ささやかなる不都合
クロウハウザーの顎に挟まったドーナツを救出していると彼が、あ、ジュディ、とご機嫌に手を振った。ニックはその隙に甘ったるいクリーム入りのドーナツを救い出す。
「ああ、クロウハウザー。調子は」
どう、とジュディの言葉は不自然に途切れた。固まった彼女の瞳はちょうど振り向いたところのニックをしっかり捉えており、どう出るか、と様子を見守るニックからふいと顔を背け、一度頭をぶんぶん振ってから、ジュディは何事もなかったかのようにクロウハウザーとの会話を再開した。
「調子はどう、クロウハウザー」
「え? あ、うん、絶好調だけど」
「そのドーナツ美味しそうね。今度お店教えて。じゃあ私署長に呼ばれてるから」
また後でね、と彼女が颯爽と去っていく。クロウハウザーはその背を不思議そうに見送っている。何事もなかったかのように振る舞っているつもりなのだろうが、だれが見ても不自然極まりない。へたくそ。
救出したドーナツを彼に差し出すと、クロウハウザーは首を傾けながらドーナツを頬張った。
「何かあったの、二人とも」
「何かって」
「喧嘩でもした?」
いやあ、とニックはカウンターに頬杖をついて笑う。
「もっといいこと」
「ふうん。犬も食わなそう」
「まあな。お前はドーナツ食ってりゃいいよ」
そうする、とあっという間にドーナツを平らげた彼はがさがさと次の獲物を漁っている。虫歯に気ィつけろとニックは片手を振って、下手な嘘で逃げていった自身の獲物を追うことにした。
***
湿気た資料室には都合のいいことに誰もいなかった。正確には彼女しかいない。いつもなら未解決事件の資料と対峙する古参の刑事が一人や二人いてもおかしくはないのに。
資料棚の合間にこの署では唯一の長い耳を見つけ、ニックは足を忍ばせて距離を詰める。警戒心の象徴である耳はすっかり垂れ、挙げ句の果てには溜め息が聞こえた。おいそんなにげんなりすることないだろ、とニックは資料棚をじっとり眺める彼女の背後に静かに回り込んだ。
「よう、仔ウサギちゃん」
「きゃあ!!」
ジュディは文字通り飛び上がらんばかりに驚いた。柔らかい毛をぶわと逆立て、両耳をぴんと立たたせ、あわやニックは顔面を叩かれるところであった。
「ニック! おどかさないでよ!」
「警官が背中取られてちゃ世話ないな。自慢の耳はどうした」
「どうもしてない! ていうか何しにきたの」
ご挨拶だな、とニックは彼女の大きな瞳をじっと見据えた。いつも通り威勢よく怒っているように見えるが、その実、いっぱいいっぱい、とそこに書いてある。
「清々しくシカトされたもんだから俺何かしたかなって、まあ、ご機嫌伺い?」
「ふっ、ふざけ」
「ふざけてねえよ。あの態度はまず不自然だし傷つく」
クロウハウザーにも気づかれてたぞ、と言うと途端に彼女の顔から威勢が消えた。へなと耳が下がる。え、と不安そうな声を出す彼女は、何もクロウハウザーに気取られたことに不安がっているわけではない。傷つく、と発言したニックに不安がっているのだ。
「あの。ごめんなさい、無視して」
「俺、 無理させたか? 嫌だった?」
「違うわ! そんなんじゃ……、あなたは悪くない、本当よ」
ふうんとニックは鼻を鳴らす。そんな言葉で引き下がれるわけがない。
「あの、違うの、ていうか」
「ん?」
「なんであなた、そんな普通でいられるわけ……!」
逆切れときた。ニックはひとまず、わめくな、と彼女の口に肉球を押し当て、廊下のほうに気配や足音がないか耳を立てた。異常なし。
再度意識をジュディに戻すと、彼女はこのささやかな接触にすら体を強張らせている。ああ、食らいつきたい。
「むしろなんでそんないっぱいいっぱいなんだよ」
「な、なんっ、なんでって」
調子の悪いレコーダーみたいになっている。ジュディは短い言葉を行ったり来たりしながら、言葉が見つからずにじわじわと不安そうな顔をした。おそらく最初に言い訳を考えたものの誤魔化しきれないと賢明な判断をして、それではどう表現したものかと悩んでいる。悩んで悩んで、とうとう頭を抱え込んでしまった。
「ど、……どんな顔して会えばいいのか、わからないじゃない」
