狭間でひとり葛藤するミツヒデを前に、そういうことか、と彼女のほうはひとり納得している。 「覚えてないわけ」 「え? ああ、申し訳ない、やっぱりどこかで――」  言い切る前に彼女がすいと距離を詰めた。  さらりと細い髪が揺れる。ミツヒデは呆けたまま彼女の耳元を見ていて、そこには何もぶらさがっていなくて、なにか足りない、と訴える感情はやはり彼女を知っていた。  踵を浮かせた彼女が顔を寄せる。  掠めるように頬にキスをして、私は残ってる、とミツヒデの瞳を覗き込んだ。 「胸に置くって、私は言ったから」  彼女が微笑む。  あんたは覚えてなくてもいい、と言うようでもあった。  なにかが噛み合う音がした。  ざあといくつもの情景が蘇る。いくつもの声。いくつもの顔。あまりに膨大な記憶たちはそのくせすべて優しく美しく、その景色と今目の前にある彼女の表情がようやく重なって、ああ、とミツヒデは無防備に声を取りこぼした。 「――……木々」  うっかり泣くところだった。  名を呼ばれた木々は、ミツヒデにしてみればようやくその名を呼べたというのに、ひとつ瞬きをするなり露骨に不快そうな顔をした。 「……覚えてないんじゃなかったの」 「いや、違う、思い出したんだ、今思い出した」 「都合よすぎ」 「本当だって、その目やめてくれ」  再会早々から視線が痛い。  木々はしばらく推し量るようにミツヒデを見つめて、やがて溜息をついた。 「別にいいけど。あんたとまた会えたのも悪くはないし」 「言い方な……」 「また振られるとしてもね」 「頼むから抉るな」  黒歴史だ、と主張するとこっちだって同じだと彼女も譲らない。記憶上の景色があまりに美しいだけに、この話を蒸し返すのは互いにとってひとつも利益がないのでは、とミツヒデは危惧する。思い出は思い出のままにとは誰の言葉だろう。名言だ。 「今はわからんぞ、何のしがらみもないんだ、今度こそって可能性もある」 「ああそう」 「おーい、傷つくぞ」  木々が付き合ってられないとばかりに踵を返そうとする。こういうところは本当に変わらない。ミツヒデは呆れる一方で感動すら覚えていて、まだひとつ残された案件をひそかに期待して彼女の腕を取った。 「――なに、ミツヒデ」  変わらぬ声が。ミツヒデの名を呼ばう。  ミツヒデは破顔した。胸を焦がす感情の名前はわからなくて、名前などつけるだけ野暮のような気もして、抱きしめてもいいか、と泣きたくなるほどのそれを誤魔化した。
クリジル
 触れた唇からジルの動揺が伝わって、気づいたら触れていた、というろくでもない衝動から今に至るクリスの動揺も彼女とさほど変わらなかった。そのくせ進展とも呼べぬこの事態をなかったことにもしたくなくて、彼女の頬を優しく押さえながら、ああ、とクリスの頭に諦念がよぎる。ああ、いずれこうなると思っていた。  ちょっと、だとか待ってだとかその類いの言葉をやわらかい唇が不自由に訴えている。踏み止まるべき状況下にあって、けれどうごめく唇はあまりに扇情的で、クリスは本能と理性の狭間でひとり切実に葛藤した。これまでの関係だとかフライングだとかそれがなんだ。ひと思いにがっついてしまいたい。  結局理性に負けた。 「……すまん」 「謝るのもどうかと思う」  ようやく自由になった息をゆっくり吐き出しながら、ジルはまるでクリスのデスクを注意するかのように咎める。片付けたほうがいいと思う、という時の声の調子とよく似ている。この状況で駄目出しもどうかと思う、という反駁を、クリスはかろうじて飲み込んだ。 「他にどうすればいいんだ」 「愛してるって囁く?」 「今ものすごくハードルが上がったぞ」 「じゃあいっそのことがっつくとか」  ジルは涼しげである。