ミツ木々
※なにか起きた未来or転生/お好きなほうで
たとえば、と掠れた声がいつかの仮定を紡ぐ。
「たとえばあの時こうなってたら」
木々は鼻白んだ。露骨に白けた感情がそのまま顔に出ていたらしい、そんな目で見るな、と話を切り出した男は早々に気を削がれている。
「その話続ける意味ある?」
「少しくらい感傷に浸ってもいいだろ」
「浸るとしたらふつう私のほうだと思うけど」
「浸るのか……?」
おまえが、と言外に続く言葉がはっきり聞こえるようで木々は辟易する。浸るわけがない。浸るわけがないけれどこの男に言われる筋合いなどない。
さらりと器用な指先が、その言葉の無神経さすら掻き消してしまうほど丁寧に木々の髪をくすぐる。この男の優しさはおそろしく厄介だ。持ち前の誠実さも、正直な瞳もその心も、いつから焦がれていたかわからないというのに。
「振ったのはあんたでしょ」
「あんなにかっこよく振られたら俺だって引きずる」
「へえ、引きずってたの」
「それなりにな、こう、複雑だったんだよ」
複雑だと言うくせにその眼差しが揺れることはない。今もあのときも、いつだって彼が木々に向ける感情はまっすぐで、複雑だという情けない本音すらまっすぐに木々に届く。
「しってる。おかげで私は二回も振られた」
「悪かったって」
「二回も振られた」
「連呼するな」
ミツヒデは苦笑して木々の頬に触れた。他人にも自分にも誠実であり続ける彼は、あれからもあれまでも距離を違えることは一度だってなかった。それなら今も間違ってはいないのだろう、と木々はその手のひらを甘んじて受け入れる。
「正直言ってあの時のことは後悔してないんだ。おまえへの信頼とか情とか、そういうのに靡かないで答えを出せた」
「そうだね、ゼンを引き合いに出してまで」
「それ本当に忘れてくれないか……」
「冗談」
普通であればほだされている。それを撥ね付けたこの男がその後一部の人間から変人の扱いを受けていたことも知っているが、それでもミツヒデは、ほだされることよりも靡いてしまうことよりも、木々が大事だと告げることを選んだのだ。相棒として、背を預ける者として、唯一無二の人だと。
木々を傷つけるとわかっていながら。
その覚悟は実におろかで美しい。
「で、結局何の話」
「いや、話の腰折ったの木々だろ」
「こんなタイミングで明らかに面倒くさそうな話始めるから」
「面倒くさいって言うな」
つまり、とミツヒデが仕切り直す。触れる手のひらが熱い。彼の手が自分のそれよりもずっと大きいことは知っていたが、存外骨張っていることも、その性分を裏切らず優しいことも、木々は初めて知った。
「つまり、あの時こうなってたらこんな風には木々に触れられなかっただろうなとか、一応思うところがあってだな」
「思うところね」
「靡かずにいられたからな、木々は好きだけどそういう気持ちじゃないって。だからこそ今の気持ちはそうだって言い切れる」
「下心?」
「みなまで言うなよ」
そうなんだが、とどこまでも正直な男である。
けれどきっと彼の言うことは正しい。親愛と愛情という区別の難しい感情をいっしょくたにして、あるいは木々を傷つけまいと見て見ぬふりをして、あの時木々の思いに答えていたらミツヒデはきっと躊躇していた。木々に対して誠実でなかったとか何とか、そういうことを後ろめたく感じてしまう男だ。その時の表情まで想像できるようで木々は可笑しかった。
「真面目だからね、ミツヒデ」
「いや、まあ、真面目というか、そんな中途半端におまえに触れたりなんかしたら身の危険が」
「あんたの周りいつからそんな物騒になったわけ」
「たぶんゼンに蹴られるだろ、あとオビに首締められそうだしメイドに睨まれそうだし兵たちにシカトされそうだし」
「ああ……」
「それに俺がな」
俺が許せないだろうな、とミツヒデは朗らかに笑う。
「ためらうくらいおまえは綺麗になっていくから」
剥き出しの口説き文句にさしもの木々も面食らった。
そんなことを言うからオビに生温くからかわれるのだ。柔らかい眼差しをしたミツヒデは何ひとつ迷う様子がなく、それどころかたしかな熱をもって、木々を見つめる。
