Take it Easy
起きるとすでに、隣で眠っていたはずのやわらかいウサギはベッドから抜け出していた。
ニックはもぞもぞと寝返りを打ってヘッドボードの時計に手を伸ばす。鶏を象っているくせにクルッポーと鳴くふざけた目覚まし時計は七時半を指していて、時間によっては二度寝を決め込むつもりだったニックは、まだ彼女がいる時間であることに思い至ってベッドから這い出た。
ひとまず顔を洗うべく洗面所へ向かう。
先客がいた。鏡越しに目が合い、ジュディが歯ブラシをくわえながらおはようともごもごしている。
「おはようさん。今日も決まってるね、ニンジン」
後頭部で不自然に跳ねた毛先をいじると手をはたかれた。口をゆすぎ、カップに歯ブラシを戻した彼女はここだけ寝癖が直らないのと愚痴る。
「ていうかあなた今日休みでしょ。早起きなんてしてどうしたの?」
「いとしいウサちゃんを見送ってから二度寝しようかと」
「ステキ」
心にもない相槌を打ってジュディがタオルを投げつける。それを清々しく顔面でキャッチし、ほんとうさ、とニックは両手を広げた。視界をタオルに遮られてわからないが、おそらくこのわざとらしいジェスチャを彼女は見てもいない。
「あ、そうだ、私今日遅くなるかも」
ニックは顔面のタオルを下ろす。
「なんで」
「ミーティング。ボゴ署長が戻り次第って言われたからたぶん夕方よね。あーあ、せっかくニックが休みなのに」
「夕飯作って待ってるよ。ごゆっくり」
やめてよ縁起悪い、とぷりぷりしながらジュディが洗面所から出ていく。定時後のミーティングなんてぞっとしない。休みで助かった、とニックは顔を洗う。
二度寝はするつもりだが朝のコーヒーも捨てがたくて結局キッチンへ向かった。ついでに朝食も済ませてしまおう、とトーストに思いを馳せているとチンとトースターの音が鳴った。健全な朝の香りを辿るとこんがり焼けた二枚のトーストをジュディがそれぞれ皿に乗せている。あなたの分、と片方を示してキッチンを去ろうとする彼女の手には、もう一つの皿とジャムの瓶が。
「残念だけどバター切れてる」
「げっ。俺何乗せて食えばいいんだよ」
「ブルーベリージャムがまだあったわ。それかこれ」
「にんじんジャムて」
朝から勘弁、と嘆息すると尻尾を踏まれた。冗談抜きで痛い。
冷蔵庫にブルーベリージャムが残っていることを祈りつつ、ニックはマグをふたつ用意した。湯を沸かしているとジュディが、私もコーヒー、と高らかに要求したのであるよと応じる。
「ねえ、あなたって休暇どれくらい残ってる?」
「たっぷり。君のために使う休みならいくらでも」
「ほんと? あのね、姪っ子ができたの。それで一度会いにバニーバロウに帰りたいんだけど、あなたもどうかなって」
「いいよ、喜んで。とれたてのブルーベリーは最高だった」
休み合わせなきゃ、と声が跳ねている。今月はまだ忙しいし、とご機嫌な彼女は先から喋ることに手一杯で食べている様子がない。コーヒーを用意してマグを持っていくと、案の定彼女のトーストはにんじんジャムを塗られたところで冷めていた。
「そういえばこの前ギデオン・グレイがね」
「どこぞのキツネくんの話を始める前にかわいそうなトーストを片付けてやれ」
「やきもち。コーヒーありがとう」
ようやくトーストを齧り始めたジュディが、あれ、という顔をして、ああ、と腑抜けた声を出した。新聞なら持ってきてねえぞ、とニックはブルーベリージャムを捜索する。
「そうだった、いつもあなたが回してくるから」
「休みの日にまで朝イチで新聞ってのはな」
「私あなたがコーヒー片手に新聞読んでるところ好きよ。セクシーで」
「その手には乗らないぜ、お嬢ちゃん」
残念、とジュディが新聞のかわりにテレビのリモコンへ手を伸ばした。
ブラウン官にタヌキのキャスターが現れる。途端に彼女がさっと青ざめ、その理由はもちろんタヌキなどではなく、左上に表示された時刻である。
「――無遅刻無欠勤?」
「黙ってて! ああもう、せっかくのコーヒー」
「あー、片付けとくからトーストだけは腹ん中入れとけ。おまえが倒れても俺は仕事行くぞ」
「さっきと言ってること違うじゃない!」
