倒錯的エゴイズム
 猫を拾って帰った一ヶ月後、アニはクリスタを拾って帰宅した。  出迎えたベルトルトが、少し間を置いてからどうしたのその子と一月前とまったく同じ聞き方をしてくる。危うく拾った、と返しかけて、アニは黙ってクリスタを中に促した。  ごめんね、と部屋に上がったクリスタをベルトルトが居間に誘導する。お邪魔しますではなくごめんねである。小さな背を見送りながら、アニはユミルに連絡するべきか迷った。スマートフォンを手にユミルとクリスタの感情に思いを巡らせて、結局、今ではない、と見送る。もう少し様子を見てから判断することにした。戸締まりを確認してから部屋に上がって、玄関に荷物を放ったらかしてそのままキッチンへと向かう。  コーヒーをいれているとベルトルトがそっとやってきた。普段開けっぱなしにしている横滑りの戸をさりげなく滑らせている。逆に不自然だからやめてほしい。 「あの、なんか、すごい、落ち込んでるみたいだけど」 「そうかな。私には怒ってるように見えるけどね」 「そういうもの? 女の子って難しいなあ」 「神妙さが足りない。砂糖どこ」  ベルトルトが手を伸ばして頭上の棚を探る。それらしい容器を発見したが残念ながら空で、結局ストッカーから直接マグに砂糖を入れた。かき混ぜながらクリスタ用、とベルトルトに押し付ける。 「ユミルと何かあったんでしょ」 「それくらいは見当つくけど」 「最初ライナーのとこに駆け込んだらしいよ。で、手に余らせたライナーから連絡きて」 「え、それって」 「いいから戻りなよ。クリスタに気を遣わせる」  まだ何か言いたげだったが、ベルトルトは大人しく居間に下がっていった。今度は戸は開けっぱなしである。詰めが甘い。  朝使ったきりシンクに置き去りだったマグをざっと洗って、アニは二人分のコーヒーをいれる。ベルトルトの言い方のせいでライナーのことまで気掛かりになってしまった。クリスタを引き取りに行った時は普通だった気がするが、実際のところはわからない。  二つのマグを持って居間に入る。  クリスタはコーヒーを握りしめるようにしてソファに座っていた。テーブルを挟んで床に直接座っているベルトルトにマグを渡して、アニはクリスタの隣に腰掛ける。 「家空けること、ユミルには言ってあんの?」 「——……しらない」  可愛らしい唇がかわいらしく尖る。込み入った事情があってイエスノーでは到底答えられない、というしらない、だとアニは判断した。  次の質問を練ろうとして、けれど間髪入れずにクリスタがアニのほうに身を乗り出した。慌ててマグを避ける。 「あのね!」 「うわ、うん、どうしたの」  そろりと手探りでマグをテーブルに退避させる。ベルトルトはなにか知らないが悠長にコーヒーを飲んでいて、そういえばこの男が居合わせる必要性についてまともに考えていなかった。 「ユ、ユミルが」 「うん」  続いてクリスタの瞳にじわりと膜が張った。引き気味だった体勢からやんわりクリスタを押し返し、どうしたの、とアニはもう一度声をかける。 「ユミルが、ひどいの」 「うん」 「わたしの幸せをね、勝手に決めつけて、わたしを、突き放して」  ぱたぱたと白い手の甲に涙が落ちる。その白い手がアニの手をぎゅうぎゅう握り締める。この子はんなにも痛々しい泣き方をするものだったか、とアニは少したじろいでいた。 「わ、わたしは、ユミルといたいのに」 「うん」 「ライナーのとこに行っちゃえって、もっとひどい言い方、だから、わたし」  うん、うん、と胸中の動揺などおくびにも出さずにクリスタの愚痴を受け止める。ライナーが思いがけない登場をしたのでさすがに驚いた。たぶん脈絡あってのユミルの発言なのだろうが、何やら想像以上に事情が込み入っている様子である。  カリカリと音がすると思ったらベルトルトが立ち上がって、寝室のドアを開けた。すでに聞きなれた鈴の音を立てて茶トラがソファに駆けてくる。  クリスタが顔を上げた。意表をつかれた拍子に涙も止まったらしい。 