つま先立ちの愚推
はじめの違和感はハグを引き剥がされたことだった。
うっかり取り逃がしたアナグマを先回りしていたニックが引っ繰り返し、御用となったちゃちな悪党に手錠をかけて彼に飛びついた時のことである。さすがねと相棒を褒めちぎるジュディをやんわり剥がしながら、俺が優秀だって、ああしってるよ、とニックはいつも通りに笑っていた。彼の両手だけがジュディを一定の距離に留めて牽制していた。
(――気のせい)
その時も今もジュディは自身にそう言いきかせている。ポジティブは得意だ。けれど自然だったはずのスキンシップにすこしずつ不自然が滲むようになって、さしものポジティブも鈍感も通用しなくなってきた。飲みかけのブルーベリーヨーグルトをねだらなくなった、ふたりでひとつ使っていた椅子に彼が並んでこなくなった、ほんとうに気のせいかもしれないけれどハイタッチの回数まで減った気がする。
(気のせい……)
ごす、とジュディは傍らの資料棚に頭をぶつけた。女々しい。ハイタッチの回数はさすがに重症だ。
思えばプライベートでのスキンシップも減った。最後にキスをしたのはいつだっただろう。もとより時間に自由のきく身ではないけれど、それにしたって、とジュディは資料を捲る。
寂れた記録保管室。地下の湿気がジュディの心にまで湿り気を呼ぶ。
(柄じゃないわ)
本人に訊くのがいちばん早い。
ばしんと勢いよく閉ざしたファイルを戻してジュディは踵を返す。面倒と思われるかもしれない、いや今だって充分面倒くさい、と開き直りに近い気合いを入れて相棒を目指す、その矢先に扉が開いて問題のキツネと鉢合わせた。
とんだタイミングである。
「……よう」
張り切ってんな、と先に口を開いたのはニックのほうだった。
「……ハァイ、ニック」
「おい、露骨にテンション下げるな」
テンションというより勢いを削がれた形のジュディは、別に、と耳を垂らして先のことを考える。たった今意気込んだところだ。さすがに心の準備が、と二の足を踏むジュディに、ワーカホリックも大概にしろよとニックが肩を竦めた。
「定時のベル聞こえなかった?」
「聞こえたわよ。見くびらないでくれる、ウサギの耳」
「とんでもない、ナマケモノにカーチェイス挑むようなもんだ」
「なんか違くない?」
見くびってなんかいないさ、と訂正したニックがジュディの脇を抜けて資料棚に手を伸ばす。彼が引っ張り出したそれは先程ジュディが勢いよく閉じたものである。
「……あなたこそ残業じゃない」
「そうさ、相棒が君じゃないってだけで大忙しだ」
「なによそれ、だってあなたが」
外したんじゃない、と自分の担当ではない資料を未練がましく眺める。
今回彼の相棒はジュディではない。マークしていた組織が大量に物騒な銃火器を仕入れているとかで、ウサギじゃ心許ないとニックがマクホーンをバディに引っ張り出したという。心許ないとはなんだ。
「──あ、なんか腹立ってきた」
「おいおい」
忙しいな、とニックは他人事のように余裕をこいている。ジュティはその話すら上司づてに聞いたのだ。聞いてないのか、と尋ねるボゴの声が気遣わしげでジュディは余計に惨めだった。
「別におまえの実力を疑ってのことじゃない、俺のわがままみたいなもんだ」
「あらそう、納得だわ、そういうことなら早く言ってよ――とでも言えばいいわけ」
「ずいぶん突っかかるな」
「私、あなたに何かした?」
よそよそしい。避けられている。気づかぬふりをしてきた彼の言動はけれどあまりに不自然で、その原因に自分を据えてしまうのはひとえに彼との関係に不安を抱いているせいだ。公私にわたって彼のパートナーでいられることはジュディの誇りだった。けれどだからと言って、彼が同じ気持ちでいてくれていると手放しで信じていられるほど、ジュディは自分に自信などない。
