早く帰っておいで
 意図せず漏れた溜息に、傍らの相棒が顔を上げた。 「なんだ、にんじん。物騒だな」 「物騒な溜息ってなに」  ああその顔もまずい、とニックがジュディの眉間を押さえる。  彼はすでに退勤の準備を整えていた。ジュディだけがデスクにへばりついたままで、目の前にはまっさらな始末書、溜息もつきたくなる、とニックを睨む。 「君の溜息だぞ、雹か霰か槍が降る」 「あら大変。傘貸してあげましょうか」 「槍相手に?」  そもそも彼だって始末書沙汰に一枚噛んでいる。それを俺は止めたが聞きやしなかったとあっさり運命共同体を放棄し、いや確かに止められた気もするけれど、始末書を言いつけられた相棒を手伝いもしないとは一体どういう了見だ。あまつさえ帰り支度とは。 「もう、邪魔するならさっさと帰って」 「随分だな、俺は励ましてるんだぜ」 「うらぎりもの」 「言いすぎだ」  わかったよ、とニックが両手を広げる。付き合ってくれるのかと思ったが違った。 「たまにはちゃんと反省しろ、俺は止めた」 「覚えてない。大体置いてくことないじゃない」 「悪いが先約がある。疲れて帰ってくる相棒を出迎えるんだ、夕飯つきでね」  む、とジュディは口をとがらせる。充分に魅力的だがほだされるのも癪で、メニューは、と最大限の不機嫌で問うとこれから考えると上機嫌な声が返ってきた。途端にぐうと腹が現金な音を立てる。早く帰ってこい、と彼があんまり楽しそうに笑うのでついつられてしまった。
はすみのニクジュディのお話は 「意図せず漏れた溜息に、傍らのその人が顔を上げた」で始まり「貴方があんまり楽しそうに笑うからついつられてしまった」で終わります。 https://shindanmaker.com/804548
間接ちゅう
 おはようかわいこちゃん、と気の抜けた挨拶が廊下に響いて、振り向こうとしたジュディの頭にとんとぬくい感触が乗せられた。  ジュディは手を伸ばして頭上のカップを受け取る。行きがけに調達してきたというコーヒーはまだ温かく、ミルクは、と問うと入ってるよとニックが隣に並んだ。 「ねえ、そのかわいこちゃんっていうのやめてくれない?」 「ダーリン、勘弁してくれよ。自信持てって、きみはかわいい」 「喧嘩売ってるの」  朝から血の気多いなとニックが肩をすくめる。自身のコーヒーを示しながらお礼は、と押し付けがましくするので、ジュディはどうもありがとうと杜撰に応じた。 「なんだよ、かわいい程度の口説き文句じゃ不満かい」 「違う、問題はあなたに言われてるってことで――口説き文句? 嘘でしょ?」  おちょくられているようにしか聞こえない。  ニックは心外だなと片手を広げて、まあ多少スキンシップもあるが、と体よくオブラートに包んだ。多少とはなんだ。 「というか俺が問題って普通に傷つくぞ」 「だってあなたってそんな感じだし」 「そんな感じって」  苦笑した彼がカップを傾けるのでジュディもつられてコーヒーを口にする。ミルクは入っているというがやけに苦く、思わず顔を顰めたところで逆だ、とニックがカップを差し出した。やっぱり、と苦々しいコーヒーを彼のそれと交換する。 「そもそもあなたって饒舌だし、表現豊かっていうか――よく舌が回る」 「言葉を選んだつもりならわりと失敗だ」 「つまりあなたにかわいいって言われると複雑なのよ、ウサギ相手だからかわいいなんて軽く言えるの? 私がかわいくなくたってウサギはかわいいもの」 「そいつは皮肉か? それとも自虐か?」 「うらやましいわ」 「皮肉だな」  君の言いたいことはよくわかった、とニックがブラックのコーヒーに口をつける。ジュディはまたつられそうになって、そんな自分がなにか単純に思えてカフェインの摂取を見送った。 「正直ウサギだろうが何だろうが関係ない。俺は君に言ってるんだ、かわいいってね、本気で思ってるよ」 「ほらもうそうやって」 「ああ、俺の本気が見たいって? そうだな、どれくらいなんて野暮なことは言いたくないが」  ニックが視線を寄越してにんまりと笑う。こぼすなよとジュディの手ごとカップを押さえて、ジュディの反論を遮るように耳元に口を寄せた。強いていうなら、と彼の声が近い。不意打ちの至近距離。 「食っちまいたいくらいだ」  低く囁かれてジュディの毛がぶわと逆立った。はく、と口を閉ざしたジュディに笑って、これだもんな、と彼が顔を離す。 「君はかわいいよ、ほんと」  まんまと顔が熱い。体も熱い。ずるい、とどうにか言葉を発したところでカップを取り落としそうになって、ジュディは慌ててコーヒーを持ち直した。ニックがにやにや笑っている。いやな男だ。 「見る目ないって言われない? ここじゃあなたくらいしか言わないのに」 「あと命知らずの新人な。いいんだよそれで、最高だよ」  俺だけさ、と繰り返す彼は満足げで、日ごろ余裕ばかり見せつけてくる男の案外余裕のない本心がそこに滲んでいた。意外と愛されているのかもしれない。ジュディはいくらか溜飲を下げる。 「あなたのそういうところはかわいいと思うけど」 「君には敵わないさ」 「やっぱかわいくない」  結局おちょくられている気がしてならない。そいつは残念だと笑う彼の双眸は穏やかで、そこに映る感情の正体を知らないわけでもないが都合が悪いので今は知らぬことにする。空々しくコーヒーを口にして、ミルク多すぎ、とジュディは舌を出した。
