からから - 6
オビが酒を片手に木々の部屋を訪ねてきたのは、夜の九時を回った頃だった。
そのとき木々は気休め程度に書類に目を通していた。ゆるく寝台に腰をかけ、サイドテーブルのグラスに手を伸ばしながら、ふと書類に心当たりのない資料が紛れていることに気付く。ミツヒデかな、と当たりをつけたところでノックが聞こえた。
彼が資料を取りにきたのかもしれない。
顔を合わせるとなると気が重く、木々は立ち上がるまでに数拍置いた。いつかの当て付けの一件以来まともに目を合わせていない。
なんだか嫌な感情ばかりだ。
事態が一向に好転しない。
そもそも感情のコントロールが利かぬという時点で自分らしくない。いつかオビに疲れないかと訊かれたが、不機嫌に疲れるというより、不機嫌を取り繕えもしないでいる自分に疲れていた。いったい何がしたいのだろう、とここ最近の自分がまったくわからずにいる。わかるのはただ苛立ちが収まらないことだけだ。それだってよっぽど自分らしくない。
木々は溜息をつく。考えていても埒が明かない。来訪者がミツヒデでないことを祈りつつ、木々はようやく寝台から立ち上がった。
そうしてドアを開ければオビが立っており、それはそれで木々をうんざりさせた。
「……まあ、そういう顔するだろうとは思ってましたけどね」
露骨に嫌な顔をしたがオビははむしろ慣れた様子で、いわく、酒盛りに誘ったがゼンには断られ、酒が勿体なくてふらついていたとのことである。
追い返したところで彼が食い下がるであろうことは明白だった。何より気の晴れない最近を思うとアルコールがいやに魅力的に思える。
木々は結局オビを部屋に通してやった。
たかをくくっていたよりも上質らしい酒は、どうやらというか案の定というか、賭けの戦利品らしかった。
「言っておくけど、私、あんまり飲めないからね」
「わかってますって。てきとーにペース合わせますよ」
おどけるようにグラスを掲げたオビが、早くも一口ぐいっといく。
木々はそれを眺めてから酒を口にした。少し辛いが、舌先に不快な苦味も残らず、思っていたよりもいけそうだ。美味しい。
「でも意外ですねえ、追い返されると思ってました」
「暇だったし」
むしろこの男が木々を当てにしたことのほうがよっぽど意外である。
「あんたこそもっと飲める相手選んだ方が良かったんじゃないの」
「えー、訊きますか、そういうの」
「ミツヒデとか」
「木々嬢、まだご機嫌ナナメです?」
引き気味に笑ったオビが、かといって機嫌を取る素振りもなく、誘ってきましょうか、と向かいのソファから木々をおちょくる。
機嫌どころか気分も居心地も最低だ。そうでなければ誰がこんな時間に酒の相手などするものか。
木々はろくな返答をせず、酒とは違った苦味を舌先に転がした。
「まともな顔で誘いにいけるならどうぞ」
「俺は問題ないですけどね、そんなことしに行ったらふつうに殴られそう」
「何それ」
物騒な台詞とは裏腹にまるきり深刻味のない口調である。
ソファにもたれかかったオビが、いやあと薄っぺらく笑って肩を竦めた。白々しい。
「ほんとに。俺、そのうち旦那に殴られるんじゃないかって」
「ミツヒデに? そんな甲斐性ないでしょ」
あの温厚な男が。人なんて殴れるだろうか。
そもそも彼がそれほどの激情を見せることが滅多にない。主人が絡んだ際に時折片鱗を見せる程度で、それ以外は大抵が冷静な種類のものだった。静かに怒る。静かに嘆く。それですら珍しい。
あの人当たりのいい振る舞いも嘘ではなかろう。
だが、その振る舞いの下に激情を隠してしまえる性分を思うと、本音の見えぬ厄介な人物とも言える。
「……わかってませんねえ、木々嬢」
ことんとグラスの置かれた音ではっとする。
何かを含ませたような声が琴線に触れ、木々は警戒しながら視線を上げた。手中のグラスをこちらもテーブルに置く。その腕をすかさず引かれた。
前にバランスを崩して、木々は咄嗟に片手をテーブルにつく。
