からから - 3
 ゼンを起こしに行ったはずのミツヒデが一人で戻ってきた。  妙な違和感を纏った彼が言うには、オビはそのまま白雪の元へ戻り、ゼンは着替えてから行くとミツヒデを先に帰したらしい。いつもなら身支度くらい待っているであろうに、言われるがまま追い返されたミツヒデはやはり何かおかしかった。 「何かあったわけ」 「あ、え?」  木々はペンを走らせながら身が入らぬ様子の男に声をかける。先ほどから書類を指先でぺらぺらいじっているが、おそらくいじっているだけで目など通していないに違いない。 「上の空」 「……だよな」  自覚はあるらしい。  書架から資料を取るために一度席を立ち、その際、木々はちらと彼に視線を向けた。ミツヒデは手中の書類を眺めるばかりで木々の視線に気付く様子もない。完全に意識がちがうところへ向いている。  放っておこう、と木々は彼に背を向ける形で書架の前に立つ。 「——オビと、そういう関係になったって」  しかし思いがけぬ話題が飛び出して、木々は柄にもなく動揺した。 「……ほんとか?」 「……何が」  木々は慎重に振り返る。こちらなど見ていないと思っていた彼とばちりと目が合って、動揺の上さらにばつが悪くて舌打ちをしたい気分だった。迂闊だった。振り向いたのは失敗だった。木々は苦虫を噛み潰して書棚に向き直る。 「そういう話を聞いた」 「へえ。誰から」 「オビ」 「ああ……」  背表紙を辿っていた手で本を抜き取り、なるほどと木々は納得する。そうして件の男を思って辟易した。ミツヒデを挑発したのか引っ掻き回したのか、彼の動機が何であれその悪趣味な目論見は成功したと言って差し支えない。目的は何だ。 「本当なのか」 「いや、本当っていうか……オビはどう話したわけ、あんたに」 「慰めてもらった、とか、そういう」  そう、と木々は書架に向き合ったまま手中の本をぱらりと遊ぶ。振り返るのもそぐわぬ気がしてそのまま彼の言葉を反芻させた。慰めなどと。誤魔化すでもなく含みのある表現でミツヒデを煽り、オビという男は一体なにを企んでいるのだろう。彼がここまで野暮な詮索をするとは正直思っていなかった。どうせ勘繰ったところで無駄だろうが、読めぬ男の腹の内ばかりが気になって仕方ない。 「慰めてなんかない。ただの傷の舐め合い」 「ただのって……」  ミツヒデの声がわずかに温度を変えた。  戸惑っているのだろう、と木々は大方の見当をつける。おそらく彼の中で相棒の人間性がうまく噛み合わないだ。彼が背を預け肩を並べる木々という人間は、どんな理由があろうとこうも簡単に男に気を許すような女ではない。 「幻滅した?」  口をついて出たのはひどい台詞だった。  何がだ、とミツヒデが声を絞り出す。 「いや。面食らってるみたいだから」 「ああ、まあ……動揺はしてるが」  言葉を探しているような様子だった。  木々は木々で自分の発した言葉にげんなりしている。らしくない発言だった。幻滅だなんて、まるで彼に引け目を感じているかのような。 「……おまえが、そうやって応じる風には思えなくてな」  一方のミツヒデは選んだ言葉を慎重に口にした。実に彼らしい考え方で彼らしい言い方だ。木々はいっそうげんなりする。  この男に関しては自分でも嫌になるほどよく理解していた。彼らしい言動、彼らしい思考、おそらく先回りして読んで当てることだってできる。だから彼が何に動揺しているのかも手に取るようにわかってやれた。木々とオビの関係性がどうこうではなく、木々が彼に応じたことへの動揺だ。 「軽い女だって?」 「そうじゃない。そうじゃないから焦ったんだ」  ミツヒデがぎこちなく取り繕う。表情など到底見えやしないが、彼が困ったふうに笑っている姿は容易に想像がついた。そういう声だ。 「無理矢理、とかな、そういうのが一瞬頭をよぎって」 「……」 「そうだよな、オビがそんな真似するわけないよな」  悪かった、と彼の声は、珍しく何らかの感情を押し殺しているように聞こえた。  不意にじりとこめかみのあたりが疼いて、木々は静かに息を吸い込んだ。苛立ちに近い、けれど怒りとも違う、きりきりと引きつれるような空虚感。なにか、急に馬鹿馬鹿しい。  彼はいつだって優しさと心配を木々に向ける。  けれど、すこし過保護なくらいで、あとは踏み込んでもこない。 「……無理矢理じゃなかったらいいわけ」 「え?」  木々は不思議なほどに冷静だった。不思議なほどに感情が矛盾していた。  今、かつてないほど、女としての感情が泣きそうになっている。 「どういう……」  らしくもない。  この男に何らかの執着を期待したのが間違いだった。自分とオビとの関係なんて、彼からすればゼンと白雪の関係性を見守ることとさして変わらないのだろう。下手をするとそれ以下か。  じくじくとこめかみが痛む。  資料一冊取るだけに、思えばどれだけ時間をかけているのだろう。 「木々?」 「……なんでもない。忘れて」  馬鹿馬鹿しい感傷を振り払うように息をつく。  折りよくドアが開いてゼンが戻ってきた。異様な空気を誤魔化すように、ミツヒデが殊に明るい声でおかえりと出迎える。  形を変えた空気に便乗して木々も気兼ねなく書架から離れた。おかえりとこちらもゼンに声をかける。苛立ちの上から普段通りの鎧を被せながら、到底ミツヒデと目を合わせる気にはなれなかった。
(2013/05/03)

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