からから - 9
一日の休みを挟んで、早朝、少し早めに執務室に顔を出すと、すでに木々がいた。
おはようございます、とオビは素知らぬ顔で声をかける。ちらと振り向いた木々もおはようと相変わらず素っ気ない声である。
あの夜以来、というか昨日の丸一日の休み中、木々どころかミツヒデの姿さえ、稽古場にもゼンの近くにも見かけなかったことについて、さすがに何も察せられぬほど野暮ではない。
「機嫌直ったんです?」
「何の話」
目についたのは衣服に隠れた首筋である。
襟の届かぬところから、赤い鬱血痕がわずかに顔を覗かせている。先日自分のつけた痕はあそこまで目立つものではなかった。
オビはずいと木々との距離を詰めた。身を引きかけた彼女の白い首筋に手をあて、執着の痕跡をまじまじと眺める。間近で見ると思った以上にいびつで痛々しい。
「……あーあー。手酷くやられましたね」
「どの口が言うわけ」
「やっぱ俺のせいですか」
白々しい、とあしらわれ、ついでに手も払われてオビは潔く身を引く。別に謀ったつもりはないのだが。
行き場のなくした手をひらひら振りながら、いや一応悪いとは思ってますよ、とオビは取り繕った。
「ていうかあれがこんなことになるとは思わないじゃないですか。旦那へのちょっとした悪戯心? ダメ押し? みたいな?」
「あんたの悪趣味ぶりには頭が下がる」
「そう言いますけどね、俺けっこう本気だったんですけど」
あんたに。
ひたりと視線を据えて彼女の表情を窺う。負けじと見つめ返してくるのでほんと強情なんだからとオビは笑ってしまった。彼女の眼差しもその強さも、オビの前ではこんなにもぶれないというのに、あの男の前ではいとも簡単に揺らいでしまうのだ。
「ま、しょせん、俺が入る隙なんてなかったんですよね」
「入る気あったわけ」
「ありましたって。あわよくばくらいには思ってましたよ、あーでもちょっと勿体なかったなー」
「何が」
無防備に聞き返す彼女の、整ったかんばせをくいと上向かせる。
「手出しとけばよかったなって」
「慰めてあげたでしょ」
「あんなもんじゃないですよ」
知りたいですか、と挑発するように笑う。木々は揺らがない。
少し、期待がなかったとは言わない。
あわよくばと思っていたのも本当だ。
下手に手を出していたら手放しがたくなっていただろう。柄にもない執着さえ呼び起こす、彼女との危うい関係にはそれほどの中毒性を予感させた。ほどよい無関心と傷の舐め合い。実にいい塩梅だった。
「——まあ、気になるなら教えますけど。今夜あたりどうです?」
「いい加減殴られるんじゃないの」
だれにと問うより早く、オビの頭部に鈍い衝撃が降りかかった。
あいて、と大袈裟な声を上げる。制裁を決めた人物となるとおおよその見当はつくが、振り向こうにも頭にのしかかる文献が邪魔で叶わない。
「あいたたたた痛い痛いですって旦那! ちょっ、ほんとに! 縮む!」
「おまえは本当に、少しは反省の色ってものをな!」
「してますしてます! てゆーかそれより木々嬢さっきの地味にのろけ」
殴るだの殴らないだの、甲斐性なしとたかをくくっていたのは木々のほうである。拳ではないものの現状ほぼ殴られていると言って差し支えない。
なるほど、とオビは文献の下で納得する。甲斐性とやらに関しては彼女も見直さざるを得なかったのだろう。あの首の痕跡がすべてを物語っている。
本当にこのひとらときたら、とオビは呆れた。
結局お互いのことしか見えていないではないか。
目をそらしていたのは木々で、遠くからでいいと見ていたのはミツヒデで、それでは到底視線など合うはずがない。そうして一途に、あるいは不毛に、逃げもせず懲りもせず互いの視線を追い続けていた。その先に自分がいるなどつゆほども思わずに。
(おとなげないったら)
涼しい顔をして余裕の欠片もない。
