共犯者いわく
 署内廊下にて突如ウサギから突撃を食らったキツネが、そのまま相棒にくすぐり倒されて息も絶え絶えに倒れていたというひどい噂を、ニックはどういうわけかクロウハウザーから聞かされた。  出勤時に聞かされて処理できる情報量ではない。あんまりだ、と他に言葉が思いつかず溢したあんまりな感想に、あんまりだよねえ、と温厚なチーターは彼なりに剣呑な顔をしてカウンターに肘をついた。 「事実なのにね」 「そうじゃねえよ」  これから仕事だというのに消化不良がひどい。  はたはたと騒がしい足音が遠くから聞こえてくる。近づいてきたかと思うと通り過ぎざまに思い切り肩をたたかれて、遅刻、と問題のウサギが走り去っていった。だから消化不良が。ニックはげんなりして受付をあとにする。  部署に向かう途中で件の事件現場を通り過ぎた。昨日、ジュディ・ホップスに襲われたことは事実だ。散々にくすぐられて笑いきったことも、腹筋に限界をきたして廊下に伸びたことも、そんなニックに首を傾けて何か違うと言い置いて相棒が去っていったことも本当だ。一体何が違ったというのだ。その後謝罪のメッセージが届くということも特になかった。 「おはよう、ニック」  当の本人は一連の出来事など忘れ去ったかのように爽やかである。おはよう、と釈然としないままニックは彼女の隣に並ぶ。 「なあに、朝から湿気た顔して。クロウハウザーと何話してたの?」 「あー、通り魔的な」 「物騒ね」  物騒だ。なおかつ悪質だ。まるきり他人事にしているあたり自覚もないようで、本気で覚えてないのかもしれない、とニックは一種の不安すら覚えた。あるいは夢か。どんな夢だ。  署長こないわねと通り魔は呑気にしている。こないな、とニックは夢の可能性を胸の奥に片付けた。 ***  次の犯行は昼休み、地下の証拠保管室にて行われた。  浮上した容疑者が別の事件と絡んでいたためそちらの事件も一応洗うことにしたのだ。ファイルと証拠品の入ったボックスを抱えた矢先、棚の影から現れたウサギに尻尾を撫で上げられてニックはふつうに引っ繰り返った。 「なにす、いや、ほんと何してんだおまえ」 「びっくりした、派手にこけたわね」 「ほんとにな。あと俺がほしいのはそういう言葉じゃない」 「証拠品大丈夫?」 「違う……!」  ニックは床と仲良くしたまま、俺の心配は、と呻くように文句を垂れる。一緒に引っくり返ったボックスは無残にも中身を散らかしているが見たところ証拠品に破損はない。  ごめんなさい、とようやく要望通りの台詞を吐いたジュディがニックの体を引き起こす。彼女の言う通りたしかに派手にこけた。下手をすると明日は筋肉痛かもしれない。つらい。 「……で? 昼休み返上で仕事してる相棒にどんな仕打ちだ?」 「そんなつもりじゃなかったの。お昼は食べたほうがいいと思う」 「食べるよ。君こそこんなことしてないで飯食ったほうが有意義じゃないか?」 「うーん」  有意義、と難しい顔をしたジュディがそのまま証拠品の回収を始める。ニックはなんとなくうやむやにされた気がして、けれど綺麗に引っくり返った手前掘り下げるのもばつが悪い。結局理由もわからぬまま、彼女とともに証拠品を拾い集めてうっかりランチをたかられた。 ***  極めつけは退勤後、部屋で眺め続けるつまらぬコメディ番組だった。  カウチに並んでテレビを眺め始めてかれこれ一時間ほど経つ。笑い声といえばテレビから沸き上がるわざとらしい声ばかりで、唯一タスマニアデビルの自虐にニックが噴き出したくらいで視聴者側ははっきり言って白けている。チャンネル変えるか、とジュディに三度ほど確認を取ったがこのままでいいと彼女の返事はすげない。三度目は確認というより変えないか、という提案だったが、残念ながら答えに変化はなかった。  一方のジュディはテレビよりもニックを眺めている。  盗み見だなんてかわいい次元ではない。じっくりと。見られている。 「——先に言っとくが」  ついに耐えかねてニックはリモコンに手を伸ばした。ぱちりと映像を消したテレビにあ、とジュディが声を上げて、なじるようにニックを見上げる。見てもいないテレビを消してなぜ責められなければならない。 「この程度じゃ俺は笑わないぞ」 「え」 「ずいぶん甘く見積もってくれてるな」  ジュディが視線をうろうろと彷徨わせて、なんでわかったの、と問う。 「私が——あなたを笑わせようとしてるって」 「そうだな、尻尾を撫でられるあたりまではテロだと思ってたけどな」  コメディは露骨にすぎる。  そうでなくとも不自然な彼女の挙動に違和感を抱いていたところである。これは何かあるなと。