純情概論(1)
 目を覚ますと隣で眠っていたはずの彼女はすでにベッドから抜け出していて、それどころか身じたくまで済ませていた。  瞼が重い。しぱしぱと鈍くさい瞬きをしながら、ベルトルトは起床しきっていない喉で呻き声を上げる。かろうじて、おはよう、という言葉の形成に成功した。 「……起きてたの」 「うん、いま。おはよ」  おはよう、とアニが応じる。まどろみの残滓がしつこい。ベルトルトはもぞりと枕を引き寄せてうつ伏せになった。 「出かけるの?」 「まあね。あんたまだ寝てていいよ」  アニが気のないふうに言いながら腕時計を巻く。ベルトルトはふうんと歯切れ悪く応じて枕に埋もれる。  土曜である。休日出勤であれば彼女はそう言うし、予定があるならそれはそれで前もってベルトルトの耳に届いている。もし自分が起きなければ彼女はこっそり出掛けていたのだろうか、とあまり面白くはない思考に辿り着いて、ベルトルトは黙り込んだ。  ちらとアニを窺う。珍しくスカートにリブタイツなんて合わせて、上だって上品なニットで、ピアスまでぶら下げている。控えめなメイクと下ろされた髪と、つまり、よそゆきだ。 「……どこいくの」  予定していたよりも低い声が出た。  アニがちらりとベルトルトを一瞥する。出勤時に使っているバッグから出かける時に愛用するバッグへと中身を移しながら、アニは別にとはぐらかした。 「遅くなる?」 「そんなには、たぶん」  財布の中身を軽く確認してからバッグに突っ込み、アニは続いて本棚に足を向けた。  ベルトルトは枕に頬を押し付けたまま彼女の動きを追う。下から二段目はアニのテリトリーだ。その空間にどことなくそぐわない、唯一カバーがかかったままの文庫本を、彼女が手に取った。  ああ、とベルトルトは悟る。  その背中が少し緊張して見えることにもようやく得心がいった。出かけることを言わなかったのではなく言えなかっただけだ。おそらく言おうともしていて、彼女なりにタイミングを探している。  振り向いたアニとばっちり目が合ってしまった。ベルトルトはへらりと笑ってアニの言葉を待つ。  わずかな逡巡を見せてからアニが寄ってきた。  ベッド脇に膝をついて、まだ枕と仲良くしているベルトルトと、正面から目を合わせる。 「……アルミンと、あってくる」 「そう」  いってらっしゃい、とベルトルトは微笑んでやれた。アルミンによろしく、と彼女の目元に落ちたマスカラを指で払う。 「……言っとくけど、本返しにいくだけだから」 「わかってるよ。大丈夫」  うそだ。何が大丈夫なのだろう。  仄暗い本音をぎゅうと押しつぶして、ベルトルトはつやめく唇に指を添える。 「グロスつけすぎじゃない? かわいいけど」 「その手には乗んないよ。あんたの唇テカると気持ち悪そうだし」 「ばれたか」  笑うベルトルトの頬をむいとつねって、アニはいくらか安心したような顔をした。大丈夫、という言葉は、本当ではないけれど正解ではあったらしい。  アニが立ち上がる。文庫本を丁寧に鞄に入れて、見慣れたリングを通したネックレスを首につけて、最後にベルトルトを振り返る。 「……じゃあ、いってくるから」 「うん、いってらっしゃい」  ベッドからひらひら手を振って、その体勢のままドアの音を確認して、ベルトルトは脱力するようにベッドに沈んだ。  枕に顔を押し付ける。誰の感情を疑えばいいのかわからず、とりあえず、たぶんってなんだろう、と二度寝に沈む頭でぼんやり考える。 ***  ホテルのカフェは思ったよりも小洒落ていた。  ほどよい歓談や食器の音、些細な雑音すらどこか上品に聞こえて、彼女は苦手がりそうだな、とアルミンは苦笑しながら腕時計をみる。そろそろ待ち合わせの時間だ。  ウェイタが上品な声を上げる。視線を巡らせると案の定居心地の悪そうな顔をしたアニが案内されているところで、アルミンは文庫本を閉じて手を上げた。 「アニ」  気づいたアニが、わかりづらい安堵を滲ませてテーブルに向かってくる。かわいいな、とアルミンは数年前と変わらぬ感情を胸の内に抱いた。ホテルのカフェで、というアルミンの提案に、彼女なりに気を遣っての服装だ。  