「……さすが超貴公子どの」
「木々こそ本当に鉄壁だな」
口説いたんだが、とミツヒデが控えめに苦言を呈した。
頬に触れる手がそっと木々を引き寄せる。二度も振られた身としては一度くらい振ってやるつもりでいたが、触れる手のひらがどうにも惜しくていけない。あんたにだけ、とどうにか憎まれ口を叩くとすごい口説き文句だ、とミツヒデが笑った。結局ほだされているのは木々のほうである。彼らしからぬ下心を無下にするのも勿体なくて、すべて振った彼が悪い、と体よくなすりつけて目を伏せる。遠回りに遠回りを重ねた口づけは笑ってしまうほどくすぐったかった。
クリジル
たとえば、と零れ落ちた声はどこか独り言のようだった。
無骨な指先がゆるゆるとジルの髪をくしけずる。彼の眼差しはジルを見ているようで、見知らぬ誰かのブロンドを見ているようで、もっと遠くを見ていた。遠く。たとえば互いが互いを失うことなど微塵も考えていなかった、愛おしくも愚かな時間を。
「……聞きたくない気がする」
「君の勘は本当に頼りになるな」
「それ皮肉?」
「ただの愚痴だ。聞き流してくれ」
「聞き流せる話ならいいけど」
大体からしてこの男の愚痴がただの愚痴であるはずがない。必要以上に物事を背負い込んで気づいたら寡黙のレッテルを貼られていたような男だ。その口からわざわざ溢される愚痴など。
「あの時君が俺を庇いさえしなかったら」
「前言撤回。ぜったいに聞きたくない」
「まだ出だしだ」
「だから我慢しろって? 本題に入ったら私は耳をふさぐ」
「君らしくないな」
「話聞いてる?」
聞いてるよ、とクリスの口ぶりはまるで他人事である。あのときの話もあれからの話も、どんなに言葉を選んでどんなに控えめに表現したってせいぜい地雷原がいいところだ。あちらを避ければこちらが危うい。そういうデリケートな話だ。
ああ、とジルは落胆した。
デリケート。クリス・レッドフィールドに期待してはいけない代物のうちの一つだ。
「聞き飽きたわ、あなたがずっと自分を責めてることも知ってる。私には私のせいじゃないって言うくせに」
「君のせいじゃない」
「もう耳ふさいでいい?」
「俺は何度も考えたよ、君がもし俺を庇いさえしなければと。そうやって自分を責めて考えないようにしていたんだ。君は何度同じことを思っただろう」
同じこと、とジルはクリスの言葉を繰り返した。彼を庇いさえしなければ。考えもしない仮定が、けれど彼の言葉にはわずかな自嘲とともに、たしかな諦観とともに、根付いている。だとすれば本当にろくでもない話だ。
本当に聞きたくない。
「その話続けるなら本気で怒るわよ」
「今さらだ、だって君は死なせてくれと何度も願ったはずだ」
「やめて、クリス」
「俺を庇ったことを、きっと、何度も後悔した」
「やめて――やめて!」
ひどい声だった。やめて、と引き攣れた声で懇願しながらジルはたまらずクリスの口を抑える。よりにもよって最悪の地雷を踏み抜いた。
「お願い、聞きたくない」
「図星か?」
「違う! いい加減にして、私が――」
く、と喉が震えた。腹立たしいほど穏やかな双眸を見つめ返しながら、まずい、とジルは奥歯を噛む。まずい。泣きそうだ。
「私に何を後悔しろって言うの? だってそんなの」
「ジル」
「そんなの、あなたを死なせることが正しかったみたいだわ」
視界が滲む。考えたくもなかった。友人で相棒で戦友で、いくつもの惨劇と覚悟と他愛ない時間を共有した唯一の人だ。そんな彼を何もできぬまま失うくらいならこの身を擲つことくらいわけなかった。目の前で彼を死なせる絶望にくらべたら。
彼をなくしてまで生きる時間にどんな価値があるのだろう。
そんなことは彼だってよくわかっているだろうに。
「君には、俺を責める権利があると言いたかったんだ」
「二度と口にしないで」
すまない、とクリスが苦笑した。不器用な指先がそれでもありったけの繊細さでジルの涙を拭って、頬を撫でる。この感触すら失うべきだったとでも言うのか。この男なら言いかねない、とジルは震える息を吐く。この手が血濡れたことを、自分以上に背負い込んでしまったのは彼だ。
「……あなたにそんなことを言わせるくらいなら死んだほうがましだった」