粗の目立つ立ち回りからさほど深刻ではないだろうと好きにさせておくつもりだったが、この先、プライベートの時間をつまらぬテレビに潰されることを考えるとさすがに穏やかではない。 「それで、おまわりさん? 犯行に及んだ動機は?」 「黙秘」 「言うと思ったよ」  ご丁寧に両手で口を覆うジュディに口を曲げて、まったく、とニックは彼女を押し倒した。  小さな悲鳴が上がる。カウチに組み敷かれた無防備なウサギが抗議の声を上げるより早く、ニックはするりと彼女の脇腹に手を滑り込ませた。  ひく、と小さな体が跳ねる。  ニックは容赦しなかった。 「仕返しだ」  途端にジュディの笑い声がはじける。  わさわさと擽り倒されて身を捩る彼女の声は悲鳴にも近い。もうむり降参ときゃらきゃら笑う彼女が可笑しくて、ニックは緩む頬もそのままにしつこく彼女にじゃれついた。ジュディはいよいよ涙を滲ませている。降参だったら、と伸ばされた彼女の手を取って、ニックはようやく勘弁してやった。 「——で」  荒い息を整えるジュディがニックを見上げて、ひどい、と自分を棚に上げて文句を垂れる。  ニックは笑ったまま。 「きみが見たかったのはこの顔か?」  ぱちりと大きな瞳を瞬かせて、ジュディが跳ね起きた。 「そう、それよ!」  危うく頭突きを決められるところだった。  ジュディの小さな手がニックの両頬を抑える。まじまじと表情を覗きこむ、彼女の双眸にはきっとおそろしく腑抜けた顔をした自分が映っているに違いない。詐欺師として張り付けていたものとはまるで真逆の笑い方を知った。誤魔化す気も起きぬほど生温い感情がそのまま滲み出て、大方ふやけた顔をしているであろうことは残念ながらニックも自覚している。 「私その顔すごく気に入ってるの、だから無性に見たくて——あなたの顔はいつでも見たいけど」 「やさしさをどうも」 「ふと思ったわけ、あなたがどんなときに笑うか知っておけばいつでも見られるって、それでいろいろ試してみたのよ」 「なるほどな、もうちょっとやりようなかったかい」  いろいろの手段が理不尽に過ぎる。  がんばったわ、とジュディは悪びれる様子がない。真相究明をがんばったのかやり方についてがんばったのか判然としないが、彼女のことだ両方だろう、とニックはむりやり溜飲を下げた。 「で、この後のプランは?」 「諦める。結局わからなかったし」 「諦める? ずいぶん弱気じゃないか、ちなみに俺はわかるぞ」 「なにそれ」  素直な耳がぴくりと跳ねた。  推し測るような視線を手慣れた詐欺師的スマイルで受け止めて、たとえば、とニックは芝居がかった仕草で指を折る。 「たとえば、そうだな、君がガゼルの新曲を聴いてる、クロウハウザーと甘ったるい店の話をしてる、演習でマクホーンを負かした、それから──」 「あなたにくすぐられてしにそうになってる?」 「そうさ」  わかるかい、と鼻先を寄せる。わからない、とジュディは難しい顔をしている。その顔だって充分に魅力的ではあるけれど。 「きみが笑ってるのが重要なんだ」  蓋を開けてみれば簡単だ、馬鹿みたいに長閑でしあわせな話である。  ジュディはぽかりと口を開けて、それだけ、と問うた。それだけとは何だ。顰め面に呆れ顔、傷心顔、したり顔、泣いたり怒ったりと基本的に彼女の表情は落ち着かず、ただ笑っている、それがいかに貴重か彼女は知らないのだ。 「それだけだ、ほかに理由がいるなら少し待ってくれ、今考える」 「別にいらない。よくわからないわ、つまり私が笑えばいいわけ?」 「きみ情緒に欠けるって言われないか?」 「余計なお世話」  鼻白んだジュディが目をすがめて、情緒って、と突っかかってくる。白黒つけたがる彼女のためにも一通り言語化してやろうかと思ったがそれはそれで野暮に思えてやめた。何より面倒くさい。  きっとわからないだろう。隣でだれかが笑っていることなど数えるほどもなかった、そんな自分の隣で自分よりはるかに小さなウサギが心置きなく笑うのだ。それを目の当たりにして生まれる繊細かつ微細な感情。生まれながらに愛と勇気が友だちの彼女にはおそらく無縁だ。  それでいい。  できれば知らないままで、とニックはいかにも生温い願いに破顔する。 「あー! 今その顔してる! 私笑ってないのに」 「はいはい、臨機応変にいこうぜ、相棒」 「めんどくさいわね」 「君に言われたくない」  詐欺師どころかどうせ警察官にも似つかわしくない。  胡散臭いだの何だのと言い募る彼女を言い過ぎだと諫めて、俺だって嫌いじゃないんだ、とニックは締まらぬ顔のまま彼女の唇を塞いだ。
(2020/01/23)

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