からから - 7
 この男のキスは優しそうだ、なんて、たしかオビが言っていた台詞だ。そうして荒い口付けを交わした、思えばあれが発端だったのだ。  でたらめだ、と木々は胸中で毒づく。  いつか口付けに応じた自分も、オビの言葉も、この男の荒々しさも、何もかもでたらめだ。 「——っ、やめ」  一方的な口付けがあっけなく木々から抵抗の力を奪う。  強く掴まれた手首がじくじくと痛んだ。きっと赤くなっている。あのミツヒデが、あの温厚でやさしいはずの男が、今はそんな配慮すら忘れている。  彼からはとても考えられぬ、あまりに苛烈な欲望と束縛に、身体よりも心臓が痛むようだった。深く突き刺さるかのような情欲。けれどそれがまっすぐ、他ならぬ自分に向けられている。  とても受け止め切れない。息が詰まりそうだ。到底太刀打ちなどできぬ男の欲に、気を抜けばあっという間に呑まれてしまう。  けれど、どうして、身体中が疼いてやまない。  身体中が熱かった。脳髄まで熱い。息苦しくてたまらない。 「は……ッ、ぁ」  掠れた吐息が自分のものという現実味さえ薄かった。  力ずくで抑えつけられ、あろうことか触れる熱にまで捕らわれ、すでにまともな思考が働かない。  抵抗の意味さえ見いだせなくなりそうだった。  衣服を捲りあげて彼の掌が肌を這う。  さらされた皮膚のあちこちに彼の唇が触れる。  触れたところからいちいち熱がともってたまらなかった。  肩に添えた手が果たして、彼を押し返したいのか、彼に縋りつきたいのか、木々はすでに自分でもわからずにいる。 「い……っ」  何度目かわからぬ、オビの残した痕にミツヒデが噛みついた。吸われて歯を立てられて、すでに手首より赤くなっているのではと木々は気が重い。  それでも執拗に痕跡を残す、あるいは消そうとしているのか、ミツヒデの行為は少し痛ましくもあった。  オビの忠告を思い返す。  根深い執着。  心臓までぎりぎりと食い込むような執着が。 「——ミツヒデ」  うかされた声が勝手に彼を求めた。  自分でもおそろしいほどに、ゆっくりと思考が溶けていく。 「ミツヒデ」  かちりと奥歯が鳴った。  声が震えていることをぼんやり自覚して、肩に添えていた手を、そろりと首に回す。力なんてすっかり抜けていた。  ぼやけた視界にミツヒデが映り込む。  傷つけることに、彼のほうまで傷ついているかのような、自分よりよっぽとひどい顔をしていた。  ずるい男だ、と木々の思考が役割を放棄する。  どうしてそんなに泣きそうな顔を。 「木々」  切なげな声が木々を呼び、それすら熱となって木々を捕らえる。  なんだかどうでもよくなってしまった。  この男に手が届かなくて意地を張って、手なんて伸ばしていない振りをしていたのに、意地も何もかなぐり捨ててこの男は不格好に木々を掴んで離さない。  まるで木々を傷つけるかのような行為に、木々は初めて、自分がこの男を傷つけたらしい事実を知った。 「っ、あ」  熱の押し入ってくる感覚にからだが縮こまる。  骨張った指が木々の頬を捕らえ、なだめるように唇を塞いだ。なだめるにはいささか荒いキス。けれど触れるだけの、まるで互いの熱を確かめ合うような口づけ。 「——……ッ」  からだの奥が悲鳴を上げる。  たまらず瞼をきつく閉じた。掠める吐息にすら体が反応して、情けない声を上げてしまいそうになる。  彼の激情に、おののく心と、疼く女の部分がせめぎあって、途方に暮れて気づいたら雁字搦めで。  逃げたい。  逃げたくない。  冷静沈着と謡われる自分が、今や、本能すらまともに働かない。  どうしようもないほどただの女だった。 「木々……」  呼ばう声に囚われる。  応じる声はとうに言葉を見失って。  浮いた足を腰にからませた。  もうどうでもよかった。  熱に浮かされ、苦痛と快楽に思考を持っていかれ、余計な雑念も意地だらけの感情もどこかへ流れてしまって。  この男を傷つけたこと、この男をこんなにも渇望していた自分のこと、何より、そんなに傷付かなくてもいいのだと、まっとうに手を回す資格すらない自分に、自業自得とただ自嘲うほかなかった。 ***  苦しげな吐息が空気を震わせ、時折漏れる声が、ミツヒデの脳髄まで震わせる。  唇で、指先で辿る肌は、たしかに熱くてやわらかい。くわえてひどく甘やかだった。どうにもならぬ陶酔境とどうにもならぬ独占欲と、どうにもならぬ罪悪感とが相まってなにか現実味が薄い。