「なんだ、改まって、なにか後ろ暗いことでも?」
「質問に質問で返すのはフェアじゃないわ」
「なにもないよ、言ったろ、俺の問題だ」
「嘘よ、そんなの――そんなわけないもの」
「ジュディ?」
ぱたりとファイルを閉ざしたニックが肩越しにジュディを振り返った。しおれた耳を見て、どうしちまったんだ、とおどけるように問う。その優しさだって今のジュディにはどこか他人行儀に思えてならない。
「だってあなたって本当は優しいし、そりゃ皮肉もジョークもきついけど、たまにそのことを反省してることだって知ってる」
「そうだな、それ胸にしまっといてくれないか」
「そんなあなたに――そんなこと言われたって、信じられるはずがないじゃない」
気休めと優しさは違う。ジュディの愚痴めいた言葉に、ぴく、とニックの耳が跳ねた。
あ、とジュディは口を噤む。やってしまった。いつだって自分は軽率で鈍感で、たった一言、彼に向けた言葉がどんな意味を持つのか考えもせずに感情ばかりを押し付けてしまう。彼の顔を見て初めて自分のしでかしたことの大きさに後悔する、それでは遅いことだってあると痛いほど知っているというのに。
今だってそうだ。
信じられないと、とんでもない言葉をジュディは彼に向けたのだ。
「ち、がうの、ニック」
「にんじん」
「ちがう、今のはそうじゃなくて、あのね」
「ジュディ」
落ち着け、とニックがジュディの手を取る。自分のそれよりもずっと大きい、彼の手も彼の爪もジュディは一度だって怖いと感じたことはない。彼はいつだってジュディにとって安全でいてくれる、そうやって都合のいいことは信じていられるくせに、どうして彼の心は信じられないのだろう。
「わ、私」
「シィ、落ち着けって、大丈夫」
「大丈夫なんかじゃ」
「なあ、おまえはだって、こうやって簡単に触れてくるだろ」
ジュディは瞬いた。当たり前じゃない、と口にしかけて、その言葉の押しつけがましさに気付いてふつりと口を閉ざす。そうだ、当たり前だなんて、一体なにを根拠に。
「……そうよ、たしかにそうだわ、だってまさか迷惑だったなんて」
「は? 迷惑? なんでそうなる」
「私、そうだわ、たしかに自惚れてた、だってあなたとのハグにもキスにも理由が必要なくなったんだもの、調子に乗って――それが理由なんでしょ? 私のせいで」
距離を誤った。きっとそうだ。ジュディの胸がぎしりと痛む。
触れることが当たり前だなんてとんだ思い上がりだ。彼は大人で、大人の恋愛なんてジュディにはわからないけれど、触れることも近づくことも彼はもっと控えめなそれを望んでいたのかもしれない。あるいは今まで通りを。だとすれば不用意に抱き着いて触れたがる、ジュディのそれは彼にしてみればずいぶん子供じみて見えただろう。
何故だろう。ジュディは無性に泣きたくなった。
友達よりも相棒よりもずっとたしかな関係を築けるものだと思っていた。それがどうだ。友達よりも相棒よりも、今のほうがずっと不安定だなんて。
「気のせいって思おうとしたわ、でも明らかにあなたは私を避けてるし触れないようにしてる。急にわからなくなったの、ねえニック、私なにか間違えた? 不快な思いをさせた? こんなお子様もういやになった?」
「ストップ、聞けよ」
「友達だったときはこんなこと思いもしなかった、だって今はちょっとしたことであなたが離れてしまうんじゃないかって……相棒のほうがよっぽど近くにいられた気がするんだもの、だったら――だったら、こんな関係」
いらなかった。
絞り出すような言葉がジュディの胸を抉る。痛い。苦しい。傷つけているくせに傷ついて、ああなんて勝手、と滲んだ涙がこぼれるより早く、唇を塞がれていた。
