匙投げがち
人を見る目はあると根拠のない言を吐いて胸を張る、だとすれば彼女の御眼鏡にかなったと言える相澤は、ありがた迷惑と言いかけて不要なところを削った結果、迷惑だ、というシンプルな一言に落ち着いた。辛辣、と福門は噴き出しながらその言葉の説得力を奪う。
「気が知れん」
「うはは、そういう顔するんだもんな」
人の顰め面を見てなお愉快そうにする彼女である。無遠慮に肩を叩く手を押しやって相澤は元からこんな顔だと唸った。
「ノリの良いヤツに絡んでも仕方ないだろ、こういう笑えない冗談は特に」
「笑えない自覚あったのか」
「だから人選んでるんじゃん」
びしと指を差されて指すなと難癖をつける。行き場のなくした手をひらひら振る彼女は、日ごろ執拗に絡んでくるくせにこういう時ばかり捉えどころのない理屈で煙に巻く。
「便利でいいな、おまえのその口」
「おっ、皮肉? まあ出し惜しみするよかましだろ」
く、と喉元で笑った福門が、彼女らしからぬ笑い方に違和感を抱かせるより早く、慣れ親しんだ距離から一歩踏み込んで相澤を見上げた。笑みを刷いた唇、揺れる睫毛の繊細な影、仰のく頤の細いこと、彼女を形づくる幾つもの色彩を間近にして、思わず惹かれた視線を彼女の精彩に満ちた瞳が射抜く。あわや触れるかという距離である。掠めそうな距離すら意に介さぬ、彼女の涼やかな声が耳朶を擽った。
「キスはべつだけど」
されると思った、いたずらに問う双眸が彼女さえ預り知らぬところで相澤を挑発する。気心知れた昔馴染みの距離か。絡まれてあしらい続けた不毛な時間の長さか。不用意に踏み込む余裕の根拠など知りようもないけれど、いずれにせよいい度胸をしている。
相澤は匙を投げた。
「だったらいいなんて言うとでも思ったか」
「へ」
踏み込んだのは彼女のほうだ。許容した一歩分、それは彼女が見誤った距離でもある。柔そうな頬を無造作に掴んで後退を許さず、むぐと腑抜けた声を上げる彼女に容赦なく失言を突きつける。
「人を見る目が何だって?」
触れるか触れないかというそれも彼女にとっては笑える距離なのだろう、生憎相澤は笑ってやれない。セクハラだと嘯く彼女のそれは冗談か虚栄か、泳ぐ視線がその答えを如実に物語っていたが、どのみち同じことだと無視をして自身の齟齬を押し付けた。
はすみの相ジョへのお題は
・朝帰り
▼キスはしてあげない
・全部飲み込む
・涙を舐め取る
です。好きなお題で創作してみましょう
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彼シャツ
部屋に戻ったところで一度時が止まった。
ぎくりと硬直した彼女は同じく固まる相澤にかけるべき言葉をぐるぐる探しているようで、結局見つけられないまま間の抜けた沈黙だけが場を繋いだ。かけるべき言葉というよりおそらく言い訳の類いであろう。数刻前に脱ぎ散らかしてそのまま放っていた相澤のシャツを勝手に纏い、弁解するにも逃げ道のないことを悟った福門はじわりとその表情を引き攣らせる。
「なん、で……」
「こっちの台詞だ」
自分でも思いがけないほど低い声が出た。凝視していた瞳が乾いてきてようやく瞬きをする。つい今しがた水分を摂ってきたばかりだというのにすでに喉がかわいた。
「いや、シャワーとか、浴びにいったのかと」
「違う」
「怒んなって」
「怒ってない」
狭いベッドの上で彼女がじりじりと身を引かせる。身じろぐたびに肩幅の合わぬシャツが擦れて、ゆるい襟口から素肌が覗いて妙な危うさを醸した。思わずまんじりと見つめてしまう相澤である。襟元をかばう指先もでかい袖口のせいでひときわ華奢に見えて、所作が逐一裏目に出てまるきり意味を成さない。
「あー、と、確かめてたんだよ、一応、うわきとか」
「もっと上手い言い訳ないのか」
「真顔やめてくれない」
怖えよと彼女は笑うが現状自分がどんな顔をしているのか知りようもない。真顔と言えば真顔なのかもしれないがどうでもよかった。
尚も逃げようとする彼女の腕をとらえ、相澤はのそとベッドに乗り上がる。いよいよ怖気づく福門である。掴まれた腕を振り解こうとして諦めて、そのくせ彼女は彼女なりの意地を崩さない。
「なんだよ、むらついた?」
「ああ」
「え」