「ジル」
「あなたが怒るの? 勝手な人」
何か言いかけた彼の口を、ジルは自分のそれで塞いだ。かさついた唇を擦り合わせる。甘やかさなど欠片もない、ただどうにか、無理にでも互いの熱を探り当ててしまおうという空々しい口づけだった。
消極的なキス。クリスがジルの後ろ頭を押さえて唇を割った。もどかしそうに唾液のまじる口づけを交わしながら、それでもジルの髪を撫でる彼の手つきは優しい。やってられない、とジルの眦がら今いちど涙がこぼれる。
「悪かった。二度と言わないから君も二度と言わないでくれ」
「あなたって本当にわかってない」
「クレアによく言われるよ」
「だいきらい」
軽口にもなりきらない拙い嘘が行き場をなくして、いまだ笑い話にすらなり得ぬ距離がもどかしくてジルは泣いた。わかってる、大丈夫だ、とどうしようもないほど鈍いはずの男がこういう時ばかりすべてを汲み上げてジルに寄り添う。なにひとつ大丈夫なはずがないのに。
「嫌いでいいから泣かないでくれ。君を泣かせるとわりといろんな奴に怒られるんだ」
「嫌いなんかじゃない」
「君が言ったんだろ」
「わかってるって言ったのはあなたよ」
「管を巻くか泣くかどっちかにしないか?」
なら泣く、と言うとそれは困るとクリスか本当に困った顔をした。
濡れる頬にクリスが口付ける。あのときを堺に自分がひどく不安定になり得ることをジルは自覚していた。すべての罪業を自分のそれと居直ったクリスとは正反対だ。その覚悟だって大概ろくなものではないけれど。
ああ。本当にろくな話ではなかった。
「……愛してるって言って」
「愛してるよ、君を、ずっと」
そこにあるのは互いの欺瞞とエゴだけだ。それでも陳腐でありふれたその言葉がすべて覆い隠してくれることを知っていた。
ようやく思い出したかのようにクリスがジルを抱きしめて、悪かった、とどれに対してか判断のつかない言葉を口にする。その声もその体温も残酷なほどに優しい。失ういつかの話をしておいて、そんなのずるい、とジルはひりつく瞼を閉ざした。
ニューティナ
たとえば、と起き抜けで輪郭のはっきりしない声が、デスクにくぐもる。
ティナはちょうどニュートを呼びにきたところだった。トランクの上では彼の親友が痛ましいほど明るく振る舞っていて、こういう時寄り添うべきはきっと自分ではない、と早々に判断してきてみれば頼りの人間は休眠中であった。というより見た限りただのうたた寝だが、できればそのまま音も影もなく立ち去るつもりで、主人の仮眠を隙と捉えたニフラーだけ回収して引き返そうとした矢先に声をかけられて失策に終わる。起こしたかあるいは起きていたか、人のことは言えないが少し休んだほうがいい。
「首痛めるわよ、起きてるならちゃんと休んで」
「なんだかいろいろ億劫なんだ」
「風邪?」
「風邪だからこのまま寝る」
「元気そうで何より」
無意味な応酬。風邪はともかく億劫の言葉は本当らしく、ニュートは背を向けたまま、散らかったデスクに沈んだまま、たとえば、と力なく繰り返した。
「たとえば、僕が、ニューヨークに立ち寄らなかったら」
思い返すのは最悪と表して差し支えない出会いである。彼を連行して、煙に巻かれて、気付いたら大事になっていて、巻き込んでそして巻き込まれた。ひどい思い出話、とティナは目をすがめる。
「そう、ひどい出会いだ。君たちと出会って、ジェイコブと出会って、危険なところに首を突っ込んで」
「半開きのトランクもね」
「――君たちを巻き込んだ」
ああ、とティナは口を閉ざす。見慣れぬ動物たち。世界の交わらぬはずのノー・マジ。あのとき妹はまだ無邪気に笑っていた。ひとつの出会いが、別れが、彼女自身を押し潰すとも知らずに。
「全部あなたのせいだって言いたいの?」
「だってそうだろ、僕と関わらなければこんなことにならなった。君につらい思いをさせることも、ジェイコブのあんな顔を見ることも」
「私の妹が背を向けることもなかった」
「ティナ」
ここでようやくニュートが頭を起こした。
わずかな躊躇を見せてから彼が振り返る。一度目が合うとブルーの双眸はゆらゆら下降して、それきりティナに向けられることはなかった。ずいぶん重たそうな罪悪感をぶら下げている。