がっつくところでした、とは流石に言えず、クリスは渋い顔で言い訳を探す。 「……最初のキスでがっつくのは決まらないだろ」 「今さら?」 「今さらって」  がっついた覚えなどない。それとも記憶にも残っていないところで何かやらかしたか、とクリスは記憶を辿る。命知らずにもほどがある。  静かに狼狽するクリスを見上げながら、ジルはどういうわけかここで微笑んだ。長らく相棒をつとめてきた男に、相棒の距離を保ち続けてきた男に、ある意味裏切りとも言える行為を働かれたばかりの彼女である。詰られてもおかしくはないと覚悟すら決めていたクリスに、今さらだわ、とジルはゆるやかに笑った。 「だって今までずっとそうじゃない、油断すると銃はなくすし装備落とすし、ああ、船を間違えたこともあったわね、それにデスクは散らかってるし煙草は減らない。あなたが決まってたことなんてほとんどない」 「言い過ぎだ」 「でもそれがあなたでしょ」  彼女の手がそっとクリスの頬に触れた。澄んだ瞳をすいと細めて、ほんのわずかに、切なげに眉を寄せる。初めて見る顔だった。 「今さらだわ、本当に今さら」 「ジル」 「私、そんなあなたにずっと焦がれてたのよ」  彼女の手はやわらかい。無骨な銃器を長年扱い続けた手だ、傷だってたくさん重ねただろう。自分と同じで皮膚などとうに硬くなっていたと思っていたけれど、彼女の手はやわらかくて優しくて、きちんと温かい。  クリスは無性に泣きたくなった。 「俺だってそうだ」  彼女の手を包み込む。  ああそうだ、たしかに今さらだ。 「俺だって君をずっと愛してた」  知ってる、とジルは息を吐くように笑った。  堪らなくなって顔を寄せた。ハードルは、とジルが可笑しそうに茶化してくるのでキスで塞いで、吹っ切れた、とクリスは今度こそ心置きなくその唇に噛み付いた。
乱与
 こら、と与謝野の手が滑り込んだことで乱歩の暴挙は未遂に終わった。  暴挙、とはすなわち平日の真昼間、事務所には暇を持て余した一部の調査員というか太宰がだらけているなかで、いつ誰が撃たれただの爆弾に吹き飛ばされただのナオミに抱き潰されだので飛び込んできてもおかしくない状況下、医務室にて乱歩がうっかり与謝野との距離を違えたことに他ならない。  与謝野はずっと背を向けていた。ボランティア先の病院へメールを打っていた。  与謝野さん、と呼びかける。少し待っとくれと後回しにされる、あるいはどうしたんだいと手を止めずに応じる、いくつかのパターンを想定していたうち彼女が返したレスポンスは、なんだい乱歩さん、とすぐに振り返る、というものだった。  充分だった。その唇を狙った。 「――乱歩さん」  けれど戦う医者の反射神経は侮れない。  華奢な手が乱歩の口を押さえる。グローブ越しではそれらしい色気などあったものではなく、乱歩はなに、と不機嫌に眉をひそめた。此方の台詞だ、と与謝野も眉をひそめる。 「なんだい、乱歩さん。セクハラなら受けて立つよ」 「それつまり切り刻んで治すって意味?」  与謝野は何も言わなかった。それ以外になにがある、と薄紫の瞳がじっとり告げている。 「うーん、長年続いた中途半端で不毛でまどろっこしい関係に終止符でも打とうかと思って」 「長年続いた中途半端で不毛でまどろっこしい関係をアンタは面白がってるンだと思ってたよ」 「それもある」 「だろうね」  はあ、と与謝野は溜息をついて乱歩の口を解放した。口付けを狙った口には効果的であっても、屁理屈ばかり捏ねる口にはまったくの無意味と悟ったのだろう。賢明である。 「段階とか必要? どうせ与謝野さんだってそのうちこうなるってわかってたでしょ、効率的にいこうよ」 「現状むしろ非効率だろ。