トーストをコーヒーで流し込んだジュディがばたばたと一度寝室に引っ込む。ニックがようやくブルーベリージャムを発見した頃に着替えを済ませた彼女が飛び出してきて、そのまま玄関へ駆けていくかと思いきや、大変だ遅刻だと慌てる白うさぎ、いやグレーであるが、彼女はわざわざニックの元へ寄り道をした。
「行ってくるわねニック」
頬にキスをしていよいよジュディが駆け出した。事故んなよ、と尻尾を揺らし、ニックは慌ただしさの去った朝を堪能する。
***
スマートフォンのバイブで二度寝から起きた。
のろのろ手を伸ばして、死にたいほど重たい瞼を持ち上げて液晶を確認する。十四時過ぎ。寝過ぎた。
バイブはメッセージ受信の通知であった。ジュディ・ホップスとのトーク画面には、おそよう、と一言。お見通しである。おそよう、とこちらも返して、一度枕に突っ伏し、睡魔の残滓を振り払って体を起こす。買い出しにでも行こう。
着替えを済ませ、歯を磨きながら何とはなしにテレビをつけると、午前中に発生した人質立て篭り事件とその解決をタヌキが解説していた。昼過ぎに犯人逮捕、人質は無事、怪我人はなし。ズートピアは本日も騒々しく平和である。
「なお、交渉にあたったのは夜の遠吠え事件で一躍有名となったジュディ・ホップス巡査とのこと。彼女の活躍により今回の事件も――」
画面の右下に見慣れた顔写真とテロップが表示された。また大袈裟に報じられたものである。ニックは口をゆすぎに洗面所へ戻る。
彼女が取り沙汰しやすいことは理解できるが、こうやって彼女だけを大きく取り上げることを本人は納得しないだろう。案の定リビングに戻ると、取材時の映像にてジュディは私だけの力ではなく云々とひどく居心地悪そうにコメントをしていた。
「それと取材って苦手なんです、あの、仕事に戻っても?」
居心地が悪いのはそっちか。ニックは笑ってしまった。
ともあれこちらが二度寝を貪っている間に相棒は長い半日を過ごしていたらしい。甘いものでも何か買って帰ろう、とニックはくたびれたネクタイを緩めて街へ繰り出す。
まず第一にバター。それから牛乳の残りが少ない。歯磨き粉。毛羽立ってきた歯ブラシの替え、ついでに彼女の分も。夕飯のスープパスタの材料と、甘いものはベタにドーナツか、アイスクリームでもいいな、とマーケットをうろうろしているとスマートフォンが鳴った。着信、ジュディ・ホップス。
「よう相棒。立て篭り事件無事解決だって? お手柄お手柄」
「もう、どうせニュースで知ったんでしょ。休みだからって寝過ぎ」
「勘弁してくれよ、ニンジンちゃん。それで用件は?」
「あなたの声が聞きたくて」
「お気遣いどうも、俺も愛してるよ」
本題をどうぞ、と促すとジュディはあっさり本題に入った。それはそれでどうだ。
「買い物に行くならおつかい頼もうと思って」
「何なりと。バターと牛乳ならばっちりだ」
「洗剤が切れそうなの。あと今日すっごく疲れたからビール」
「ビールかい」
家にまだあった気がする、それでも一応買っておこうとニックは脳内の買い物リストに追加する。甘いものは却下。りょうかい、と応じると電話越しの声が跳ねた。
「それと今日早く帰れそう! ミーティング延期だって」
「それはそれは」
ニックの尻尾が揺れる。
「じゃ、早く帰っておいで、ニンジンちゃん」
こちらもだらだらしている場合ではない。早く帰って夕飯の用意を始めなければ。ニックは頭の中でえらく平穏な買い物リストを反芻させる。
***
宣言通り彼女の帰宅は早かった。十八時半。差し出された頬におかえりとキスをして、着替えてこいと部屋に追いやって夕飯の準備を整える。食事中はおおむね彼女の愚痴であった。
「そもそも私が交渉にあたったのだって犯人から指名されただけのことなのに」
「大人気」
「馬鹿にして。犯人だって絶対私のこと舐めてたのよ、ウサギでチョロそうだから」
だとしたら犯人の見当違いも甚だしい、とニックはパスタを嚥下する。我ながら良い味である。ジュディの様子を窺ったが彼女はマスコミへの憤慨に一生懸命で味は二の次のようだった。まあいいか、とニックはフォークをくるくるとやる。
「ていうか実際、おまえ交渉より突入タイプだろ」
「そうなのよ! 電話でケチケチしたやりとりするたびに突入したくて」
「そういうのを生き急ぐって言うんだ。パスタは?」