「——ねこ」 「うん、先月拾って」  相変わらずよじ登るのが下手くそな猫を掬い上げてクリスタの膝に乗せた。猫はふんふんと匂いを嗅いでいる。尻尾はすでに嬉しそうだ。なんか私の時と違う、と半眼になるアニをよそに、クリスタはようやく少しわらった。 「かわいい……」 「そう? まあ、落ち着いたみたいでよかった。こいつも慰めた甲斐あったんじゃない」 「うん、ありがとう」  パーカーの袖で涙を拭いてやるとクリスタがはにかむようにして笑った。畜生かわいい。猫ほども役に立たなかったベルトルトはコーヒーいれなおすねと言ってキッチンに出ていった。 ***  ベルトルトが入れ直したコーヒーに口をつけてから、クリスタが改めて爆弾を投下した。 「ライナーにね、プロポーズされたの」 「うわあ、それはまたなんとも」 「ぶっ飛んだね、あのゴリラも」  辛辣なアニを目でたしなめるベルトルトも、当のアニのほうも、表には出さないが動揺していた。そんなぶっ飛んだ話、自分らに一言二言あってもよさそうだが何も聞いていない。 「それでユミルと喧嘩したの?」 「じゃあライナーが悪いんじゃん」 「あ、違うの、ライナーは何も」  クリスタは言いづらそうにしながらふつりと黙り込む。また泣いてしまうように見えてアニはひそかに身構えた。マグを握る白い手に力がこもり、かと思うと泣きそうとも少し違う、もどかしげに歪んだ瞳がアニを見た。 「あのね、アニとベルトルトは同棲してるでしょ」 「——まあ、そうだね、ぎりぎり」 「私とユミルって何だと思う? どう見える? ルームシェア? 居候? 私、私ね」  まくしたてるクリスタの膝でトラ猫は欠伸をしている。呑気なやつめ、とアニは羨ましい。 「——私、同棲って言えないの……」  クリスタは泣かなかった。が、痛そうではあった。  アニはベルトルトと顔を見合わせる。深刻なのは同棲云々などではなく、そんなことで追い詰められているクリスタのほうだ。本来彼女はここまで繊細ではない。繊細さで言えばベルトルトのほうが面倒臭い。  当のベルトルトは相変わらずテーブルの向こうという距離感である。この男にしては的確な距離かもしれない。 「ユミルはね、ライナーと一緒になったほうが私のためだって」 「極端だね、あいつも」 「私の体裁とか世間体とか、そういうことを言ってるんだって、それくらいはわかるよ。わかるけど、そんなのひどいって思って、ユミル何もわかってないって無性に腹が立って」 「それでライナーのとこに?」 「ひどいよね」  ライナーは今何を思っているだろう、とアニは思いを馳せた。おそらく、というより間違いなく、自分を責めている。自業自得だな、とアニは同情する。 「ライナーは悪くないの。私にプロポーズしてくれたのもね、もしユミルとの関係が上手く埋まりきらないなら俺と一緒になるのもありだろって。俺は一番じゃなくてもいいからって」 「それ、ユミルが聞いたら殴りかかりそうだなあ」 「私も殴る」  アニは目一杯毒づく。危うく声が揺れそうになって、慌てて息を吸った。クリスタではないが無性に腹が立つ。ユミルの前に自分が殴りに行ってやる。 「私、ライナーのとこに駆け込んで大泣きしちゃったの。世間体なんて気にするユミルが許せなくて、そのくせ女どうしで同棲してるなんて言えない私も、ライナーの好意につけ込む私も、すっごく卑怯。さいてい」  つけこむ、という言葉にびくりとして、アニは思わず固まった。卑怯、という言葉がひどくざらざらする。  アニは振りきるように思考を追い払った。今はそんな場合ではない、と自分をたしなめる。表情筋が硬いことだけがせめてもの救いである。 「……卑怯かはともかく、好き合ってれば世間体も偏見も関係ないって振っ切れるほど、あんたら簡単な性格してないでしょ。世の中もそう単純じゃないと思うけど」 「僕もそう思うなあ。そういう意味じゃライナーのプロポーズってなかなかいいとこついてるよね。弱点的な意味でさ」 「あのゴリラは今度蹴っ飛ばしとく」  それであんたはどうなの、とアニはコーヒーに口をつける。