白い肌も濡れた瞳も、声も吐息もうつつである気がしなかった。 「っ、あ、……ッ!」  けれど、ぐずりと彼女の中で擦れる互いの熱が、もう後に引けぬ現実を突き付ける。  一方的に求めて、踏みにじって、何がどう変わるのかもわからない。そこまで頭が追い付かない。そこまで考えようともしていない。  彼女の甘い反応を求めてそれにまた嫉妬して、浅ましい執着が体を突き動かす。  自分にここまでの感情があるとは驚きだった。  彼女のことも、彼女との関係もずっと大事にしてきて、それなのに、何もかも壊そうとしているのはどうしてだろう。  大事にしてきた。大事にしたかった。それなのにどうして傷付けているのだろう。 「木々」  うわごとのように彼女の名を呼ぶ。  何が悲しいのかも、何に傷ついているのかもよくわからなかった。最低なことをしているのは自分のほうなのに、どういうわけか手酷く裏切られたような痛みが消えない。  行き場のない感情が暴れる。  痛いと暴れて彼女を傷付ける。  悲しいと暴れて自分を傷付ける。  泣きそうだという自覚はあった。  まるで自分のものとは思えぬ息を吐きながら、オビにだってそうしたのならと、歪んだ思考が心臓を押しつぶす。  苦痛に歪むきれいな瞳がかなしかった。もう二度と元通りになどなれなくて、それなのに甘美に浸る気持ちすらあって、ごった返す感情に何かが埋もれていく。 「木々……」  こんなことをしたかったわけではないのに。  こんな風に触れたかったわけではなかった。  どうすることが正しかったのだろう。  彼女の細い足が力なくからみつく。  ミツヒデは荒い息のまま、朦朧とする木々の顔を覗き込んだ。思えば寝台にもつれこんでから、まともに瞳を合わせたのは初めてかもしれない。  深い瞳はすでに溶けていた。日頃の強さをなくした、とろりと甘い瞳がぼんやりミツヒデを捉える。  木々が緩慢に身じろぐ。顔を寄せられ、薄く開いた唇が言葉もなく重なった。  触れるだけの短いくちづけ。  息苦しさに負けてすぐに顔を離した木々が、けれどもう一度とせがむようにくちづける。  ぎゅうと胸が締め付けられるようだった。  切なさにも似た感情が心を締め付ける。  からみつく足も、せがむ唇も、まるで彼女が自分をもとめていると錯覚してしまいそうだった。本当はただ傷付けて傷付けられているだけだというのに。  ミツヒデはかろうじて、木々、と喉の奥から彼女の名を絞り出す。 「木々」 「ッ、ぁ……!」 「木々……」  朦朧とした意識のもと、彼女が何を思っているのかなど知りようもない。  ミツヒデのひとりよがりな執着に応じて。熱にうかされてミツヒデを求めて。  なのにその瞳はどこか諦観を感じさせる。  彼女のこころは一体どこにあるのだろう。  木々の喉が軽く仰け反る。オビのつけたという痕などとうに目立たない。存在を主張するのは、己のつけた痛々しい歯形と鬱血だけだ。  指先でなぞる。抉い見た目に反して、指の腹はしっとりと肌の感触をとらえる。  たまらずもう一度と唇を寄せた。  とめどない欲望のかたわら、どうして、どうすればと心はずっと嘆いていたのに、けれどそれも、彼女のほうから熱を求められたあたりでどこかに消えた。  己の腕の中で女を曝け出す木々に、歪んでいるとわかっていながら安堵する。苦しげな反応に、後ろめたさを覚えながらももっとと求めて。  どれが理性でどれが本能だろう。  ミツヒデの思考がゆるやかに融けていく。 「——なあ、木々」  掠める吐息に静かに囁く。  応じる声はもう求めてはいなかった。  こたえを望むでもなく、独言のように、凪いだ感情が問いかける。  俺をうらむか、と、笑いながら。  彼女のうっすら朱い目許が歪んだ。  そろりと頭を引き寄せられて、何も告げぬまま木々が唇を寄せる。慰めるわけでも否定するわけでもない、どこか消極的なキスを、ずるいとわかっていながらミツヒデも甘受する。  どうして彼女のほうが泣きそうな顔を。  散々に踏みにじって今またこうして傷付けて、罪悪感もそろそろ麻痺してきた。彼女を求めて、気付けば彼女も自分を求めて、なんだかもうどうでもいい。  歪んだまま雁字搦めにして、そうすれば元に戻れずとも、彼女を繋ぎ止めておけるだろうか。  往生際の悪い執着を他人事のように嘲笑って、ミツヒデは食らいつくように唇を押し付けた。
(2013/05/17)

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