リル・ダーリン
警察官という職務は他者の感情にじかに触れることが多く、とりわけ負の感情については触れるというよりぶつけられることのほうが多かった。そもそも警察と聞くとそれだけで態度がぞんざいになる動物も少なくない。それはたとえば、ウサギは臆病で間抜けだとか、キツネはずるがしこくて嘘つきだとか、そういう視点とよく似ている。
ジュディはそれでも、時折向けてもらえる喜びや感謝といった感情を支えに日々走り回っていた。警察官であることの誇りをそこに見出していた。よかった、ありがとう、それらの言葉だけで充分なのだ。
というのはもちろん、理屈である。
感情というものは理屈でどうにかなるものではない。
この日、ジュディはひどく滅入った気分で帰宅した。
「よお、お帰り、にんじん」
「ただいま、ニック」
本日非番の相棒はちょうど洗い物を終えたところのようで、濡れた手を拭きながら、お疲れさん、とジュディを労う。ジュディはうんと生返事をして鞄を下ろした。そうだ、確かに疲れた。手中の鞄をぼんやり眺めているとどうかしたかと声を掛けられ、ジュディは慌てて鞄をフックにかける。
「ジュディ」
と、おもむろに彼の手に頬を掬われた。否応なしに上向かせられた目線の先、かち合った瞳の中に見える自分はひどく情けない顔をしている。ああ、こんなのジュディ・ホップスじゃない。夢のためにどんなことだって乗り越えてみせると息巻いていた自分はどこへいったのだ。
「この傷どうした」
「え?」
彼の言葉にジュディはぱちりと瞬く。思考がまったく別のところに飛んでいたため、ニックの指摘した傷というものが何のことか一瞬わからなかった。
そうして、彼の指が、爪で引っ掻かぬよう慎重に右の頬をなぞるので、ようやくそこに存在する傷を思い出した。ああ、と一気にげんなりが増す。
「……まあ、ちょっとね」
「おまえ今死ぬほど浮かない顔してるぜ」
「死なない」
「浮かない顔のほう否定しろよ」
いつものようにぽんぽんと交わされるやりとりは自分の言葉だけ歯切れが悪い。自分でもわかるくらいだからニックはもっと敏感に汲み取っただろう。彼は呆れたように笑ってべろりと傷跡を舐めた。しみる。
「慰めてやろうか、仔ウサギちゃん。ハグは?」
「クロウハウザーにしてもらった」
「そうかい」
わさとらしく甘ったるい声をしていたくせに、突如棒読みになったことが可笑しくてジュディは吹き出した。げんなりが少し減る。このキツネは皮肉屋を気取っているけれどとても愛情深い。
その深い愛情はある時を境にとてもわかりやすいものになった。憎まれ口も叩くし誰がどう見ても素直ではないけれど、わかりやすくジュディを大事にしてくれる。大事にしているとわからせようとしてくれる。ジュディはそれがいつもくすぐったくて愛おしい。
「……ハグして、ニック」
「仰せのままに」
彼の手が優しくジュディを引き寄せた。
クロウハウザーのハグは大きくて柔らかくて少しシナモンの香りがした。ニックのハグは彼ほど柔らかくはないし、甘い香りもしないけれど、どんな状況下にあっても彼の腕の中が一番安心するのだ。それはやはり理屈では説明できなくて、ひとつ挙げるとすれば、少しきつめに抱き締める力加減が好きだった。どこにもいかなくて済むようで安心する。
「……時計屋さんの奥さん、覚えてる?」
「ああ、あの、気性の荒いオコジョな。高級品ばっかり盗まれるってわめいておまえの耳が半日使い物にならなくなった」
「捕まったのよ、今日、犯人が」
「へえ、そりゃお手柄だったな」
お手柄なものか。ジュディは湿っぽい溜め息をついて、どんよりした感情をどうにか追い出そうと試みる。失敗。
「息子さんだったの」
「耳無事か?」
「平気。今回は怒鳴られなかった。引っぱたかれただけ」