ぎりぎりのところで張られた虚栄もあえなく陥落する。無防備に取りこぼされた声すら無視して、相澤はまじかと逃げ腰になる彼女に覆い被さった。
「うわ待って目怖い、やばいってその目」
「もともとこんな顔だ」
「うそつけ、えっ本気かよ、ちょっと待っ」
「うるさい」
やかましい口をふさいで容赦なく伸し掛かる。くちびるの合間から悲鳴をあげた彼女は呆気なくベッドに沈んで、それでもまだ抗うので聞き分けのない腕ごと抑え込んだ。膝の間で彼女の脚が暴れる。往生際が悪い。
「福門」
観念しろと唸る。足掻く太腿に手を這わせると彼女はひくりと身を竦ませた。強張る肌を辿る、余裕のないてのひらはやがてシャツの裾をとらえてその内へと潜り込む。ひ、と引き攣った福門は押し返していたはずの手で相澤に縋った。
「……こ、ういうの、趣味だったのかよ」
「言ってろ」
くたびれたシャツとほつれた髪、心許なくちらつく肌の色味、不用意に抵抗したおかげで際立つコントラストが劣情を誘う。袖口を不自由そうにしている彼女の手をとらえて、このまま着せたままか脱がすべきか、真顔らしい表情の下で相澤は真剣に考えていた。
ついったで調子に乗った(引ん剝く前に力尽きた)
深夜二時
閉ざしてなおその目元に危うさを残し、それでも外界を遮断するように瞑がれた瞼はどこか頑なで、感情の消化もままならぬうちに寝入るその姿は泣き疲れて眠るこどもを思わせた。頬に乾いた涙の跡が痛ましい。冷えたシーツに彼女の体温だけが熱っぽく、意固地な寝顔はけれど彼女らしくもあって、難儀なことだと相澤はこぼれた髪を掬う。
涙のきっかけが何だったかも今となってはわからない。
わからぬほどに感情を持て余していたのだろう。
からりと晴朗にわらう彼女のその表情の下、燻った感情だけが行き場をなくしておそらく名前をもなくした。つらい、くやしい、かなしい、輪郭を失った感情がないまぜになって正体もわからぬまま溢れたのだろう。止まらぬ涙に狼狽していたのは相澤よりも彼女のほうだったように思う。冗談に誤魔化そうとする彼女の涙は残念ながらとまらず、諦めろと抱き留める相澤に彼女もとうとう泣き止むことを諦めた。
(へたくそ)
擦り切れたように眠る彼女に毒づく。
感情を見つけることも晒け出すことも出来ぬまま、それでどうやって笑っているつもりだったのだろう。屈託なくわらう彼女の声ばかりが脳裏にちらついて、似合わぬ眉間の皺を指で押さえるとふと重たげな瞼が震えた。
「ん……」
「おはよう」
おはよう、とぼんやり応じる彼女にまだ夜中だと告げて、落ち着いたかと問うとそこでようやく記憶が蘇ったらしい。何か言いかけて、けれど言葉が見つからずに口を閉ざして、という彼女らしからぬ動作を見せてから、福門は結局何も言わずに相澤の肩口に頭を押し付けた。溜息だけが聞こえる。いたたまれない感情もわからなくはない。
「目冷やさなくていいのか」
「いい」
「腫れるぞ」
「いい」
くぐもる彼女の声は鼻にかかってすこし苦しそうに聞こえる。肩に懐いたまま顔を合わせようとしない彼女を好きにさせて、ほつれた髪をほぐしながら相澤は欠伸をひとつ噛み締めた。不憫な目元に頓着しないのならさっさと寝たほうがいい。ブランケットを引き上げた矢先、うう、と耳元から呻き声が聞こえた。
「……明日しにたくなりそう」
「いいから寝ろ」
彼女の頭をとんと叩く。ふたつめの溜息。おやすみパパ、とうそぶく鼻声は軽口にしては頼りなく、それでも明日に笑う足掛かりになるのならそれでよかった。
くすぶる鬱屈も葛藤も知るのは自分だけでいい。涙もその跡も夜に置き去りにして、はれた目元に煩い朝を待って相澤は目を閉ざす。
はすみの相ジョへのお題は
・先生と生徒
・手首を縛る
・抱きとめる
▼涙の跡
です。好きなお題で創作してみましょう
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息をするように終電ネタ
深夜零時、事前連絡なしの来訪、翌日が休日であることを鑑みても非常識の一言に尽きる。
非常識は非常識ですでに迷惑だというのに、福門はさらにアルコールの気配まで纏って相澤の辟易を助長した。完全に出来上がっている彼女は非常識を詫びるどころか悪びれる様子もなく、ただいまと高らかに告げて玄関先で蹴躓いている。