グラスが、と中の酒にを気を取られた一瞬の隙をついて、触れるでもなくオビの顔が迫った。
「——何」
「旦那の執着はたぶん根深いですよ。あの人自身も気付いてないくらい」
「……それを私に話して、あんたはどうしてほしいわけ」
「いやあ。どうっていうか、最後の防衛線みたいな」
「へえ。誰の」
「俺の」
温度のない笑みを張り付けたまま、木々を見据えた瞳があやしく煌めく。
負けじと睨み返した。強情なんだから、と笑うオビがいつかの接触を彷彿とさせる。あの時木々が応じさえしなければ、おそらくこんなひどいこじれ方はしなかった。
顔を寄せたオビが、耳の下を掠めて首筋に噛みついた。
ちり、と吸われた皮膚が痛みを訴える。触れる擽ったさに肩が震えた。
おそらく痕が残っただろう。逆を言えば、悪意か良心かはともかく、オビは痕を残しただけだ。
噛みつくだけ噛みついてあっさり離れた口が、立てた歯をちらつかせながら屈託なくわらう。
「なんか、本気になっちゃいそうで」
「——勘弁して」
ぞっとしない。
片手でオビの顔を押し返し、ついでにそのまま身を引かせる。
あっけなく引き下がったオビが一世一代の告白をとうぞぶいた。気のない一世一代もあったものである。
「ほんと、ガード固いんだか無防備なんだか」
彼の独り言に被さるようにしてノックが聞こえた。
今度はだれだ。さっさと寝てしまえばよかった、と心底うんざりしながら、木々は億劫な足取りでドアに向かう。
***
扉から顔を覗かせた木々と、そういえば久々にまともに目を合わせた気がして、ミツヒデは思わず緊張してしまった。
咄嗟に言葉が出てこない。というか、少々、気まずい。
木々は日頃と違った楽な格好をしている。下ろされた髪も合わせて、どうやら寝る間際だったらしい。それか一人でゆっくりしていたか、いずれにせよ良いタイミングではなかったな、とミツヒデは反省する。
明日は休みである。
目を通しておこうとクリップでまとめていた資料を、どうやら木々に渡した書類にまぎれさせてしまったらしい。オビと木々とに気を取られ、気もそぞろな状態で仕事に取り掛かり、結果この体たらくである。ミツヒデはいい加減自分自身に辟易していた。
「すまんな、こんな時間に」
「いいよ、別に。来ると思ってたし」
資料まざってた、と告げる木々が扉を開けた体勢のまま何かを待っている。立ち尽くしていると目を眇められて、どうやら彼女の機嫌も相変わらず悪いようだった。
「入らないの」
「え、いや」
どちらの否定形なのか自分でもわからぬまま、思わずといった体で結局部屋に通してもらった。
所在なく木々の後を歩きながら、何とはなしにその背を眺める。服装のせいか日頃より体つきが華奢に見えて、ミツヒデは知らず動揺していた。不意打ちにさらされた木々の女の部分が、なんというか、危うい。ただでさえ穏やかでない心理状態のミツヒデに、目下の状況は少し酷とも言えた。
というかこんな時間帯に男を部屋に上げるというのもどうだ。
無防備すぎやしないかと苦味を含む一方、相手が自分だからという可能性もおおいに有り得て余計に苦々しくなった。信用してくれているのは結構だが、少しくらい警戒してくれても、とミツヒデは複雑である。
だがそんな葛藤も次の瞬間には吹き飛んでしまった。
とんでもない地雷が先客としてくつろいでいる。
「あれえ、旦那」
ミツヒデは固まった。当然のようにくつろぐオビを前に、あちこちに燻っていた感情が一斉にせりあがってくる。まとまりのない感情は到底穏やかとはいえず、ミツヒデは力ずくでその感情を押し込まなければならなかった。
「どうかしたんですか、こんな時間に」
「——いや、おまえこそ何してる……」
「えー」
別に何も、とのらくら笑うオビに、前方の木々が露骨に迷惑そうな顔をする。
「勝手に来て居座ってるだけ」
「だけ、って」
柄にもなく言葉がつっかえた。