「……僕はいつも余計なことばかりする」
「私たちと出会ったことも余計だった?」
「君たちにとっては、きっと」
「そう。あなたって本当に人を苛つかせる天才ね」
ティナは唇を噛みしめる。見くびらないで、と続けた声はわずかに揺れていた。彼にはどう届いただろう。
杖をとる。馴染んだそれを握り締めて、ティナはゆらりと杖先を自身に向けた。ニュートが色をなくすのがわかる。ティナ、と声を上げる彼をティナは目で制した。
「余計なことなんでしょう。なら忘れさせる?」
「たちの悪い冗談だ」
「あなたが言ったのよ、たちが悪いのはあなたのほう」
語気が震える。情けない自分の声におののいて、ティナが口を噤んだその一瞬の隙をついてニュートが飛び出した。真っ先にティナの手を掴んで杖を下ろさせる。彼にしてはずいぶん乱暴な力だった。
「滅多なことを言わないでくれ、ティナ」
「そ、んなの、私の台詞よ、傲慢もいいところだわ、あなたに私たちの何がわかるって言うの? クイニーが決めたことよ。ジェイコブが選んだことよ。私の気持ちを――」
「ティナ」
「私の気持ちを、勝手に決めたりしないで」
不安定な感情を押さえつけて、自分は怒っているのだ、とティナは自身に言い聞かせる。そうでなければ目元がすでに、危うい。
強張った指先を、ニュートがひとつずつ丁寧にほどいてゆく。まるで保護した動物にもう大丈夫だと言い聞かせるかのよう。引き取った杖をデスクに置いて、遣り場をなくしたティナの手を彼がそのまま取った。うたた寝の名残りだろう、彼の手は温かい。
「ごめん、こういうところだ。僕はいつもなにか余計だ」
「知ってるわ、最初から」
「泣いてない?」
「そういうところだってば」
あれほど逸らしていたというのに彼の瞳はじっとティナの顔を窺っている。ひとつの感情だって見逃さないように。それはそれで泣く気も失せる、とティナは鼻を啜る。
「巻き込まれたのはあなたも同じよ、ニュート。いずれ事は起きていたわ、そしてどこかで誰かが苦しんでた。たまたまそれが私たちだっただけ」
「君は強いな」
「自分で決めたことだもの。あなただってそうでしょう」
戦う意志と覚悟。それらを誰よりも敬遠していたであろう彼は、持ち前の無鉄砲と優しさのおかげで結局戦いに身を投じることとなる。それすらきっと自分で決めたと言うのだろう。一番に巻き込まれたのは誰あろうニュート自身だ。
「……君につらい思いはしてほしくないんだ」
「出会ってなかったら元も子もないじゃない。学者のくせに非論理的だわ」
「耳が痛いよ」
「私たちのことを後悔なんかしないで」
「本当にごめん」
ニュートがそろりとティナの体を引き寄せる。遠慮も躊躇も拭いきれない彼の抱擁はそのくせ力強く、ごめんと言いながら罪悪感を手放せずにいることをティナはその力から悟った。ああ、本当に余計だ。こびりつく寂寥を振り切るように、ティナは彼の背中に縋りついた。
五歌
たとえば、と頭上から垂れ流された声はどこか縋るようでもあった。
歌姫は目を細める。最強を名乗る男が無力な女を容赦なく組み敷いて、立場も力もなにひとつ意味を持たぬとこれみよがしに見せつけておいてこの顔だ。普段のように不遜に笑っていてくれたら殴りかかってやれたものを。
「たとえば、僕が最強じゃなくて」
「それこの状況でする話?」
「何? 甘い言葉でも囁いてほしかった?」
「いらんわ」
薄ら寒すぎてそのまま寝込みそうだ。
歌姫は静かに嘆息した。口元だけがいびつに笑みの形を成していて、そこから繰り出される軽口はそうあるべきと決められたかのように浅薄で、すべてがちぐはぐだった。笑うつもりなどないくせに。本当に言いたいことはそんなものではないくせに。
「ていうかどっちかにしなさいよ、愚痴るか八つ当たりするか」
「歌姫こそびびるか説教するかどっちかにしたら?」
「は? 今のアンタに誰がびびると思ってんの?」
寂寥をまとう瞳が。ほしいものを見失って途方に暮れる子どものようで。
ひどい顔、と突きつける。歌姫のくせに、と五条はこの期に及んでまだ虚勢を吐き出す。否定くらいしたらどうだ。