まったく乙女心ってモンがわかってないね」 「――乙女」 「張ッ倒すよ」  乱歩はふむと鼻を鳴らして、乙女ね、と彼女の頬を両手で掬い上げた。強引に顔を上向かせられた与謝野が身を固くする。美しい瞳を大きく開いて、なんだい、と乱歩に問う。その双眸にちらと緊張の色が映って、乱歩はそのとき幼子にほだされるような奇妙な感覚を味わった。 「まあ、そうだね、身勝手で傲慢で強欲な僕は正直さっさと自分の思い通りに話を進めてしまいたいけど」 「自分で云ってちゃ世話ないね」 「与謝野さんだけは特別だ」  彼女の額にくちづける。  じわ、と黒髪から覗く耳が色づいて、そこには出会ったばかりの無垢な少女がたしかに息づいていて、乱歩は満足がって微笑んだ。 「一応僕も大人だしね、譲歩くらいはできる」 「一応ね」 「君のためなら紳士的に非効率を楽しんであげてもいい」  彼女は果たしてどごまでわかっているだろう。この江戸川乱歩が他人にほだされたのだ。他人に譲歩したのだ。それほどの感情とその意味を。  えらそうだ、と与謝野が溜息まじりに笑った。そんな僕が好きなくせに、と乱歩は肩を竦める。長年続いた中途半端で不毛でまどろっこしい関係、彼女が執着するばかりに結局まどろっこしいではないか、と乱歩は機嫌がいい。
相ジョ
 冷えた夜だった。店を出るなり酒に火照った体がいっそう冷え込むようで、寒くないか、と問うた先の彼女が存外平気そうな顔をしていたこともおそらくきっかけのひとつである。思えば彼女が酒に強いのか弱いのか、それすら相澤は本当のところを知らない。  酔ってるだろ、と彼女がキスの合間に訴える。  相澤は何も言わずに黙らせた。うるさい、と口にするのも億劫だった。酔っていると言えば酔っている、けれどこの行為が彼女との関係にどんな影響を及ぼすのかも、すでにどう取り繕ったところで後には戻れぬことも、まともに計算できるくらいには冷静だった。 「相澤」  訴える声ごと唇を押しつぶす。福門の声が相澤の真意を探るようなものであったことにも気づいている。人のテリトリーにずかずか踏み込んでくる彼女はどういうわけか人に踏み込まれることには敏感で、おそらくその防衛機制として現在のやかましい性格が形成されたのだろう。笑顔は時に牽制にもなりうる。相澤の知る福門笑という人間は、そういう意味ではやかましいというよりも面倒と言えた。  踏み込むけれど踏み込ませない。  そんな勝手があるか、と相澤は納得がいかない。 「待てって、相澤……っ」  ぐいと力づくで押し返されて相澤はようやく彼女を解放した。冗談を期待するかのような声はすでにその効力をなくし、かろうじて笑ってはいるが相澤を見上げる瞳はどこか切実でもある。 「酔ってんだろ」 「酔ってない」 「酔っぱらいは大抵そう言うんだって、疲れてんのか? たまには休み取れよな」  不自然に饒舌な口がどうにか話を逸らしたがっている。あわよくばそのままなかったことにするつもりだろう、その程度で逃げられると思っているのか、と相澤は腹立たしくもあった。舐めるな、と距離を取ろうとする福門の腕を捕らえる。 「酔ってないっつってんだろ、大体酔ってたとこでこんな真似するか」 「まじっぽい顔すんなって、帰って寝てさっさと忘れろよ」 「福門」 「忘れろって」  彼女の言葉は頑なだった。  聞きたくない、とその瞳が訴えている。腕を掴んでいなければ両手で耳をふさいでいたかもしれない、そうとまで思わせる、彼女のここまで不安定な情動を見るのは初めてだった。  相澤は舌打ちをする。  こんな顔を見せられて何をどう忘れろと言うのだ。 「おい、逃げるな、ちゃんと聞け」 「いーやーだー!」 