ふ、と間の抜けた声が零れ落ちる。思わず退いた一歩分を彼が踏み込んで、突然のことに慄く体をニックの腕が包み込んだ。彼の手から躊躇が伝わる。ジュディを抱きしめてはぎこちなく力を緩めて、力加減を探るような仕草にジュディが違和感を抱いた矢先、落ち着け、とニックが顔を離した。
「滅多なこと言うもんじゃないぞ」
「ニック」
盛大に溜息をついたニックがジュディの鼻先に肉球を押し付ける。突っ走るな、と幾度も耳にしたクレームはけれどいつもよりも覇気がなく、言い返そうとするジュディの言葉を遮るように彼の腕が強まった。
「聞けって、俺の記憶の限りじゃおまえがひとりで暴走してろくなことになったためしがない。深呼吸するか?」
「しない」
「じゃ結論から言うが的外れもいいとこだ。大外れ。おまえとのスキンシップを迷惑がってる? どこにそんなキツネがいるんだ」
「あなたってそんな調子でしか話せないわけ?」
ただでさえ不安と焦燥を持て余しているのだ。彼の真意をできれば簡潔に、できれば真面目に彼の口から聞きたいジュディの切実な思いを知ってか知らずか、わかったよ、とニックは息を吐くようにわらった。
「きみが大事なんだ」
大事にしたい。彼の柔らかい尻尾がゆらりと揺れる。
「笑うかい、きみを危ない目に遭わせたくなくてバディから外した。きみが不用意に触れてくるから欲張りたくなる。欲張って、それで、俺のこの牙で、爪で、きみを傷つけたら?」
「そんなの」
「気にしない? 俺は気にするなんてものじゃないぞ、こわいくらいだ。きみがあんまり無邪気だから」
そろりと背中を叩く彼の手はたしかに優しい。優しいけれど、それではこの関係になんの意味があるのだ、とジュディは納得がいかない。
「こんなに不安がらせるとは思わなかった。それについては謝るよ、ごめん」
「嫌。許さない」
「おいおい」
彼の手がジュディから離れようとする。そんな遠慮はひとつだっていらない。ジュディは自らニックに抱き着いて、許してほしかったら、と彼の胸元に条件をくぐもらせた。
「許してほしかったら思いっきり抱きしめて」
「話聞いてたかい」
「聞いたわ、初めてね。どうして言ってくれないの」
「あと十歳若かったら話せただろうな、あまりにダサい」
なにを今さら。
軽口のような台詞はやけに実感がこもっていて、どうやら彼は彼なりに切実に悩んでくれたらしい。間抜けね、と彼がそうしてくれないかわりにジュディのほうがニックをきつく抱きしめる。
「私、あなたに殺されるふりだってしたのよ、あれ以上のことなんてある? それともこれが力一杯? トレーニングがなってないわ」
「言ったな!」
「きゃあ!」
出し抜けに彼の腕の力が強くなった。ぎゅうぎゅうとでたらめで不器用で力強いハグ。回された腕がジュディをがっちり抱き込んで、息苦しいほど強く掻き抱く力は彼の不安をそのまま表すようでもあった。
「……私、本当にひどいことを言ったわ、ごめんなさい」
「いいさ、気にするな」
「ほら、あなただってそう言うじゃない。私があなたにひどいこと言いたくないからってあなたと口きかないようなものよ」
「そいつは……たしかに、困るな」
しかつめらしく呟いたニックが、深く息を吐いてジュディに体重をかける。重たい。息苦しい。それほどの力強さと執着を目の当たりにして、そうかこんなに、と彼の葛藤を思ってジュディは胸元に鼻先を寄せた。
「……そんな簡単に傷ついたりしないわ」
「きみこそ簡単にこの関係を諦めようとするんじゃない」
「あなた次第ね」
「改心しますよ、おまわりさん」
許してくれる、と囁かれてジュディは笑った。仕方ないわねと顔を上げるとニックが顔を寄せてきて、戯れ合うように交わしたキスは思ったよりも長引いた。不自由な吐息の合間、次バディから外したら許さないから、と告げるとニックは満足げに笑って、肝に銘じるよと場違いなキスの続きをせがんだ。
(2019/04/06)