dodge city
じんわりと心地よい靄が脳内にゆったり這いずり出してきて、そろそろ潮時かなとミツヒデはグラスを置いた。手中で氷がからりと涼しげな音を立てる。
目の前では対照的にオビがぐいぐいグラスを煽っていた。たぶん彼のほうはまだいける。酒に強い性質は果たして生まれながらの体質かこれまでの仕事柄か、彼の場合どれが正解と言われても納得できる気がした。オビだしな、という一言で概ねの事案を片づけられそうなのがこの男である。
「おまえは本当に得体が知れないなあ……」
根っこのあたりはいつになったら見えてくるのだろう、とミツヒデは苦笑する。当の本人はいやあと言ってへらへら笑うだけだ。
飲み比べと称した勝負を始めてそろそろ一時間ほどが経つ。決して弱いほうではないしそれなりに飲んでもいるが、如何せん相手が悪い。この辺でやめておかねば明日に響くだろう、とミツヒデは思考が正常なうちに自戒する。
「旦那だって飲めるほうでしょ。まさか限界? 全然酔ってないじゃないですか」
「え? 酔ってるだろ」
「いやなんか全然しらふですよそれ」
「そうかな。だいぶ喋ってると思うぞ」
ああまあそうですかね、とオビは曖昧に応じる。そういう彼こそ酔った様子など微塵も感じられない。
「明日も仕事だしなあ」
「うわ真面目」
「まあな、万が一にも明日潰れてたりしたら木々に睨まれるからな」
「ああ……」
猫のような目に若干の哀れみを滲ませながら、オビは静かに納得してグラスに口をつけた。何を他人事にしているのだ。彼がつぶれたところで監督不行き届きだの何だのと結局睨まれるのは自分で、いや違うな、とミツヒデは呻く。
「睨まれるだけで済むかどうか。むしろ口きいてもらえなくなる……?」
「……いやまあ、なんていうかそっちのほうが現実味ありますけど」
オビは面白そうにミツヒデを見た。
「主じゃなくて木々嬢なんですね」
「え? ああ、たしかに」
「えー、無意識」
「いや、木々のほうが笑えないと思ってな」
相手がゼンでもさすがに釘のひとつやふたつ刺されるだろうが、彼のほうがまだその場の乗りや酒の勢いといった現象に理解がある。一度羽目を外したくらいでそこまで冷ややかにされる心配はない。と思いたい。
ところが一方の木々である。
「木々だと洒落にならないだろ。たぶん一日ももたないな、俺が」
「ミツヒデさんがね」
「おまえくらいの図太さがあればよかったけどな」
なんですそれと心外そうな顔をするのでそのままの意味だとあしらった。きっと落ち込むどころか途方に暮れるだろう。最悪ゼンに泣きつきかねない。
「……前々から思ってたんですけど」
「うん?」
「ミツヒデさんって木々嬢とどんな感じなんですか」
「どんなって」
ミツヒデは思わず笑ってしまった。
「どうもこうも。見たままだ」
「できてます?」
「……そういう聞き方するか?」
もう少し言葉を選ぶとかオブラートに包むとか何かないのか。いやないか、とミツヒデの答えは早かった。この男はこういう面で非常に雑である。
「まあ、ぼちぼちだな」
「なんですかその曖昧なの」
「おまえこそこんなこと聞いてどうする」
「いやあ、それはほら」
オビはおどけて人差し指を立てる。芝居がかった仕草であった。
「主とお嬢さんは上手いことまとまったし、旦那と木々嬢もそういうのだったら俺独り身で淋しいなって」
「そんな性格してないだろ」
「あとはあれですね、木々嬢フリーなら俺が、みたいな」
「駄目だな。やらないぞ」
「……いやまあ、冗談ですけど。即答じゃないですか」
やはり酔っているな、とミツヒデは苦笑した。自覚できるほどには酔っていないが、そう認めざるを得ないほどには口が滑りやすくなっている。下手に墓穴を掘る前に話の矛先を変えてしまおうとグラス手に取り、そこで一瞬翌日への不安がよぎったが、酒の場を借りてこの男の本音を探れるなら安いものだ。腹をくくってグラスを煽る。
「違うんだろ。白雪をゼンにとられたからじゃないのか?」
「うわあ……急に核心ついてきますね、旦那、引きますわー」
「白々しいな。それこそ前々から気になってたんだよ」
オビが自身のグラスに酒を注ぎ足して、そのままミツヒデのグラスにも注いだ。悪いなと告げて、それでも話題だけは逸らさせぬよう細心の注意を払ってオビの出方を待つ。
「まあ、俺がどう映ってたのかはわからないですけど、心当たりもなくはないんでね」
「それは遠回しに認めてるのか」
「うーん、ま、ミツヒデさんなら。オフレコでお願いしますよ」
「わかってるよ。そんなに野暮じゃないぞ」
彼なりの照れ隠しだろう。ミツヒデは軽く笑って応じた。
冗談と軽口に紛れた彼の本音、けれどそれが冗談でも戯れでもないことをミツヒデは知っている。彼はその小難しい感情を抱きながらもあの二人を気にかけ、時には自分たちよりもずっと近いところで二人を見てきた。彼にとって他者という存在がどれほど重心を有するのか知らないが、少なくとも二人が想いを通わせたことに安堵して笑ったのは事実だ。彼はこれからもその道を見守る心算でいるのだろう、とミツヒデは勝手に汲んでいた。
「つらいなあ、オビ」
「ああ、でも、そうでもないんですよね。俺、そういうのよりあの二人が大事みたいで」
「へえ。おまえの口からそんな言葉が聞けるとは」
「いやいや、ほんとに。俺、主にもお嬢さんにも救われてるようなもんなんで」
そういう意味じゃ普通の横恋慕と違うかも、とオビは自分からそんな発言をしてくる。彼は彼できちんと酔っているらしい。
「要するに、相手を想って身を引くような話とは違うってことだろ」
「違いますね、そんなヤワな話じゃない。いくらでもせっついてやりますよ、あの二人が笑ってる未来のためなら。それにどうせなら大団円じゃなきゃ」
「おまえらしいな」
ミツヒデは笑った。柄にもなく真正面からゼンと白雪を大事だと告げた彼の口から、大団円などという台詞が出てきたことが可笑しかった。その中にきっと彼自身も含まれているのだろう。自分の身にも手綱にもどこか無頓着だった頃を思うとそれは微笑ましい変化で、ミツヒデは一人満足してグラスに手を伸ばす。
「……で、ほら、俺は全部話しましたよ。次はミツヒデさんの番です」
「え、そういう流れなのかこれ」
「話してくれないと、いいんですか、俺ほんとに木々嬢とっちゃいますよ」
旦那相手なら身を引く理由ないですからね、と地味に失礼なことを言ってオビが酒を煽る。所詮ただの挑発でその言葉が本気でないとわかっているものの、ほんのわずかなもしかしたら、が結局ミツヒデにも無謀な酒を進めさせた。