「ガキか」  相澤の手を振りほどこうとする福門の抵抗はおそらく本気で、抑え込むくらいは容易でも到底話などできる状態ではない。  相澤は顔を顰める。二度目の舌打ち。力任せにその腕を引き寄せて、大人げなく抗う彼女の体ごと抱き締めた。  福門が身を固くする。  まじかよ、と笑う声は、どこか乾いて聞こえた。 「……なんで、今まで通りでいいじゃん、おまえも私も誰かに執着するとか執着されるとか向いてないよ」 「おまえまじか? 向いてなかったら今こんなことになってない」 「意味がわからない」 「意味がわからないのはおまえの馬鹿げた思い込みだ」  忘れてやるつもりはない。なかったことにもしてやらない。まだわからないかと、相澤は溜息混じりに彼女に聞かせる。 「俺もおまえもとっくに馬鹿馬鹿しいくらい執着してんだろ」  彼女が今まで通りを望んだ時点で答えなど出ていたようなものだ。今さら怖気づいてんじゃねえと追い打ちをかけると、福門がふつりと押し黙った。 「……おまえ、少しくらい容赦しろよ」 「不合理だ」 「そういうとこだっつーの」  福門はぐったりと力を抜いて、勘弁しろよ、と相澤の腕の中でようやく観念した。
ニクジュディ
 資料室の共有デスクでウサギが一羽、撃沈している。  ニックはそろりとジュディの頭を見下ろした。寝ている。ウサギの警戒心とウサギの耳をもってすればこちらの気配や物音くらい難なく察知できそうなものだが、残念ながら双方とも本人と同様仕事を放棄している。熟睡である。  ニックは周囲を見回した。誰もいない。耳を澄ませる。だれも来ない。  今いちど相棒の寝顔を見下ろした。にんじん、と口にした声は思ったよりも小さくて、起こす気などないではないか、とニックは自嘲する。  鼻先を寄せた。  頬は自信がなくて、ほんとうは自信よりも勇気がなくて、ニックは彼女の耳の付け根にキスをする。 ***  キスしたでしょ、とジュディの声には欠伸が混じっていた。  ニックは背を向けていた。彼女が散らかした資料を棚に戻しながら、おはようさん、と振り返らずに応じる。 「何かしあわせな夢でも見てたかい」 「うーん、臆病なだれかさんが耳にキスする夢?」 「君が夢と言うなら夢だろうな、不憫なだれかさんもいたもんだ」 「ほんとよね、間抜けなだれかさん」  夢にしちゃっていいの、とどこか乾いた声でジュディが問うた。ニックは振り返らない。資料をかたんと戻して、君の好きなように、と逃げを打つ。 「なにそれずるーい」 「狸寝入りだって卑怯だろ。ああ、狸寝入りって差別用語か? ていうかしっくりこないな、ウサギの狸寝入り」 「話逸れてない?」  逸れている。というかこのまま逸れてくれたほうがお互いに有益ではないか、とニックは計算している。  これ以上何を望むというのだ。頬にさえキスを躊躇するニックの臆病はそこにある。これ以上を望んで、これ以上を望まぬ彼女に拒まれたら。今までのままのほうがずっとよかったのだと、たかだかキスひとつで後悔する羽目になったりしたら。 「……夢にしないって言ったら?」 「君にキスをする」 「真面目に」 「大真面目さ」  ここでようやくニックは体の向きを変えた。  ジュディがまっすぐにこちらを見つめている。かち合った瞳からどうやら彼女も真面目らしいことを知って、ああ、とニックは溜息をついた。ああ、たぶん、負ける。 「他に聞いておきたいことは、お嬢さん?」 「私のこと好きでしょ?」 「君ってたまにジャブなしのストレート打ってくるよな」  もはや観念するほかない。 「ああそうさ、君の言う通りだ」 「キスも? 認める?」 「認めますよ、おまわりさん。ぜんぶ認める」  ニックは両手を広げた。