捕食者の心得
アナウサギは元来ひどく警戒心が強いと聞いていた。けれどズートピア初のウサギ警察官という大層な肩書きを持つ彼女は、当然というべきかそういったステレオタイプからも逸脱しているらしい。
急に飛び付くな、といった旨の文句はさんざん垂れてある。危なっかしいし首にもくるし何より心臓に悪い。ところが彼女は何ケチケチしたこと言ってるのとでかいくせに聞く耳を持たず、ニックはことあるごとにこの危なっかしいスキンシップを食らっている。
何度も言う。
危なっかしいし首にもくるし、何より、心臓に悪い。
この日も帰宅時に一撃食らっていつも言ってるけど、という前置きつきの文句を言ってあった。そのこともあってニックはすっかり油断していたのだ。
かたいベッドに寝転がってスマートフォンをいじっていたところに資料とにらめっこしていたはずのジュディが突然飛び付いてきて、これだ、とニックは辟易する。
「ニンジンちゃん、俺いま、危うくミスタービッグとかいう恐ろしいところにリダイヤルするところだったんだけど」
「だって放ったらかしにするんだもん」
「いや放っとかれてたの俺のほう」
聞いているのか聞いていないのか、おそらく聞いていないのだろうが、ジュディはニックの不平にも構わずぐりぐりと擦り寄ってくる。こいつ正気か、とニックは頭が痛かった。ベッドの上で男にのしかかって擦り寄ってくるなどどういう神経をしている。
「あー、ニンジン? 資料のほうは気が済んだのかい」
「済んでない。でも煮詰まってきたから休憩」
「休憩っていうか突撃だったけどな」
うるさい、と彼女はニックの肩口に頭をなつかせて落ち着いた。憎まれ口とは似つかわぬ柔らかい体温。ニックはスマートフォンをベッドに転がし、小さな背をきつく抱きしめてしまいたくて、けれど持ち上げたその手に凶暴な爪が見えてぱたりと諦めた。いつものことだ。
ニックは彼女にとって常に安全でありたかった。元詐欺師でキツネで肉食動物だけれど、ニコラス・ワイルドはジュディ・ホップスが信頼を置く唯一の相棒なのだ。こんなくだらぬ下心でそれを無下にするなどどうかしている。
「だって、あなたに触れてると安心するから」
けれど彼女のほうはどうかしていた。
耳をすっかり垂らして信頼していると全身で伝えてくる彼女は何もわかっていない。安心って何だ。矛盾する感情と、衣服越しに伝わる彼女の体温とで、さしものニックももう限界であった。
「わ」
小さな体を引っくり返す。その上に先まで彼女がそうしていたように覆い被さり、大きな瞳をさらに大きくさせたジュディは、一度ぱちりと瞬いてから、ニック、と無防備に彼の名を呼んだ。
「怒ってる? あの、乗っかってごめんなさい」
「そんなことはどうだっていい」
あるいはジョークなのか、とニックは本気で思案した。彼女のことだからただの天然としか思えないけれど。
「俺はおまえにとって安全なキツネだろうがな」
「それは、もちろん」
「その前に俺って男なんだぜ」
ジュディはぽかんとしている。そんなことしってる、と言い出しかねない顔だった。ニックはそんな彼女の鼻先をべろりと舐めて、いつか食っちまうぞ、と脅す。
「……あなたが安全じゃないって言いたいの?」
「おまえにとっちゃな」
「ふうん」
「なんだ、口輪でもつけるか?」
ここでようやく、ジュディがジュディらしい表情を見せた。目をすがめて呆れたように笑う。この局面でまだわらうのか、とニックはそろそろ馬鹿らしくなってくる。
「そんなことしない」
けれど彼女の声音は少しばかり違った。なんだか優しい声をしている。彼女ほどではないが大きい類いである耳を疑い、その矢先に小さな手がニックの頬に触れた。信頼だけではない、優しさだけでもない、確かな意味をもった感触に、先の声は聞き間違いではなかったと知る。
「口輪なんてしてたらキスしづらそうだわ」
鼻先がくっつく。もともと近かった残りの距離は彼女が詰めたものだった。
これは夢か、とニックはほうけた。だって自分の知る彼女は素直でまっすぐでたくましくて致命的に鈍いのだ。こんな愛らしさを隠していたなんて知らなかった。いやもしかして本当に夢か。
呆けるあまり口に出ていたらしい。
夢じゃないわ、とジュディが笑った。
「それにあなた、夢なんて見ない詐欺師なんでしょ」
「元だよ。元詐欺師」
「じゃあ夢だからキスはしない?」
これまでの葛藤はなんだったのかとか、どこでそんな生意気な口をとか、言ってやりたいことはいくらでもあった。けれどニックはそれらをすべて飲み込んだ。何でもいいからとにかくキスをしよう、と思った。
「覚悟しろよ、ジュディ・ホップス」
のぞむところよ。すぐさま飛んでくる台詞に、ニックは笑いながら減らず口をふさいだ。
(2016/04/30)