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形勢逆転
 タンマ、と確かな意図を持って身を寄せる彼女の顔面に片手を広げて、ニックはその接触を阻んだ。  身を預けるにも引かせるにも中途半端で、重心のやり場に困ったジュディの体重を受けてカウチが小さく軋む。彼女は立ちはだかる肉球を睨むようにして、なに、と指の合間からニックに不満を訴えた。 「おまえそんながっつくタイプだったっけ」 「引いてる?」 「いや大歓迎ですけど」  ニックは慎重に唾を飲み込む。この類いの積極性を彼女が見せることは比較的稀で、柄でないことをジュディ自身も自覚しているらしく、居心地悪そうにしている彼女を正直なところ一思いに引き寄せてしまいたい。強張ったからだを抱きしめて頬を寄せて、焦んなくていいだとかなんだとか、年上の余裕をかざしてキスでもして。  彼女が露骨に緊張していた頃はそれもできただろう。自分よりも余裕のない存在がいると得てして余裕が生まれてくるものである。けれど現状、いくらぎこちないとは言え積極性を持ち込むまでに至ったジュディを見て、しくじった、とニックは思い知るのだ。  ――待ちすぎた。 「おまえが何考えてんのかおおよそ想像はつくけどな」 「どうだか」 「本当だって、俺がまるきり手出さないからって余計なこと考えてるだろ。誰かに何か吹き込まれたか? いやいい、答えるなよ、大方迫ってみろだの押し倒せだのそういうのだ」 「なんでそういうことばっかり鋭いわけ? ていうかそれ言ってきたのフィニックだからね、あなたの管轄」 「あいつの情操教育を預かった覚えはない」  というかこの手の相談相手になぜフィニックを選んだのだ。彼女の人選のほうがよほど問題だ、と息を吐いて、ニックはこのまま身を引かせるべきか逡巡しているジュディの頭をがしがしと撫でる。 「先に言っておくよ、君は何も悪くない。俺の問題だ」 「それが知りたいの。大事だからって手出しできなくなるようなタイプじゃないでしょ」 「にーんーじーん」 「え、うそ、図星?」  ニックは乾いた笑いをこぼして、無造作に撫でつけた毛先を丁寧に繕った。彼女は苦虫を数十匹ほどまとめて噛み潰したような顔をして、信じられない、と呟く。 「おまえ、仕事柄男とつるむのが普通すぎて慣れてないだろ、露骨な下心っていうか、そういうのが自分に向けられるって実感」 「露骨な下心? あったの?」 「あるよ、つーか俺まだ枯れてないぞ、もうなんか全部ぶん投げて押し倒しちまおうみたいな瞬間が何回あったと思ってる」 「は」  ひくりとジュディが身を強張らせる。あけすけな欲望をじかに向けられて、さすがにというか案の定というか、怖気づいたらしい。ほらな、とニックは彼女の体を引き寄せた。 「それでも健気な俺は耐えに耐えたわけだ。そうしたらびっくりだぜ、今度は我慢しすぎて今まで溜め込んだ分コントロールできる気がしない」 「え、ちょっとニック」 「手出さない覚悟決めてたんだよ、ぎりっぎりでな、そこに踏み込んできたのがどこぞの鈍いウサギちゃんってわけだが」  軽やかな口調に潜むかすかな圧を察知したらしい。本能的に逃げを打つジュディの頬を両手でとらえ、ニックはぐいと彼女の顔を上向かせた。  視線がかち合う。じわりと、薄紫の双眸に焦燥の色が滲んだ。 「覚悟はしてるんだよな?」  はく、とジュディが口を閉ざす。その瞳もその表情も明らかに覚悟などとは程遠く、けれどニックは問答無用で彼女をカウチに押し倒した。 「ああああの待っ」 「待たない」  散々に待ったのだ。好奇心程度で踏み込ませてはならぬほどに。  抑え込んだ腕はあまりに細い。こみ上げる感情は庇護欲などではなくぞくりとした高揚感で、きっとすでに捕食者のそれだった。逃さねえぞと、ニックは獰猛な口元を歪めた。
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充分だから
 警察官であること。彼女の相棒であること。正義の味方でいるためにはキツネという肩書きはどうやら邪魔で、その事実に怯える自分はおそらく幼い仲間たちに口輪を嵌められた頃と何ら変わっていない。愚かで純粋で泣き虫な小さなキツネ。  そうだきっと今も泣いている。  涙を忘れただけで。  諦めることを覚えた。仕方のないことだと。聞き分けのいい大人のふり。けれど悲しい淋しいと震える小ギツネはたしかにそこにいて、それを見つけたのはやはり彼女だった。  ばかね、と相棒の声が揺れる。包み込む腕は柔らかい。 「私、こう見えて警察官なのよ。ウサギのくせに? ええそう、実はすごく強いんだから」 「にんじん」 「だからあなたの不安なことも、こわいことも、全部やっつけてあげる」 「ジュディ」  ぎゅうぎゅう抱き込む腕に手を添えて、負けないんだからと意気込む顔を覗き込む。彼女の腕っぷしを思うと少々物騒ではある。けれど。 「やっつけるなんてツラか?」  ニックは笑った。笑えた自分に安心して、心許ない相棒の目元をぐしぐしと擦る。 「きみが傷つくことじゃない」  馬鹿言わないでと彼女が憤る。怒るのだ。ああ充分だ、とニックは息苦しいほどの彼女の腕の中に、臆病なキツネの居場所を見つけた。
140字リサイクル「そんな顔して言われましても、」

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