ああそれでこの傷、とニックが納得している。叩かれた際に爪が引っ掛かって出血していたなんて、気づいたのは署に戻ってからだった。
怒鳴られなかった。だから耳は無事だ。けれど手錠をかけられた息子の背を前に崩れ落ちた、彼女の慟哭は今でも耳から離れない。
「犯人を捕まえろって一ヶ月せっつかれたのよ。それでようやく突き止めたのに……、でも見つけたからには逮捕しなきゃいけないから」
「わかってるよ。君は正しい」
「ひとの心って複雑すぎる。なんで今日に限って非番なの」
「俺に当たるな」
わしわしと頭を撫でる手つきが少し乱暴で、優しすぎない慰めがジュディにはありがたかった。
「いいかいにんじん、誰に何を言われようと、君がしたことには意味がある。犯人を突き止めたことも、逮捕したことも、そうやって苦しむことも。全部正しいことさ」
わかってる、とジュディは彼の胸に顔を押し付けた。わかっている。けれど感情は理屈ではないから、だから彼にそう言ってほしかったのだ。理屈ではなくジュディを安心させてくれる彼に。
ぎゅうぎゅうしがみついていると彼にひっぺがされた。ひどい、と不満がるジュディの顔を、いつも通り少し気の抜けた、愛情深い瞳が覗き込んでくる。
「きちんと覚えとけ。きみは俺の誇りだ、相棒」
グリーンの双眸は優しく、そこに映る自分はやはり情けない顔をしていて、幾つもの感情が一気に込み上げてきてしまってどうにもならなった。ひっく、と間抜けた嗚咽が最初に込み上げ、次に涙が溢れ、情けない泣き声。
「ニックぅ……」
「あー、泣くな泣くな。おまえ相変わらずガキみたいな泣き方するな」
「うるさい、ばかあ」
べろべろと彼の舌が溢れた涙を舐めていく。まるで子供をあやすかのよう。ジュディがたどたどしく腕を伸ばすと、ニックはしょうがねえなと笑ってジュディの体を抱き上げた。
「世の中理不尽なことなんていくらでもある。例えばおまえが俺より先にふくよかなチーターにハグを求めたりな」
「妬いてるの、ニック」
「いいから黙って泣いてろ」
少しおざなりなキスをされたのでジュディは素直に黙った。彼の首にすがりついて泣きじゃくる。自慢の毛皮が、と嘯くのでそっちこそ黙ってほしかった。
やがて嗚咽が落ち着いてきた頃を見計らい、ニックがジュディの体をベッドの縁に下ろした。彼はしおれた耳を撫でて、寝ちまえ、とジュディをあやす。着替えなきゃ、とぼやくと手伝ってやろうかとセクハラを投下されたので無視した。
「ねえ、ニック」
「ん?」
今いちど傷口を舐める彼の頬に手を伸ばす。話を聞いてくれようと顔を離した鼻先に自分のそれをくっつけ、ありがとう、と目一杯の素直を告げる。
「あなたも私の誇りよ、ニック」
大好き、と最後の一言は言わないでおくつもりが気づいたら口に出ていた。驚いた。
途端に真顔になったニックが無造作にジュディを押し倒す。抗う間もなくさっきより長いキスをされ、本当に着替えを手伝われることになるかと思った矢先にニックが名残惜しそうに体を起こした。離れていく体温に、名残惜しいのは自分のほうだと思い至り、ジュディはほんのり頬が熱くなる。
「泣き疲れた顔に免じてキスで勘弁してやる。これ以上は煽ってくれるなよ」
「本当のこと言っただけなのに」
「食うぞ」
荒々しい言葉と裏腹に彼は優しくジュディを起こした。大人しく着替えて寝ろよ、うさちゃん。ニックに頭を撫でられ、ジュディはそうする、と素直に頷く。
「おやすみなさい、ニック」
「おやすみ、ジュディ」
額に優しいキス。本当ならきっと、いい夢を見られると胸をときめかせるところなのだろうけれど、ジュディは夢も見ないくらいぐっすり眠って、明日からまた張り切ろうと小さな掌で意気込んだ。
(2016/05/02)