思えばそうだ、彼女は最初からそうだった。ひとの臆病風などお構いなしに手を取って、湿気たところから明るい場所へとぐいぐい引きずり出してしまう。  そこに彼女がいるなら文句はない。卑怯も認める、臆病だったことも認める、間抜けはきみに言われたくないけど、と並べ立てながら、ひとつの言葉を待つ彼女との距離を改めて縮めてゆく。 「キスしたことも認める、本当は頬にするつもりだったこともね」 「意気地なし」 「そうさ、それくらい君が好きなんだ」  鼻先を寄せる。もう後に引けないぞ、と最後の防衛線。必要あるの、とジュディが笑いながら顔を寄せてきたので、ニックは答えるかわりにその口を塞いだ。
ニューティナ
 ソファで本を読んでいるうちにうたた寝をしていたらしい、うつらと目を覚ますと息を呑むような声が聞こえた。  慌てて身を離す気配にずいぶん間近に彼が迫っていたらしいことを知る。眼前で挙動不審にしているニュートを睨めつけながら、なあに、とティナは寝起きの声に最低限の棘を添えた。起き抜けに人を睨むというのもあまり気分のいい動作ではない。 「なに? いたずら? 私の顔に何か書いた?」 「書いてない、僕ってそんな非常識に見える?」 「本気? 私あなたが色々やらかしてる現場何度も見てるし何度も巻き込まれてる」 「ごめん」  殊勝に謝るニュートは瞬きが多く落ち着きがない。非常識やいたずらはともかく、何かやったか少なくとも企んだな、とティナは当たりをつけた。  膝の上で開きっぱなしになっていた頁に栞を噛ませて本を閉じる。うろうろと視線を彷徨わせる彼の自白あるいは弁明を無言のまま待って、果たしてどちらで来るだろうか、とティナはシミュレーションを始めた。弁明を試みてうまくいかずに結局自白となる。この線がいちばん濃厚だ。 「ええと、つまり、出来心と言えば出来心だけど君が思ってるような悪意とかそういうものじゃなくて、むしろ真逆というか」  弁明。ティナは涼しい顔で彼の話の行く末を見守る。 「いや、僕にとってはそうだけど君はもしかすると不快に思うかもしれない、本当は風邪をひくから起こそうと思ったんだ、結果的に起きたからそれはいいんだけど」 「話逸れてない?」 「逸れてる」  懸命に笑いを堪えるティナの苦労など露ほども知らず、ニュートははあと溜息をついて両手を広げた。降参のジェスチャ。目線は逸らされたまま。 「……きみにキスしようとした」  自白。ふ、とティナはたまらず笑い出した。  ニュートはばつが悪そうに斜め下を向いている。ごめん、と再度付け足された台詞はずいぶん悲壮感を纏っていて、彼にとってはそれほど大事だったのだろう、と思うとティナはくすぐったくてたまらない。  この感情は味わったことがある。  期待と不安と、そこに灯る熱。彼といるとこんなことばかりだ。 「――むかし、一番最初の事件というか騒動というか、ニューヨークであなたを見送ったとき」 「ああ、うん、覚えてる、本を渡すって約束した」 「あのとき、キスしてくれたらよかったのにって思ったわ。それで今は」 「今は?」 「なんで起きてるときにしないんだろうって思ってる」  ニュートがそろりとティナを見つめた。  かち合った視線に心臓がどくりと大きく跳ねる。ニュートは黙ったまま再びティナとの距離を詰めてきて、その顔はいくらか緊張を帯びていて、どうやら迷う様子もなければティナの言葉を確認し直す様子もない。ああ、これは、たしかに、とティナはじわじわ這い上がってくる羞恥と緊張を懸命に耐える。たしかに結構な大事だ。 「……待ってほしいって言ったらまた謝る?」 「待てないと思うからどのみち謝ると思う」 「じゃあ言わないでおく」 「ありがとう」  彼の手のひらが頬に触れる。思ったよりもずっと熱い手だった。顔を寄せたニュートの吐息が唇に触れて、待ってと訴えるにもすでにまともに声は出そうになくて、寝ていたときのほうがよかったかもしれない、とティナはきつく目を閉じた。
