からから - 4
 ここ数日の木々は最高潮に機嫌が悪い。  やりすぎたかな、とオビはひそかに反省していた。おそらく直接的な原因は自分ではないが、というかそう思いたいが、いずれにせよ直接せっついたミツヒデが何らかの形で彼女の機嫌を損ねたのであれば元凶も同じである。どうやらこの件に関して彼はとことん残念な性質をしているようだった。  日頃感情など表に出ない木々が明らかにピリついている。ここまで不機嫌を煽れた彼の言動はある種の快挙と言えた。 「……木々嬢ー」 「何」  黙々とデスクワークに勤しむ背中に声をかける。  最近では完全に腫れ物に触るようなミツヒデやゼンとは違って、我ながら完璧な発声に成功した。完璧に普段どおり。彼らにもぜひ見習ってもらいたいものだ、とオビは自画自賛する。 「このところずっと不機嫌ですけど」 「……」 「疲れません?」  かり、とペンの走る音が止んだ。  オビは立ち上がって、鋭い眼光に牽制されぬうちに彼女との距離を詰める。こちらの動きに気付かぬはずもない、けれど木々はあくまで無反応を貫く。 「木々嬢?」  デスクにとんと片手をつく。  ここでようやく木々が振り向いた。じろりと向けられた視線はひんやり冷たく、身構えていたオビでさえ笑みを引き攣らせるほどの圧を孕んでいた。まずい。 「怒ってます?」 「……別に」  その間はなんだ。  へえ、と苦笑いするオビを一瞥して、木々は再び顔を背けてしまう。ふたつの問いかけについてはまともな返答すら寄越さない。  オビはこっそり息をついた。疲れるか疲れないかで言えば当然疲れるだろうが、気疲れの様子などおくびにも出さぬ彼女もそれなりに難儀な性格といえる。 「旦那と何かありました?」 「あんたが変に絡んだんでしょ、ミツヒデに」 「おっと、言い掛かり」  くるりと体の向きを変えてデスクにもたれ掛かる。視界をちらつく頭は微動だにせず、彼女は着々とデスクワークを片付けてゆく。 「別にそんな。ちょっとばかり助言をしたまでですよ」 「助言?」 「旦那の優しさはいずれ仇になりますよと」 「それ駄目出しじゃないの」  言えている。  彼女の言い方に笑いながら、そうかそれにしてもとオビは天井を仰いだ。 「旦那、ほんとにわかってないんですねえ」 「別に、昔からあんなだし、期待もしてないからいいけど」 「けど?」 「あんたは何がしたいわけ」  至極まっとうな指摘である。  彼女の場合、苛立ちが表に出るとまず声にあらわれるようだった。いつも以上に感情に色がない、 無色かつ平坦な声である。取っ掛かりがない分ふざける気にもなれない。  ちらと横目に表情を窺う。気付いた木々に横目で睨み返されて、オビはへらりと笑った。 「怒ってます?」 「別に」  感情のこもらぬ声である。  おおこわ、とオビは両手を上げた。 「何ってわけじゃないですけど。ただちょっとなんか、ああいう旦那見てるともどかしくて」 「それで引っ掻き回してるわけ? あんたもずいぶんな趣味してるね」 「その言い方もずいぶんですけどね」  手を動かしているわりによく舌が回るものだ。感心する一方でオビはやはりじれったくもあった。たったひとつの苛立ちが口数の少ない彼女を饒舌にさえする、それほどの揺らぎとその意味について、彼も彼女もどうして気付かない。 「……難儀というか」 「何?」 「いえ、独り言」  別に二人の間を取り持つつもりもないのだ。 「あれですよ。木々嬢とこう、爛れた関係? になったわけですし、どうせだからスリルをですね」 「巻き込まないでくれる」 「え? でも木々嬢だって、旦那のそういうとこが気にくわないわけでしょ、実際」  故意に突っかかると彼女はまんまと不快感を露にした。  ひんやりと凍てつくような目で睨まれ、オビもそれを真っ向から見つめ返す。自身の目元にはうっすら笑みが滲んでいて、我ながらひどい顔だ、と彼女の瞳を覗きこんだ。 「慰めてあげましょーか」  途端に彼女が切れた。  木々はペンを置くなりオビの胸ぐらをぐいと掴んで引く。え、と思う間もなく仰のいだ彼女と唇が触れ、至近距離で互いの視線が交差した。  思いがけない接触である。  荒々しいキスはどうやら彼女なりの八つ当たりらしかった。色気も雰囲気もありやしないくちづけに、けれど先ほど自分の口にした、スリルとやらが心臓を震わせてどうしようもない。ざわりと奥底の欲望が疼きだす。  身を屈めるようにしてさらに唇を押し付ける。  木々は逃げるどころか自ら唇を擦り合わせてくる。  たかだか拗れたキスひとつがこんなにも毒々しい。  青臭い歳でもないというのに頭がくらついた。 「——ちょ、木々嬢、タンマタンマ」 「何……」  思考ごと持っていかれるすんでのところで唇を離した。吐息まじりの声は相変わらず不機嫌そうで、そのくせたしかな熱を持っていて色めかしい。はまりそうな危うさについ、だなんて、口にしたら間違いなく視線で凍て殺される。オビは往生際悪く顔を寄せたまま、何と答えたものか本気で思案した。  その時、カツンと室内に足音が響いた。  揃って物音の方向へ視線を向ける。執務室の入り口、ゼンとミツヒデが仲良く固まっていた。  見つかった、と咄嗟に身を引きかけ、けれどその前に彼女の纏う空気が一息に冷えた。あれと気を取られたオビの隙をついて、結局先に動いたのは木々のほうである。 「木——」  くちを塞がれる。  一瞬で解放されたオビは当然目を閉じる暇もなかった。  考えるまでもなく彼への当て付けであろう。当て付けるだけ当て付けて木々はさっさと書類に向き直ってしまって、何事もなかったかのようにペンを手にしている。掠めた熱をぼんやり思い返しかけて、あまりの不毛さに馬鹿馬鹿しくなってやめた。オビは今度こそやれやれと身を引く。  近い距離の双眸はオビではなくミツヒデを捉えていた。  ちらと見やればミツヒデだって呆けたまま木々を見ている。  とんだ茶番だ。  彼も、彼女も、自分も、なんて馬鹿馬鹿しい。 「……ここで盛るな、ここで」 「ははは、すいません」  傍らの側近より一足先に硬直から抜けたゼンが、軽い口ぶりで釘を刺して自身のデスクに向かった。  オビは今いちどミツヒデに視線を向ける。  彼は立ち尽くしたまま口を引き結び、まるで何かを抑え込むように固まっていた。何か、など考えるまでもない。オビからすればいたって簡単でいたって簡潔な感情だ。けれどミツヒデは、その簡単で簡潔な感情を持て余し、柄にもなく表情を取り繕えずにいる。 「主、俺、薬室覗いてきていいですか」 「おー」  えらくぞんざいな許可をもらい、オビはじゃあまたと執務室を後にした。  何食わぬ顔でミツヒデの脇を抜ける。彼の拳が必要以上に握り込まれていることが、やはり、どうにももどかしい。 「……知りませんよ、旦那」  擦れ違いざまの挑発は独り言に近かった。  もう本当に知るものか。彼女と自分がどうなろうと。彼女と彼がどうなろうと。  背後でミツヒデが振り返る気配があった。  その調子では手遅れになるぞと空笑いしながら、オビは間違っても振り返るつもりはなかった。
(2013/05/08)

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