クリスタは相変わらず心許ない瞳でアニを見て、すとんと目線を落として、すっかり寝る体勢で落ち着いているトラ猫の背を撫でた。 「……ユミルと一緒にいたいな」 「うん」 「今日みたいに腹が立っても、悲しくても、ユミルのところに帰りたいの」  猫が驚いたように身を起こした。お世辞にも手触りがいいとは言えぬ毛並みに、ぽたりぽたりと涙が落ちる。怖いほど華奢な背中を叩いてやりながら、アニはやけに苦いコーヒーを舌の上ににじませた。 「それ、ユミルに言ってやんなよ。自分のいたい場所くらい自分で決めるって。ライナーだってどうせわかってるんだから、あんたはもう迷わなくていいよ」 「うん……」  ありがとう、とクリスタが鼻をすすり、ひとまず一息ついた視界の隅でベルトルトが立ち上がった。アニはちらと視線を向ける。放ったらかしだったコートを羽織り、彼は完全に外出の装備である。どこいくの、とアニは、さしずめライナーのところかと見当をつけて訊く。 「ユミルのとこ行ってくるよ。意地になってそうだし、きっとクリスタのことも気にしてるから」  それに、とベルトルトはスマートフォンと鍵をコートのポケットに突っ込んだ。 「それに、ユミルの気持ち、なんとなくわかってあげられると思う」  やけに辛気臭い雰囲気で言うものだからアニの目元が強張った。何か皮肉のひとつでもと言葉を探しているうちに、ベルトルトがアニを見て鷹揚に笑う。 「大丈夫、浮気なんてしないよ」  アニは手元のクッションを思いきり投げつけた。 「はやく行け!」 「うん、いってきます」  玄関のほうへ消えたベルトルトが、家を出た後にわざわざ外から鍵をしめていった。過保護というより馬鹿にされている気になる。  残されたアニはひとまず立ち上がり、ベルトルトのマグと、自分らのコーヒーを入れ直すつもりでマグを回収した。泣き止んだクリスタが今度は神妙な瞳でアニを見ている。 「……アニ、あの」 「何? 言っとくけど引きずってんのあいつだけだからね」  あんたらはこうならないよう気をつけなよ、とまるで説得力のない口調で忠告する。皮肉にさえならないのだからただの自虐だ。  黙り込むクリスタを置いてキッチンに出る。コーヒーよりいくらか優しいものがほしいな、とマグをシンクに起きながらスティックラテの場所を記憶上で探っていると、不意にクリスタが居間からアニを呼んだ。あのね、と今日はずっとそんな調子だが、言いづらそうな発声である。 「ミカサから聞いたの。来月のこと、アニ、聞いた?」 「ミカサ? 何の話?」 「アルミンが帰ってくるって」 「——え」  アニは一瞬言葉を掴みあぐねてぼうっとしてしまった。ぐらりと手元でマグが傾き、慌てて我に返る。アニ、とクリスタが心配そうに呼び掛けてきた。 「へえ、はじめて聞いた……」  アニは懸命に思考を手繰りよせる。何だ、何をしようとしていたのだ。取り落としたらしい平静を、気取られぬように拾い上げる。たしか、コーヒーじゃなくて、ラテを。  棚に手を伸ばすアニの脳裏にベルトルトの言葉が蘇る。たぶんわかってあげられる、とあの男は言った。何もわかってないよ、とアニは胸中で毒づく。ばかじゃないの、と急に泣きそうになった。 「アニ?」 「——私もあいつも、到底あんたらに説教できるような立場じゃないね」 「そんなこと」  クリスタが控えめな足音を立ててキッチンを覗いてきた。足元からトラ猫も覗いている。  アニは諦めて、大丈夫、と薄っぺらく笑う。感傷とは乖離したところで手中にはきちんと二人分のスティックが収まっている。自分のほうがよっぽど卑怯なのかもしれない、とアニは自分が可哀想だった。
猫拾った時点ではユミクリの話が始まるとも思ってなかったしアルミンが絡んでくる予定もなかった。キャラの動線凝りたかった時期かもしれない。
その後のそれぞれ→端的ロマンチスト

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