ミツヒデの態度に神経過敏のきらいすら見せた木々と、木々の言動にらしくないほど感情を摩耗させたミツヒデと。窓を叩く風に振り向いてしまうような、ほんの些細な物音にすら耳をそばだててしまうほど、本当は互いに神経を尖らせていたのだ。
さしずめ自分は窓を叩いた空っ風程度のところであろう。
わかってはいたがなんと馬鹿馬鹿しい。
「だいたいな、木々の体が柔らかいだの何だの、あることないことおまえは」
「やだなー。ほんとのことしか喋ってないですよ。柔らかいのはほんとですし、あとなんか言いましたっけ?」
「おまえな」
ふっと頭が軽くなって視界がひらけた。ようやく解放された、と振り返るなり遠慮のない圧力でミツヒデが迫ってくる。
「……今後もうちょっかい出してくるなよ」
「おお。木々嬢は俺のもんですってか」
「百歩譲って今回はおまえのおかげとして、次はないからな」
「へえ。次こそ殴ります?」
シニカルに笑う。けれどとうに余裕を取り戻したミツヒデに挑発のカードは効かず、彼はまさか、と言ってオビから身を引いた。
「ゼンと白雪に言いつける」
「………………それはちょっと………………」
両手を上げたところでゼンが現れた。
「……なんだおまえら、朝から元気だな」
「おはよう、ゼン」
「ああ、……あー、機嫌直ったのか……?」
「ほら、主もおんなじこと」
「拗ねてたのはあっちでしょ」
「俺か……」
どっちもどっちである。
ゼンはしばらく三人を眺めたのち、あらかた心得たという顔をして深く詮索はしなかった。自ら深入りすべきではないと判断したのだろう。ただしその眼差しだけはすでにミツヒデをいたわる色をしていたが。
ふたりの距離感がすべて元に戻ったことを告げている。
だれが見ても明らかなそれに、ゼンでさえ安堵を通り越して呆れたようだった。
「……まあ、なんでもいいけどな、丸く収まったなら」
「主、俺、キューピッドですよキューピッド」
「おまえも大概にしとけよ……」
事情を知らないはずのゼンにいさめられ、オビはへらへら笑ってはぐらかした。
履き違えているな、とオビは当たりをつける。ミツヒデといいゼンといい、お人好しのふたりはおそらくオビを見誤っている。下手をすると木々だってそうだ。
戯れのつもはなかった。素振りだけのつもりも、気まぐれのつもりも、まして仲を取り持つつもりも。
身を引かずに済んだのなら遠慮などしなかっただろう。あの過激な痕跡はそれこそ自分が残していたかもしれない。不安定の中に見いだす非現実的な陶酔境。曲がった思惑の、それは木々への執着というより歪んだ関係性への執着だ。
かといって、奪うだの奪われるだの、それはそれでぞっとしない。
丸く収まった今、あとはお好きに、と冗談で済ませて身を引いてしまうのが、損か得かオビの性分であった。
「そういえばハルカ侯に届ける文書があったな」
「キューピッドのだれかさんに頼むのはどうだ」
「賛成」
「あーっと、俺、薬室覗いてきまーす」
所詮は未練も後腐れもないかりそめの関係である。
踏み出せぬ現実を後回しにしていられた、その場しのぎの感情。
我ながらひどい神経だ、と笑いながら、適当にゼンから許可をもぎ取って執務室を後にする。出掛けに見たふたりはやけに馴染んで映って、怒られそうだが自分でも可笑しくて、こうでなきゃ、とオビの心うちは晴れやかですらあった。
ひとつ心残りがあるとすれば、やはり手を出し損ねたことは惜しかった。
彼らのように揺らぐ感情もなく、オビはむしろ上機嫌に近い心持ちで、軽やかな足取りで薬室へ向かった。
(2013/05/25)
何のつもりで書いたのかまるきり記憶にないんですが「全員が被害者で全員が加害者な三つ巴」というコンセプトは覚えてます。5話くらいで片付くでしょみたいな雑な感じでした。何考えてんだ?
当時の情報量と力量でこれを書ききった胆力だけは褒めたい。すごいぞ。