「大体いつも最強だ何だって鼻にかけてるのアンタじゃない、なんなの今さら」
「だって最強だし」
「まじでなんなの」
「最強の肩書きは便利っちゃ便利だよ、相応の特権だってあるし鬱陶しい周りの目だってそのうち静かになるし」
「じゃあいいじゃない」
「歌姫は」
ゆらめく五条の双眸が歌姫を捕らえる。なに、と歌姫はその言葉を無防備に取りこぼした。貼り付けられたままの笑みが、いっそう、危うい。
「歌姫は僕が最強じゃなかったら」
「は?」
「最強じゃない僕だったら抱かれてた?」
「はあ」
オブラートに包め、という罵倒もさすがに出てこなかった。
何を汲み取るべきだろう。仮に嫌味だとしたら彼の腕も落ちたものだが、力で捻じ伏せてしまえる体勢にあって踏みとどまっている五条を思うと一蹴するのも躊躇われた。そもそも踏みとどまるような柄か。これでは普段通り振る舞おうにも張り合いがない。
「ふつう聞くにしたって逆じゃないの」
「歌姫僕のこときらいじゃん」
「嫌いよ、だいっきらい」
けれど厄介を極める五条のことならよく知っている。
踏みとどまるなどそんな芸当をするはずがない。この男は今、ただ踏み込めずにいるだけだ。
「なんで? 最強だから?」
「何も考えてないようで何考えてんのかわかんないから」
「ああ、まじ? 実は僕も同じなんだよね」
「五条」
「君らが何考えてんのかぜんぜんわかんねーの」
そう言って笑う。からっぽの笑い方。下手くそ、と歌姫は顔をしかめる。
五条悟という男は。生まれながらに強大な力と術式を持ち合わせてその上さらに六眼という武器すら備えていた。術師どころか呪霊とのパワーバランスさえ動かしてしまえる無二の人間。五条はそんな世界で生きている。
ただの人間にはなり得ない。
弱いことも、悔しいことも、悲しいことも、許されない世界では。
「……結局嫌味じゃない」
「泣いてんの、歌姫」
「泣いてねえよ、アンタにわかってたまるか」
「だからわかんないんだって」
同情などするものか、と歌姫は奥歯を噛みしめた。考えるだけ無駄だ、弱くて甘くて狭い世界しか知らぬ歌姫には到底計れるものではない。
五条悟の孤独など。いいや。知りたくもないけれど。
「アンタが最強だろうと知ったことか」
息が詰まるようだった。彼はきっと彼の物差しでしか世界を計れない。
「どうせ変わんないでしょ、力がなかろうとアンタはきっと今みたいに無神経でどうしようもない性格してるし、人の気も知らないで好き勝手に生きて、私に喧嘩売って、私はアンタが大嫌いで」
「歌姫」
「糞生意気な後輩のままに決まってる」
ひどい気休めだ。言葉の無力さに辟易しながら歌姫は彼に付き纏う孤独に思いを馳せる。歌姫の理性を掻い潜って感情が勝手に彼に寄り添おうとする。
淋しい。淋しいひとだ。
「……泣くなって、歌姫」
嗚呼。畜生。腹が立つ。
笑うことはできても泣くことを知らない。何もかも手にしてしまえる力を持ちながら歌姫の世界に踏み込めない。そんな矛盾を誰が理解してやれると言うのだ。
「泣いてんのアンタでしょ」
「泣いてねえよ」
「泣くなばか」
力などありやしなかった。押さえつける五条の手を解いて彼の首に回す。両腕で引き寄せると五条がまだ躊躇を見せるので、歌姫は自ら頭を浮かせて彼の唇を塞いだ。
「どっちにしたって御免よ」
「あっそ、まじでわかんねー」
「こっちの台詞だっつーの」
そうして互いに匙を投げる。
五条のキスは優しくなかった。吐息すら奪い尽くす無遠慮な口づけ。余裕のなさが余計にやり切れなくて、面倒な男、と歌姫は彼の人間じみた熱い舌を含んだ。
類寧々
たとえば、と絞り出された声はわずかに震えていた。
至近距離から届く声が類の鼓膜をくすぐる。今しがた触れたばかりの唇は頼りなげに言葉を探し、たとえば、の先を彼女なりに手繰り寄せているようだった。
「あの、類、待って」
「待つよ、大丈夫」
言葉通り類は黙って寧々の言葉を待つ。自分たちを取り巻くのは派手なアクションシーンを映し出すテレビと狭い部屋に充満する騒音。音量落としておくべきだった、と類はうっすら後悔している。
