センチメンタル・ララバイ
低く抑えられた話し声が、ジュディの意識を眠りのふちからやさしく引き上げた。
掠れた声はやわらかく、時折笑いを含んで深い夜の空気を震わせる。ジュディはしぱしぱと重たい瞬きをしながら体を起こした。彼はどこへ、と隣で眠っていたはずのキツネの行方を思い、うろと室内を見回したところでちょうど寝室に入ってきたニックと目が合う。彼は下を履いただけというえらく雑な格好をしていて、手中のスマートフォンに意識を向けながらおはようさんと口を動かした。ジュディは挨拶のかわりに微笑む。胸元のふさふさした毛並みがセクシーで目に毒だ。
「――ああ、気にするな。時間なんて気にする柄だったか?」
いつ振りだ、今どうしてる、と問う声の柔らかさは自分でさえ滅多に聞かぬもので、一体どういう神経をしているのだ、とジュディは可笑しい。
「俺も相変わらずだ。元気にやってるよ」
衣服を探っているとニックが彼のシャツを拾い上げて肩に掛けてくれた。長すぎる袖に苦労しながらシャツのボタンを留め、くあ、とジュディはあくびをひとつ噛み締める。大きな腕がそのまま抱き寄せる動きを見せたがすり抜けるようにベッドを下りた。喉が渇いた。
「そうか、それはそれは――いや、俺は、まあ、ぼちぼち」
キッチンに向かいながら便利な耳は彼の歯切れの悪い言葉をキャッチし続ける。相手は誰だろう、とジュディは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら考える。声の柔らかさからして天地が引っくり返ってもフィニックはない。
会話が続く。サツだよサツ。いやほんと色々あったんだって話すと夜が明けちまう。テレビ見ろって、俺様の大活躍が、云々。
何が大活躍だ。
先週なんて職質で呼び止めたワラビーに一発かまされて伸びていたくせに。
ジュディが遠巻きな盗み聞きを楽しんでいると、じゃあなと通話を終えたニックがキッチンに入ってきた。
「悪かったな、起こしちまったか?」
「ううん」
喉渇いただけ、と言うと俺も喉渇いたとニックが手を伸ばす。ジュディは手中のボトルを彼へ渡し、ぐいと呷るその横顔をじっと見つめた。
「ん?」
「誰からの電話だったの?」
「まあ、昔馴染みというか」
「女の子?」
ニックがにやりと笑う。
「俺ってば罪な男で」
「おやすみ」
深夜に彼の軽口に付き合っていられるほど元気ではない。片手を広げてキッチンから出ていくジュディのうしろでジョークだってジョーク、と彼が笑っている。冷蔵庫の閉じる音。結局だれだったのだろう。深夜の空気も相まってか、らしくもなくジュディの心に翳りが差す。
ジュディは彼の過去をあまり知らない。
無駄口と軽口と皮肉で一日を終えるような相棒であるが、彼自身の過去に関する話となるとどうにも口が重くなるようだった。たしかに現役の警察官が詐欺師だった過去を赤裸々に語るのも問題ではあるが、ジュディとニックの関係性においてそんな建前は必要ない。彼が話すなら聞くし受け止める心積もりももちろんある。けれどたしかに、ジュディ自身もいまいち踏み込めずにいた。無神経にはなりたくない、彼を困らせたくはない、それらの建前に隠れて聞きたくないという本音も少なからず存在していて、つまり、ジュディにもよくわからない。
いろいろ考え始めるときりがなくなってくる。全部夢だったことにしてしまおう、とジュディはざっくり片付けてベッドに戻った。
「昔の仕事仲間だよ」
シーツに潜るすんでのところでニックが寝室に戻ってきた。ドアのところで何やら余裕をこいている。
ジュディは視線だけ彼に向けて、ふうん、と応じた。シーツに潜ることを諦めてベッドの上にぺたりと座る。
「仕事の話?」
「違えよ。向こうもとっくに足洗ってる」
「ふうん……」
やはり聞きたくはなかった。ジュディは行き場のなくした手でシーツの皺を伸ばす。
こうやって思い知らされるのだ。彼は自分の知らぬ世界で生きてきて、その世界をジュディには見せないようにしている。それが彼なりの優しさだと理解しているけれど、それでもジュディはニックのスマートフォンがすこし苦手だった。
「ジュディ?」
なに、とわかりやすく塞ぎ込んだジュディにニックがやれやれと笑う。ベッドのふちに腰をかけて、彼はふかふかの手でジュディの頭を撫でた。
「よしよし、ウサちゃん、泣くなって」
「泣いてない」
雑か。
余裕ぶった彼の声が、ネガティブの渦に嵌ろうとするジュディを慮って殊に明るく発されたものだとジュディにもわかる。辛気臭い空気をなかったことにしようとしてくれている。そうとまでわかっているくせに、ジュディはかわいげのない意地っ張りしか彼に返してやれない。
「仮に仕事の話がきたとしても受けるわけないだろ」
「……わからないじゃない」
「信用ねえな」
ニックが苦笑する。ジュディは反論できなくて余計に落ち込んだ。
信じてる、と日頃軽やかに口にしている自分が急に薄っぺらく思えた。彼の言う通り、これでは詐欺師の過去を持つ彼を信頼できないと言っているようなものだ。自分たちの関係性はこの程度ではなかったはずなのに、とジュディはもどかしい。
見かねた彼が、ジュディ、と名を呼んだ。しょうがねえな、とその声が言っている。
子ども扱いが気に入らず、それでも離れていく手の感触が名残惜しくて結局顔を上げた。かち合った瞳がわざとらしく細められて、世話の焼けるウサギだ、とニックが両腕を広げる。
「おいで」
そんなのずるい。