いつかの苛立ちがふつりと蘇る。心臓の奥のほうが不愉快にざらついて、上手く表情を取り繕えているのか自信がない。
居座っている云々はどうでもいいのだ。問題は、こんな時間に、こんな状態の木々が、オビを部屋に上げているという事実である。
「あー、もしかして仕事の話です? 邪魔なら退散しますけど」
白々しい口調で、挑発するような双眸が、まっすぐにミツヒデを射抜く。
勢いをつけてソファから立ち上がるオビを、違うけれど引き止める気にもなれず、ミツヒデは口を引き結んでやり過ごした。沈黙するミツヒデをすれ違いざまにちらと見たオビが、口許を歪ませて笑う。
ああ。殴ってやりたい。
「じゃ、お邪魔しました、木々嬢」
たっぷり何かを含ませた口調でいとまを告げ、オビはふらりとその場をあとにする。少し置いてドアの開け閉てが静かに聞こえた。
木々がようやくとばかりに息をつく。彼女はミツヒデの不穏な気配にも頓着せず、さっさと踵を返してしまった。
「……飲んでたのか?」
「少しね」
寝室へ向かう彼女の後を歩きながら、テーブルに広げられたボトルとグラスに視線をやる。
ラベルは読めないが良い酒のようだ。彼女はそんなに酒は強くないはずだったが、と野暮なことを考えて、勝手に妬心が疼く。酔ってそのあとどうするつもりだったのだろう。
寝台の傍らのサイドテーブルに書類が鎮座していた。
指先で目的の資料を探す彼女の、いつもは服に隠れる白いうなじが目に入ってやけに心臓がざわついた。じりじりと、ひとつの感情が焦げついていく。
こんな姿さえオビの目に触れさせたという事実が堪えがたかった。無防備な背中も、白い肌も、ミツヒデでさえ知らぬ彼女の顔も、けれど既にあの男は。
ふと、耳の下、首筋に浮く歪な一点が目についた。
赤い痕跡。
「——木々、これ」
何か思うより先に手が伸びていた。
生々しい情痕に指先を添える。突然触れられた木々が、ぴくりと肩を揺らした。
「どうした?」
「……さっき、オビがつけた」
「へえ……」
木々は振り向かない。
不躾な問いかけに不愉快を露にするでもなく、温度のない声で、目立つかな、と訊く。
ミツヒデは応じなかった。
応じるより先に、頭をかがめて、噛みついていた。
「っ、い」
木々のからだを後ろから押さえ込む。
甘く食んだ皮膚を吸い上げると、木々がおののくように身を強張らせた。場違いに甘い香りが鼻孔を掠める。思考が霞む。
ああだめだ、とミツヒデはぼうやり悟る。
息をつめる気配。息を呑む音。
押さえ込んだからだの柔らかいこと。
知り得ぬ彼女のおんなの部分が、甘い。苦い。
どうにもならぬ劣情に、何かがちぎれた。
気付いたら乱暴にくちびるを塞いでいた。
ばさりと書類が床に落ちる。それをやけに遠くに聞きながら、瞠目する深い瞳をこちらは視界から追い出し、齧り付くように接触を深める。
薄い唇はオビが証言したとおりたしかに柔らかい。
それが一層ミツヒデの苛立ちを煽ってやまない。
「——んぅ……ッ」
押し込んだ舌から唾液が伝って彼女の唇を濡らす。
ぬめる感触すら甘みと同時にひどい嫉妬を生んでどうしようもなかった。きっととうにどこかの感情がおかしくなっているのだ。
押し返そうと力む細い腕にさえ配慮を忘れた。
荒々しい衝動のまま、彼女の華奢な体もろとも寝台にもつれこむ。
「——っ、ミツ」
「木々」
「何す……っ、やめて!」
あらがう手首を乱暴に捕らえ、細いからだを力任せに押さえつけ、逃げ道も抵抗も奪い取って再び唇を押し付けた。
いつだって強い光をなくさぬ双眸が、今は怯えた色を隠せずにいる。彼女もこんな顔をするのか、と冷めたことを思うかたわら、これを自分でない男が知っていると考えるだけで気がおかしくなりそうだった。
途方もない嫉妬に脳が麻痺する。
彼女の心も、彼女とのこれまでも、いっそすべて踏み躙ってしまえたらと、泣き出しそうな心が独りよがりに木々を求めた。
(2013/05/12)