からから - 5
息苦しい。
胸焼けのような不快感が拭えず、ミツヒデはデスクに向かいながら到底仕事になりそうになかった。
ここ最近の木々の棘々しい不機嫌についてはさすがに気づいている。不機嫌の前後に彼女との気まずいやりとりも存在するわけで、もしや原因は自分なのでは、という悲しい心当たりすら抱えている。
そしてつい数分前、悲しい予感はとうとう確信へと変わった。
凪いだ眼差しがまっすぐミツヒデを捉えた当て付けのキス。オビの挑発。一体どんな機嫌の損ね方をしたらああなるんだ、とミツヒデは頭が痛い。
何がどこでどうこじれたのだろう。
さすがに原因のすべてをオビに押し付けるほど落ちぶれてはいない。
「……で、なんでおまえまで不機嫌なんだよ、ミツヒデ」
なかばとばっちりを食った体のゼンが、尚もとばっちりを食ったままうんざりとミツヒデに問う。なんでと言われても。こっちが知りたい。
先の光景が気付けば頭にちらついて、そのたび抱くのは苛立ちで、おまけにその感情をうまく処理できない。果たして自業自得か。あるいはひとつの事故か。事態はどうにも複雑で、持て余した苛立ちをどこに向ければいいのか皆目見当がつかない。
「どうせおまえが木々の機嫌を損ねたんだろうがな」
だろうな、とミツヒデは書類を捲る。同感だが確固たる要因がわからないことがいちばんの問題である。
「それにしたってあんなことするか、あの木々が」
「……」
「何やったんだ、一体」
こちらが聞きたい。
主人の言葉は逐一的を射ていて、ミツヒデは他人事のように彼女の言動に思いを馳せる。私的な感情を滅多に見せぬ木々が、苛立ちという殊に過激な感情を表出させた。一体どんな経緯があったらこんなことになるのだろう。
木々の感情。オビとの関係。自分への苛立ち。
ミツヒデの預かり知らぬところでいろんなものが錯綜する。
「……ゼン、木々とオビのこと、聞いてたか」
「ん? いや、さっきの今だな」
「本気だと思うか?」
「……おまえ……」
主人はうんざりを通り越して呆れている。
ミツヒデは尚も書類と向き合ったまま、そういえばいつかの彼女もこうして書棚を向いたままだったな、と思い返す。その時の木々が、いや今もそうだが、何を思っているのかは到底知りようもないが、案外似た感情なのかもしれない。
「それはおまえの願望だろう、ミツヒデ」
「え」
主人が思いがけぬ指摘を成して、ミツヒデは呆気なく顔を上げた。
「二人が本気じゃなければいいと思ってるんだろ。いや、二人がというか、木々か」
「……いや、それは」
思っているも何も、自分はたしか、彼女にその気持ちがあることを聞いて安心したはずだった。安心したくてわざわざ傷を抉るような話題を自ら切り出したのだ。彼女の気持ちさえ踏みにじられることがなければそれでいいと、無理やり自分に言い聞かせるように。
だって、本当は、誰よりも自分に心を預けてほしかった。
彼女の隣に立っているのは自分だけでありたかった。
木々がかたくなに護ってきた女としての一面を、できれば誰の目にもさらさずに、自分だけが大事にしてやれたらと。
すこし、自惚れもあったかもしれない。それほど彼女とはたくさんの時間を共有してきた。
自分の性分はよくわかっているつもりだ。欲しい物が手に入らぬと駄々を捏ねる子供には到底なれない。木々とのやりとりがどんな結果になろうと、潔く飲み込んで消化するつもりだった。
つもりだったのだが。
「……ゼン、俺、思ったより子供かもしれん」
「今さらか」
消化不良も甚だしい。咀嚼すらできていないではないか。
ゼンはコツコツとペンでデスクを叩きながら呆れている。
「あれ見て不機嫌になってる時点で気付け」
「いや、それも今気付いたわけで」
「どうでもいいわ。で、どうするんだ」
「え?」
会話の主導権は今や完全にゼンが握っていた。成長も恋路も見守ってきた主人に、まさかこの方面で説教されるとは、とミツヒデは感慨深い。
「え、じゃないだろ。いいのかあれ、あのままで」
「いいも何も……」
今さらどうしようもない。
デスクを叩く音が止み、流れた沈黙に互いの感情だけがにじむ。ミツヒデの諦観。ゼンの難色。どうにも進退のない空間に、やがてゼンの盛大な溜息が響いた。
「だったら、なんでそんな顔してるんだよ、おまえ」
主人の言葉に、だけどたしかに、とミツヒデは静かに考える。
苛立っている。傷付くでも落ち込むでもなく、あの光景を思い返すたび、感情を蝕むのはひどい不快感だ。誰にぶつければいいのかもわからぬ不快感が。
ぶつけるつもりなのか。
ミツヒデは気が滅入ってきた。
「……ぶちまけていいか」
「好きにしろ」
ゼンはペンを転がしてどっかりと背もたれに身を預ける。会話を放り投げるようなほどよい無関心がありがたかった。
「気を抜くと殴りそうだ」
尚も口元に笑みを浮かべたまま。案の定捗らなかったデスクワークの残骸を眺めながら、先の感覚を思い出す。引き結んだ唇。握り込んだ拳。そうでもしないと内側の身勝手な感情が暴走してしまいそうで。
「……それは、願望か?」
「それもあるかもな。一発殴りたい」
ゼンが不自然に押し黙る。殴りたい、と笑って言える自分が不思議だった。理性とそぐわぬ本音たち。殴りたい。面白くない。気にくわない。
ひどく勝手な感情だ。思い返すたびに煮えたぎるような嫉妬が走る。そうしてそれを俯瞰する自分もいる。血の上った思考と投げやりな思考とが交錯して、笑っている表情が果たして正解なのかもわからない。
奇妙な気分だった。
冷静になりたいのか荒れてしまいたいのか。
「……自覚があるかどうかは知らんが」
ゼンが慎重に言葉を探す。
それもどこか遠いところから聞こえるようだった。なにか現実味がない。
「おまえの中にある感情としては、ずいぶんいびつだぞ」
「……そうかもな」
責める素振りも、忠告するような素振りもなく、まるで何かを探るような言い方だった。
ミツヒデは静かに応じて、とんと書類を整える。話は終わりとばかりに会話を切り上げて、その様子を察したゼンもこれ以上詮索してくる様子はない。
けれどとうにそれだけの自覚はあった。
ゆっくりと歪み始めている。
何かが食い込むように、何かを握りつぶすように、形なんてすでに変わってしまっていた。彼女との関係も、彼女へ向かう気持ちも、どう足掻いてもこれまで通りにはいかないのだ。
それに対する感情はやはり凪いでいる。まるで嵐の前のようだ、とミツヒデは他人事のように思って、その空々しさに静かに自嘲を滲ませた。
(2013/05/11)