からから - 8
喉が渇いていた。
焼けるように渇いて、苦しくて、もがくように水を求めた。つまりはたぶん、そういうことだ。
焼けるような欲望、苦しいのは心の奥のほうで、だから彼女を求めた。
湯を浴びていくらか頭は冴えたものの、あの時の自分の感情も、彼女の感情も、何一つ答えが見つからない。
部屋はひんやりと静かだった。だらしない格好のまま、ミツヒデは彼女のうずくまる寝台へと足を向ける。
木々はシーツを被って背を向けるようにして、ぐったりと寝台に沈んでいた。とんでもないほどの熱にあてられ、結局あのあと、中途半端に纏り付く衣服もいよいよ取り払い、もういちどとなだれ込んだ。
頭の中は妙にすっきりしている。
歪んだ感情も、こじらせた感情も、ぶつけるように吐き出して、毒気が抜けたかのように今は穏やかだった。あんなに息苦しかった感情が今はとても軽い。
ミツヒデは寝台の縁にゆったり腰をかける。
きしりと寝台が小さく軋み、かろうじて引っ掛かっていた木々の衣服が、かすかな音を立てて落ちた。
「木々」
シーツからはみ出した肩はひどく薄い。髪の流れた首筋は白く、けれど彼女が少し身じろげば、すぐに痛々しい痕跡が姿を見せるはずだった。
謝ればいいのだろうか。けれどそれでは何かが終わってしまいそうで。
かたくなに背を向けたままの彼女に手を伸ばすべきかどうか、ミツヒデはこちらも背を向けたまましばらく考えていた。すっきりしている頭はそのくせ考えることを億劫がって使い物にならない。
彼女のこと、自分のこと、これまでのこととこれからのことと、話すべきことはいくらでもあるはずだった。
取っ掛かりはどれだろう。ぼうっとした頭で思案していると、最悪寝ているかと思っていた彼女が、温度のない声で沈黙を破った。
「……オビと」
輪郭のぼやけた声は、おそらくミツヒデと同じ状態を示している。考えるのが億劫で、言葉にするのもまた億劫で。
彼女の緩慢な言葉に、ミツヒデも緩慢に耳を傾ける。
「……オビとは、してない」
静かな告白に、ミツヒデも、そうか、と静かに応じた。
不思議だった。あんなに嫉妬にかられて執着に突き動かされて、だのに彼女の言葉に感動的な安堵もない。
やはり激情を吐き出して、吐き出しすぎたのだ。ミツヒデの薄い反応に、木々もこれといって言及する様子はなかった。
「信じないなら、それでもいいけど」
言い訳はしない。
彼女はそう言っているようだった。
「……いや、信じるよ」
無理なく出てきた言葉も嘘ではなかった。
少し前の、霞んだ記憶を思い返す。近いうちに男に抱かれたにしてはずいぶん体がかたかったこと、何より仮にオビとそういう事実があったとしたら、彼女がミツヒデに応じるはずのなかったこと。
少しでも冷静になればすぐに弾き出せるこたえだった。数時間前の思考は本当に駄目になっていたらしい。
ミツヒデはようやく億劫を取り払い、寝台に手をついて、木々の顔を覗き込む。
「信じるよ」
ゆるく視線を向けた木々は、何か考えるように少し黙して、目を伏せる。
うん、と感慨の薄い声が応じた。溜め込んだものをすべて吐き出すように、彼女がゆっくりと息を吐く。
「——ごめん」
短いことばは揺れてはいなかった。
果たして何を指した謝罪なのか、ここにくるまでの出来事も感情も多すぎて、ミツヒデにはとても汲んでやれない。不毛なのはお互いさまだ、と苦味が滲む。
「木々が謝るのか」
少しわらって、苦笑の形が久しぶりに馴染んだ。思えば長いこと自分らしくない表情ばかり取っていた。
木々はしばらく違うところを見ていたが、やがてゆっくりとミツヒデに視線を戻した。仰向くように身じろいで、白い肌にいびつな執着を残した首元がさらされる。
「……あんたが、あんなに傷付くとは思わなかった」
「……それは」
「こんなに傷付けるとは思わなかった」
木々の声はどこまでも静かだ。
けれど掠れた声に、かすかでも彼女の後悔が滲むようで。
「ごめん、ミツヒデ」
言葉など見つからず、ミツヒデはゆるやかに手を伸ばし、ひどい色合いの首筋にそっと触れた。
しばらくなぞるように、指先で赤い一帯を確かめる。顔をしかめるでもなく、嫌がるでもなく、木々は黙ってそれを受け入れた。
「……痛むか?」
「少しね」
「——悪かった」
糸のほどけた言葉をようやく口にする。
木々の瞳はひたと凪いだままだ。真正面から、ようやく嚙み合った双眸で、ミツヒデの言葉を静かに受け止める。
「悪かった」
「……うん」
白い手がミツヒデの手に触れた。
後悔に満ちた手を静かに包み込む。
「これくらい、すぐに消える」
「……それだけか?」
まさか傷のことだけを言っているわけではない。
拍子抜けしたミツヒデに木々が目許をやわらげた。こんな状況ではあるのに、彼女の穏やかな表情が目に優しい。
「いくらでも笑い話にするよ。あのミツヒデに襲われたって」
「あのな……」
一転して落胆するミツヒデに、木々はやはり穏やかにわらっていた。
彼女のその表情に、なにか途方もない安堵に見舞われて、ミツヒデは知らず声を詰まらせた。いっときは諦めた彼女との距離を思い、後ろめたさ以上の感情がじわりと心に染み込む。
顔を寄せた。
ゆるく目を伏せた彼女の唇をとらえ、触れるだけのくちづけを交わす。
やわらかい。だけど少しつめたい。
手に負えぬ激情も嫉妬もなく、ようやく、彼女の感触を素直に味わうことのできるキスだった。抱く感情もそれに付随する行為も、何もかもがめちゃくちゃで、めちゃくちゃなまま終わってしまうものと思っていたのに。
唇を離すと木々が静かに息をついた。
力の抜けきったような、安堵の吐息が唇を掠める。
「……あんたとの関係も、もう、駄目になったと思ってた」
囁く声が心臓を締め付けた。
掠れた声に滲み出る、不安と安堵とが、そのままの形でミツヒデに返ってくる。
「……俺だってそうだ」
「……うん、おかげで懲りた。意地張ってごめん」
「今後は勘弁してくれよ……」
「しないよ。あんたがいるならもういい」
ごめん、と今いちど繰り返す彼女の、心許ない目元に唇を寄せた。
触れる唇に木々が瞼を閉じる。その眦から滲むわずかな水気を拭うように口付けて、ミツヒデは優しく彼女の名を囁いた。気がゆるんだだけと言って、木々はミツヒデの優しさをやんわり拒絶する。
「木々……」
「……平気。もう充分。ありがとう」
「……いいぞ、もう寝てて」
「うん……」
せめてそれが彼女にとって優しいものであるよう、ミツヒデは静かに木々の唇を掠めとった。
おやすみ、と耳元にささやく。ゆるゆる目を閉じた木々は、思っていたよりもあっけなく眠りに落ちた。
しばらく、ミツヒデはそのまま動かずにいた。
穏やかとは言いがたい、どちらかというと消耗しきった色の強い木々の寝顔を眺める。ほつれた髪を飽くことなくくしけずりながら、深い夜、ミツヒデのほうは到底眠気など訪れそうになかった。
(2013/05/19)