「最高」
そいつはよかった、とニックは満足して引き続き彼女のマシンガントークに耳を傾ける。クロウハウザーから美味しいケーキのお店を教えてもらった、カゼルの新曲が最高、フルー・フルーがふたりめを身籠った、云々。マシンガンが落ち着く頃には器用なことにスープパスタもきっちり完食されていた。要領の使いどころを間違っている気がする。
「一日いなかったからあなたと話したくてうずうずしてたのよね。はあ、満足した」
食器を片付けた彼女がそのまま皿洗いに取りかかろうとするので、ニックは自身の食器を下げたついでに彼女の手からスポンジを攫った。ちょっと、と手を伸ばすジュディに風呂でも入れとスポンジを頭上へ避難させる。
「ゆっくりしてこい」
「朝だって片付け押し付けちゃったのに」
「押し付けたっつーか俺が引き受けたんだよ。俺って休みだったんだぜ、今日」
「そういう問題じゃ」
「風呂上がったらビール」
「――いってくる」
すんなり踵を返した彼女を見送りながらスポンジを泡立たせる。洗ってやろうかくらいのセクハラはチャレンジしてもよかったな、とニックは少ない皿を洗いながら少し後悔していた。
風呂から上がった彼女と入れ違いにシャワーを浴び、上がった途端にテレビをザッピングしていたジュディが両耳をぴんと跳ね上げた。ビール。
ニックは頭にタオルを被ったままキッチンへ向かい、ビールを二本、詮を開けてリビングへ戻る。片方を彼女に渡し、軽く傾けて乾杯。瓶に口をつけたジュディがぷはと色気のない息をつき、ああ幸せとほんとうに幸せそうな顔をするのでニックはもっと幸せだった。
「安上がりだな」
「ほっといて」
だがそういうのも悪くない。
狭いソファに並んでドラマを眺める。すぐそこにやわらかいウサギ、片手にはビール。最高である。
ドラマのほうはフィナーレ寸前で、本音を偽ってばかりいた主人公が今まさに発とうとしている飛行機の中でアイラブユーを叫んでいた。長らく相棒を務めた彼女へやっと本当の気持ちが言えた云々と涙ながらに訴えている。ニックはひどく居た堪れなくなった。なんというか他人事と思えない。
彼女は一体どういう感情でストーリーを見守っているのだろう、とおそるおそる隣を見遣ると、ジュディは見守るどころかうつらうつらしていた。観るか寝るか飲むがどれかにしてほしい。
「おねむかい、うさちゃん」
「んん……」
「ドラマはいいのか? おたくの大好きなハッピーエンド」
「ハッピーエンドならあなたで間に合ってる」
とんだ口説き文句を言ってくれる。
画面は取り調べ室でキスシーン。ニックはテレビを消して目をぐしぐしやっている彼女を抱き上げた。耳をへたらせて首元に擦り寄ってきた小さな頭を肉球で労う。
「あなたも寝るの、ニック」
「寝るよ。それともいいことするか?」
「しんどいからいい」
「そうかい」
まあゆっくり寝てくれ、とニックは彼女をベッドに寝かせた。電気を消して隣に潜り込む。尻尾で包み込むようにするとジュディは満足げに、ニックではなく尻尾に擦り寄った。そっちか、とニックはいくらか複雑な気分になる。
「おまえ明日休みだろ。朝起きてこなくていいからな」
「明日……、ああ、そうだ、休み」
「あと俺当直だから待ってないで寝ろよ」
やすみ、と謎のタイミングでジュディが跳ね起きた。なんだ、とニックは紳士的な流れも忘れて目をぱちりとさせる。何かまずい仕事でも残してきたか。ワーカホリックにもほどがある。
「またあなたに会えないなんて」
「おまえ今誰と会話してるつもり」
「そういう問題じゃないの」
どういう問題、と平坦に返すつもりがそれらすべて、おっと、という間の抜けた声に変わった。気付いた時には組み敷かれている。腹の上にはウサギ。
「……えー、ニンジンちゃん?」
素直な尻尾がわずかに揺れる。
眠たげだったはずの双眸を色っぽく瞬かせ、ジュディは鼻先にキスをした。
「いいことしましょ、ニック」
いや俺明日当直。反論する頃には口が塞がれていた。
(2016/05/14)
しあわせな曲をダラダラ聴きながらダラダラ書いてダラダラした話が出来上がるというのはわりとあるあるなんですがこれはポルノさんのWe Love Us。しぶ掲載時にドラマ言い当てた方がいて心の中で握手しました。