「何がただいまだ、自分とこ帰れ」
「かたいこと言うなよなー」
「迷惑だ」
あははと笑う彼女は酒精のせいか声も表情もどこかふやけている。おそらく理性まで緩んでいるのだろうが普段以上に笑い声がうるさく、げんなりする相澤をよそに靴を脱ごうとして脱ぎきれずによろけていた。鈍くさい。
「急に顔が見たくなってな」
「酔っ払いの戯言にほだされると思うなよ」
「冗談だって冗談、いてて」
冗談とは何だ。理不尽に理不尽を重ねて溜息にもならぬ相澤の傍ら、彼女は結局酔っ払いの平衡感覚に見切りをつけたようで、むりだしんどいと呟いて框に腰を下ろした。一体何をしにきたのだ。一周回って奔放な彼女への羨望すら抱き始めた相澤である。
「ていうか思ったより酔ってるな、私」
「靴もまともに脱げない奴がよく言う」
「ねむくなってきた」
「ふざけるな」
こんなところで寝るやつがあるか、と彼女を見下ろすと、上向いた彼女がへらと笑って泊めてと訴えた。上気した頬に腑抜けた目許、緩んだ表情はやはり普段の笑いかたと違って、相澤はとうとう諦めて腰を屈める。
「おまえ最初からそのつもりだっただろ」
「タクシーめっちゃ並んでてさあ」
「がんばれよ」
バランスを崩して倒れ込む彼女の背を受け止めて、そのまま気の毒な足元に手を伸ばす。抱き込む形となった体は火照ってくたりと力ない。この体温にほだされたなどと死んでも認めたくはない相澤である。
「素面だったら泊めてくれた?」
「普段から酔っ払ってるようなもんだろ」
「ひでえ」
靴を脱がせている間も彼女は大人しくならない。おまえオフになる電源ないのか、と訊いた拍子に彼女の後頭部に思い切り顎をぶつけた。悪い悪いと福門だけが楽しそうである。
深い嘆息。揺れる彼女の髪からは外気の残滓と居酒屋の雑多なにおい。呂律のあまい笑い声。
ぐいと頭を抑え込んで、相澤はその唇をふさいだ。
「ん、ぅ」
酒にほころびた唇はやわく熱を孕み、抵抗する気がないのかそれさえ億劫なのか、福門は身を預けたまま小さく喉を鳴らした。鈍い瞬き。自由のきかぬ呼吸はさすがに苦しげで、くぐもる声に相澤は仕方なく顔を離した。
「……酒くせえ」
「だろうな、ていうか靴脱がしてからにしたら?」
「おまえが言うな」
先の仕返しに頭突きを見舞うといてえと彼女はけらけら笑う。何度も言うが笑い声が普段以上にやかましい。結局靴はそのまま、相澤は今いちど彼女の口をふさいだ。
はすみの相ジョへのお題は
・普段と変わらない一日だと思っていた
▼靴を脱がす
・目元を染め上げる
・寝言
です。好きなお題で創作してみましょう
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ささくれ
安定しない視界はぼんやりと、まるで熱を帯びたかのように赤みがかっていて、ぬめる額を拭って何だこれはとおどけてみたがだれも笑わなかった。だろうな、と目元を擦る。頭部からの出血、触った様子だとまだ血は止まっていなくて、傍目に映る姿は自分が思っている以上に悲惨であろう。手当てを、と荒い声が飛んでくる。踏み出した足が思ったよりも覚束なくて驚いた。
「う、わ」
途端に突きつけられる四肢の重たさ、纏わりつく疲弊感、おそらく出血も相まって福門の意識が鈍く揺れる。周囲の音が幾重にも重なって吐き気がした。歩けますか、意識は、ミス・ジョーク、身柄の引き渡しは、云々。報道に野次馬、同胞の声が近いようで遠い。
ああ、もう、畜生。
(うるさい)
この程度の怪我だ。歩ける。意識もある。あとは警察に聞け。
視界に滲む血さえ煩わしくて目を擦る。その手を取られた。
「おい、擦るな」
「イレイザー」
顔を上げると相澤がずいぶん剣呑な顔をしている。目閉じてろと唸る彼に、何その物騒な顔、と福門はかろうじて笑った。傷が痛んだ。
「喋らんでいい」
いつもと変わらぬ言葉が、けれど、いつもよりずっと深く響いて福門に寄り添う。なにも見なくていい、なにも聞かなくていい、物言わぬ彼のやさしさは福門の鬱屈さえ引き取ってゆく。肩を支える腕に心置きなく目を閉じて、心配かけたかと茶化すが返事はなかった。
140字リサイクル「顔、怖いよ?」