「たとえば、類が、うちの隣に引っ越してこなかったら」
「ずいぶん遡ったね」
「……わたしが言うこと読んでたでしょ」
「いやいや、せいぜい幼馴染じゃなかったら、くらいかな」
引っ越し単位でくるとは思わなかった。類は鷹揚に笑う。
「同じでしょ」
「家が隣だからって必ずしも幼馴染になるとは限らない」
「めんどくさいって言われない?」
「よく言われるよ」
いちいち聞かずとも彼女自身がよく知っているだろうに。
テレビが沸き立つ。馬の駆ける音。泥臭い男たちの戦いに寧々が気を取られて、類は彼女の頬を押さえてやんわりと視線を戻す。
「寧々が言いたいことならわかるよ」
「続きが気になる」
「僕も気になる。というかじゃあ続きを見ようと言ったところで君集中できるのかい」
「そ、れは、ていうか類が急に」
勝手に、と寧々はそのまま俯いてしまう。たしかに勝手に機をとらえて幼馴染という枠から踏み出したのは類だ。けれど寧々だって抗わなかった。並んで映画を見るだけという呑気で健全な関係を決定的に変えるそれを、あの彼女が、繊細で少々臆病なあの彼女が、おとなしく受け入れたのだ。
「そうだね、僕が悪い」
いちばんの盛り上がりを見せるシーンの直前だったことは失敗だったが。
「映画見ながらキスするものじゃない」
「そっちの反省……」
「ああ、君とのキスなら反省するつもりはないけど」
「性格悪いって言われない?」
「よく言われる」
それも彼女に。
うっすら色づく頬をなぞると寧々がそっと息を呑んだ。心許なくさまよう視線と強張った薄い肩、それでも類を拒絶しない少女の躊躇。長い付き合いだ。彼女が何を不安がっているかくらいはわかる。
「――たとえば、僕が君の隣に引っ越してこなくて」
「類?」
「接点もきっかけもなくて、僕も君も互いに顔すら知らないままだったかもしれない。逆だってそうだ。ただの隣の家の子で終わっていたかもしれない、僕が転校しないままそれっきりだったかも」
「わ、わたしは」
寧々が類の手を掴んだ。縋るようでもあった。仮定の中で離れゆく類を、細い指で繋ぎ止めようと。
類は破顔する。もしもの話を切り出したのは彼女のほうだと言うのに。
「だけどそうはならなかった。いつかのショーに魅了されたこと、同じ場所に夢を見たこと、たくさんの作品と時間を共有して、君は僕を心配し続けていたし僕も寧々をずっと心配していた。大切な幼馴染だ」
「類」
「大切な子だ」
フィナーレが近い。スピーカーから溢れる大袈裟なBGMが、それでも自分たちの空間とはあまりに無縁で類の耳を通り抜けていく。盛り上がる音量とは裏腹に他人事のような歓声。寧々の視線が画面に逸れることもなかった。
「……わたし、幼馴染だからって、思って」
「うん」
「好きとか心配とか、一緒にいたいこととか、そういうの、錯覚してるんじゃないかって」
「錯覚だったかい?」
「錯覚じゃない、というか」
いっしょだった、と寧々は息を吐くように笑った。
「同じだった。幼馴染だからじゃない。類だから」
「ああ、僕もだ」
「……キスも、べつに、嫌じゃない」
繋ぎ止められたままの小さな手を今度は類が取って、わかってるよ、とその手を引く。それはそれで癪、と寧々は手厳しい。
「最後のほう結局見れなかったんだけど」
「バーフバリって叫んでたよ」
「聞こえた」
「ちなみにそのあとクリフハンガーで」
「だから見れてないんだってば」
誰かさんのせいで、と寧々が苦言を呈する。むしろなんで見てるの、と苦言どころか追求が始まりそうだったので、聞こえてただけだよと類は適当なことを言って彼女に顔を寄せた。
濡れた瞳が類を睨みつける。
「――二作目が気になる?」
「それって誤魔化してるつもり? わざと?」
「冗談さ、あとでもう一度見よう」
「うん」
「集中できないかもしれないけど」
「聞きたくない」
それを彼女なりの許可と都合よく解釈した類は、羞恥に耐える寧々に今いちどキスをする。震える睫毛が目元につくる陰影はどこか危うく、類はこの時ようやく自身の内側に嘘を見つけた。同じものか、と自分を嘲笑う。理屈と仮定と幼馴染という防衛線を並べ立てて、ただ、彼女を欲しただけだった。