俯くことで覗くうなじにはうっすらと歯形が残っている。言うまでもなく昨夜ニックがつけたものである。彼女が目下蒸発しそうになりながら訴えていることは、つまり、そういうことだ。
昨夜初めて彼女と同じベッドで夜を過ごした。今日が仕事であるにも関わらずお互い眠ったのは三時に近い頃で、朝起きると腕に彼女を抱いていて、取っ散らかした衣服を拾い集めるところから始まった。悲鳴から始まらなくてよかった、というのがニックの率直な感想である。
「幸せいっぱいに微笑むとか」
「そんな余裕ない」
「だろうな」
突発的な出来事だった。想いを確かめ合うところから手を繋ぐ、キスをする、触れ合う、と一つずつ済ませるべきことを昨夜一息に片付けたのだ。ステップも何もあったものではない。ニックですら性急と感じたのだから彼女はもっとだ。鈍くてうぶで純粋なウサギなのだ。
そういえば今朝何を食べたかも覚えてない。自分の浮かれぶりに呆れていると、あ、と彼女が慌てたように声を上げた。
「別に、幸せじゃないってわけじゃないのよ。むしろ嬉しいっていうか、信じられないくらいだし、だからこそあなたの顔が見れないっていうか」
「あー、ちょっと、ニンジンちゃん?」
「だってあなたは大人だし、選択肢というか好みとかあるじゃない。私なんて色気のないちんちくりんのウサギだからまさか本当に」
「ジュディ」
ちんちくりんはない。混乱しているのはわかるがちんちくりんはない。
捲し立てる彼女の手を取り、縮こまる頭に鼻先を擦り寄せると大きな瞳がおずおずとニックを見上げた。その瞳がいつもと打って変わって心細そうなものだからニックは破顔してしまう。これがかのジュディ・ホップスか。愛と勇気が友だちの。
「俺も同じこと考えてたよ。君は若くて将来有望で度胸があって多少無神経だが良いやつだ。俺なんかが手出していいはずがない。引く手も数多だろうしな、蓼食う虫も好き好きっていうし」
「ねえ、誉めるか貶すかどっちかにしてくれない」
「でも俺以外のやつが君に手出すほうがもっと耐えられない。君だってそうだろ? 一晩の過ちとか言うなよ。あとちんちくりんも二度と言うな」
ジュディはしばらく視線を彷徨わせたあと、うん、と斜め下あたりを見ながら頷いた。逃げる視線とは裏腹に掴んだ手はニックの手を握り返してくる。ああ、食らいつきたい。
「初めてだったの」
「知ってるよ」
「変な声出してなかった?」
「しぬほど可愛かった」
「無視してごめんなさい」
「気にすんな」
怒ってないの、と上目遣いで機嫌を伺われ、ニックは背を屈めてキスをした。びくついた肩を優しく押さえ、それでも逃げまいと一生懸命引き結ばれた小さな口を舐める。きつく閉ざされた瞼は小刻みに震え、それを見て沸き上がるのは欲望よりも愛おしさだった。
「徐々に慣れてきゃいいよ、仔ウサギちゃん。ゆうべはさすがに急すぎた」
「……その呼び方やめてったら」
「そうそう、その調子。でもまあ顔も合わせらんないんじゃ仕事にも支障きたすなあ」
そうよね、としょぼくれる彼女が俯いていてよかった。大きな瞳がニックを映していたら、そこにはきっと舌舐りする小狡い詐欺師が映っている。
垂れた耳に鼻先を寄せ、今晩の予定は、と囁くとジュディが弾かれたように顔を上げた。真っ赤だ。
「なっ」
「慣れりゃいいっつったろ」
「じ――徐々にって言った!」
「だから今日はたっぷり時間かけて差し上げよーと思って」
「変態! さいてい!」
予定は、とさらに追い込むと彼女は思考をぐるぐるさせたあとに、ない、と観念した。決まりな、と鼻先をくっつける。
「こういうのも新鮮でいいけどな、やっぱり口やかましく跳ねて絡んでくる君じゃないと駄目だ」
「……あなたって思ったより私のこと好きなのね」
「そうさ。だから早いとこ慣れてくれ、お嬢ちゃん」
今だってもう、お嬢ちゃんって呼ばないで、と噛みついてくる声を待ちわびている。彼女に触れることが叶っただけでも贅沢だというのに、かつての距離感すら失くしたくないだなんて。一度は夢を諦めた自分がずいぶん貪欲になったものだと、ニックはひどく幸せだった。
(2016/05/04)