口を曲げて眉間に皺を寄せて、自分でもわかるほど不細工な顔でジュディは彼の腕の中に飛び込んだ。ニックがやわらかくジュディを抱き締める。そこには幼子をあやすような優しさがあって、優しさよりももっときつくハグをしてくれたらいいのに、と彼のやわらかい毛並みに鼻先を押し付ける。
「……今でも仕事の電話とかきたりするの」
「たまにな。きみが不安がるほどじゃない」
「あなたを疑ってなんかないわ」
「わかってるよ。ただそれと不安とは別の話だ」
同じ話で済むくらい彼を信じられる自分でいたかった、とジュディの歯痒さはそこにある。別じゃない、と駄々をこねるとニックが笑って、別だばか、とジュディの頭に顎をぐりぐり押し付けた。馬鹿とはなんだ。
「俺みたいなやつを手放しで信じられちゃ相棒として不安だね」
「相棒だけじゃない」
「男としても心配さ。ちょっと目を離した隙に胡散臭い野郎にでも引っ掛かられてちゃたまらない」
「なんか話逸れてる気がする」
「気が紛れてちょうどいいだろ」
いいものか。このキツネは油断するとすぐ煙に巻こうとする。
「なあ、ニンジン。昔の俺は信用されちゃ困るが今の俺なら信用できるかい」
「――そんなの」
ジュディはむきになって顔を上げた。顔が近い。至近距離の翡翠色は少し皮肉っぽくて不安そうでもあった。この期に及んでジュディが拒絶の言葉を吐くとでも思っているのだろうか。見くびってもらっては困る。
「当たり前だわ、信じるに決まってる」
あなたがそう信じてくれるなら。
勢いづいて前のめりになるジュディを押し返しながら、オーケイ、とニックが息を吐くように笑った。
「じゃ今の俺が君に誓うよ。昔のダチからどんなに割りのいい仕事の話がきても受けない」
「フィニックは?」
「勘弁しろよ、あいつがダチだって?」
ニックがおどける。ひどい、と笑いながらジュディは無性に泣きたくなった。
ジュディの不安を少しでもほぐそうとする、ニックの優しさは不器用でとてもいとおしい。たしかな愛情と温もりに包まれてしあわせなはずなのに、ジュディはその分だけひどく切なかった。満たされているはずなのに心許ない。満たされているからこそ心許ない。
ああ、とジュディはようやく思いいたる。
不安の正体はきっとこれだった。
「……ひとつ、約束してくれる?」
「うん?」
「面倒だって思ってもいい、お願いだから急にいなくなったりしないで」
「ジュディ?」
「私に黙っていなくなったりしないで」
手の届かなくなるいつかなんて考えたくもない。
幼稚なわがままであることくらいジュディにもわかっていた。けれどそれでもこわかったのだ。彼の過去に彼を奪われることがこわかった。きっとその時彼は何も言わずに姿を消すだろうから。
「いなくなるもんか」
誓うよ、とニックが笑う。
さびしがりのウサちゃんが心配だ。彼の軽口は減らない。
「絶対よ。破ったらどこまでも追いかけて取っ捕まえてやるんだから」
「いいねえ、巡査殿。そうこなくちゃ」
「本気よ」
「わかってるさ」
彼の声はやはり優しくてジュディは泣きたかった。もしもの喪失感を思うだけで泣きそうだなんていよいよ重症だ。見かけよりもずっと広い背中にぎゅうぎゅうしがみついていると、小動物のそれをはるかに上回る腕力にニックがわかったわかったと降参した。
しぶしぶ離れると鼻先が触れた。おとなしく目を閉じると唇が触れる。角度を変えて二度三度とキスをして、最後に目蓋にキスが降ってきた。うっすら潤んだ視界のなか、ニックが笑っている。
「おまえも今さら俺から逃げたりすんなよ」
「しない。食べられたって逃げないわ」
「いやあ、それは逃げてもらったほうが」
「面倒くさいわね」
そんな俺様に惚れたんだろ、とニックがうそぶく。確かにこれくらいが丁度いいのかもしれない。どこにもいかないでと駄々をこねる自分も、どこにもいかないとしかつめらしい声で誓う彼も、まったくもってらしくない。朝になって今のことを思い返して、きっとこの数分間を後悔することになるのだろう。そう考えると徐々に気恥ずかしくなってきたジュディである。
「……あの、ごめんなさい、駄々をこねて。ありがとう、ニック、もう寝ましょ」
「なんだ、センチメンタルは終わりか?」
「その言い方恥ずかしくなるからやめて」
「もっと恥ずかしいことしてるだろ」
「あなたは恥ずかしいの?」
おお言うようになったねお嬢さん、とニックが茶化す。彼はジュディを抱き締めたままベッドにごろりと寝転がって、悲鳴を漏らしたジュディの背をやさしく撫でた。
「大丈夫さ、相棒。いつかこんなことも忘れちまうくらい色んなことが当たり前になる」
「わかってる。でも早くいつかがくればいいのに」
「そう勿体ないこと言うなって。小さな幸せを噛み締める時間が重要なときだってある」
「小さな幸せ?」
「旨そうなウサちゃんを抱き締めて眠る瞬間とか」
「はいはい、もう寝ます」
彼の隣で眠る体勢に落ち着いて、シャツ皺になっちゃう、とぼやくとじゃあおまえがアイロンかけてくれよとニックが満足げに告げた。そうだきっとこういう時間だ、とジュディは小さなそれを噛み締める。
包み込むような体温と寄り添う尻尾に身をゆだねて、そこに先までの切なさがないと言えば嘘になるけれど、それでもジュディは彼の言ういつかを信じていた。きっとこの温もりが手放しでしあわせと思える時がくる。ジュディは当てどもないいつかを待ちわびて鼻先を擦り寄せた。
(2019/03/10)