ダンソニ
 かりかりとペンの走る音が夜更けの研究所に響き渡る。  ホップは今ごろ家に着いた頃であろう。弟と入れ替わるように研究所を訪れて、そのとき彼女はすでに気難しそうなレーダーと睨み合っていて、挨拶がてら彼女の手元を覗き込んだダンデは邪魔してはまずいと即座に判断して好奇心を殺した。バインダーに挟まれた用紙は見るからに難解で緻密で到底解読できたものではない。以降彼女のペンの音を背景に、ダンデは書棚の前で目新しい資料を物色している。  彼女の横顔を思い返す。日頃から表情豊かなソニアの、そうとは思えぬほど引き締まった真剣な表情。未知の世界を追求するまっすぐな眼差し。あんな顔もするのか、とダンデは見知らぬ彼女の世界と表情を思って頬を緩める。  ふいにペンの音が止まった。  こつこつとバインダーを叩く音。なにか考えているのだろう。  少しの沈黙を挟んでから今度は足音がして、ふわと柔らかい香りが漂ったかと思うとすぐ隣にソニアが並んだ。ダンデを邪魔とも咎めず資料を探している。ダンデはじっくりとその横顔を眺める。 「ソニア」 「んー?」  手伝おうか、と言うつもりであった。  彼女の無防備な声を聞いた途端に脈絡が飛んだ。 「キスでもするか」  がっしゃん、とバインダーが落下した。 「……は?」  ソニアがダンデを見上げる。その顔には怪訝という二文字がめいっぱいに書かれていて、急になに、とソニアはその表情通りの一言をダンデに向けた。 「新種のポケモン?」 「今のがポケモンの名前に聞こえたか?」 「しらないよ、日常会話に滑り込んでくるポケモンなんていくらでもいるし、ポットデスとか、マーイーカとか、あとえーと」 「……」 「フシギダネ!」 「ソニア」  ひくりと彼女が緊張を帯びた。  落下したバインダーを拾い上げる。焦燥を取り繕った結果として妙な方向に饒舌になっていたのだろう、差し出したバインダーを受け取る彼女の視線はどこかぎこちなくて、ダンデはこの時点で失言の撤回をやめた。 「口説いたつもりだ」 「今ので? ふつうキスでもなんて言い方する?」 「それらしい口説き方がいいならそっちでもいいぞ、ソニアが逃げないならな」 「なにそれ怖い」  何言う気、とソニアが身構える。ダンデは答えずに細い肩に触れた。弱い力で肩を押して、え、え、と戸惑う彼女の体を書棚に押し付ける。哀れなバインダーが再び落下した。 「あ、あの」 「ソニアのいろんな顔がみたい」 「え? 待って本気?」 「オレはいつでも本気だ」 「ひ……っ、なんで、急展開すぎ、どうしちゃったのダンデくん」 「どうって」  こんなの今さらだ。触れたかったことも、自分だけが知る顔が見たかったことも、独占欲も情欲もずっとあった。  身を竦める彼女の耳に口付けて、ダンデは伺いを立てるように彼女の顔を覗き込んだ。耳まで赤くしたソニアはいよいよ逃げ場をなくして、ここ職場なんですけど、と苦し紛れの牽制を呟いて顎を引かせる。 「……するの?」 「する」  言うなりダンデは顔を寄せた。ソニアがぎゅうと目をつむる。無邪気な表情、真剣な表情、それらの色合いを思うと今の彼女はあまりに扇情的で、自制を言い聞かせた理性もろくすっぽ機能せず、結局彼女から抵抗の気力を奪うほど余裕のない口づけとなった。

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