とてもよく似合う。何より彼女のそういう配慮がいじらしくて、けれど、同じくらいにやるせなかった。疲れるね、といういつかの彼女の言葉が、今も頭の片隅にこびりついて離れない。 「久しぶり。元気そうだね、アニ」 「あんたも」  向かいに腰かけたアニが、コートを脱いでウェイタにコーヒーを注文した。 「しばらくこっちにいるって聞いたけど」 「うん、どうせだしちょっと無理言って贅沢に休みもらってさ」 「相変わらずだね、そういうとこ」 「そうかな」  アルミンは笑いながら、さりげなく彼女の表情を窺った。わずかな緊張がまだ抜けずにいる。久しぶりに会ったためか、それとも一種のわだかまりか、アルミンはその距離が少しさびしい。 「ベルトルトはどう? 元気?」  あえてその話題を口にすると、アニは珍しく驚いた顔をした。そうしてそのまま、ようやく糸がほどけたように笑う。苦笑に近い笑いかただ。胸元のリングと相まってすこし目に痛かった。 「……元気だよ。今一緒に住んでる」 「知ってる。エレンから聞いてたんだ、しばらくしたら引っ越すって?」 「そんな話まで行ってんの?」  自分たちを囲う情報網は基本的に広くて緩い。それはひとつ便利でもあるが、ひとつ、残酷とも言えた。  ウェイタがコーヒーを運んでくる。アニはカップを両手で包んで、温度を手のひらで確かめるようにしてから、コーヒーに口をつけた。 「ごめんね、急に呼び出して」  他愛ない世間話を切り上げる。  話したいことはいくらでもあった。 「ベルトルトにも悪いことしちゃったかな」 「ちゃんと言ってあるから、大丈夫」  それに、とアニが鞄から文庫本を取り出した。 「これも返したかったし」  アルミンは柄にもなく言葉をつかえさせた。  見慣れたカバーがあらゆる感傷を呼び起こしてしまって、取るべき表情に困って、アルミンは結局、困ったように笑った。 「……忘れてるかと思った」 「まさか。そういうつもりで借りたんだし」  なんでもいい、本が借りたいとアニが言ったのは、ロンドンに発つ少し前、別れた少しあとだ。  口実が欲しいのだとアニは言った。彼女は彼女自身がひどく不器用であることを自覚した上で、アルミンとまた会うべき理由を持っていたいと訴えた。彼女は、友人として、たとえば別れ話を笑い話にできるような、そんないつかを望んでいたのだと思う。  アルミンは当時読みかけの本をアニに渡した。  読みかけはさすがにと渋った彼女に、感想をきかせてと、アルミンは勝手に再会の理由を上乗せた。 「懐かしいなあ。アニ、これ全部読んだ?」 「一応ね」 「そっか。僕、もうどこまで読んだかも忘れちゃったな」  ふうんとアニは目を細める。アルミンの言葉がうわべのもので、何か別のことを言いたがっていることに気付いている顔だ。お互いもう少し鈍くいられたらきっと楽だったろうに。 「——もうちょっとだけ預かっててくれない?」  本ではない。  会うべき理由を。 「来週また会ってほしいんだ」 「……」  留学を理由に別れたわけではなかった。  彼女が自分のことを好きでいてくれていることは知っていたし、逆を望んでくれていることも知っていた。それでも上手く噛み合わなかった。  何が足りなかったとか、何が余計だったとか、そういう単純な足し引きではない。もとより繊細な感性を持つ彼女は、そのくせ、それを表に出すことがひどく苦手だった。そうやって不安がっていることをアルミンはきちんと理解してやれなかった。  アルミンはアルミンなりに彼女を大事ににしていたつもりだ。甘やかしたくて仕方なかったのだ。けれど大事にすればするほど、彼女は満たされる一方で、どこか息苦しそうでもあった。ある意味頭が冷えたといえる今ならわかる。無償の愛情というものは、距離を上手にはからねばたしかに怖い。  つかれるね、と何気なく呟いた彼女は、別れを意図した様子など欠片もなかったが、やはりどこか息苦しそうだった。  やめてもいいよ、とアルミンは冗談のように笑って、おわりのきっかけをアニにあげた。  彼女を心置きなく笑わせてあげられぬ関係性など無意味としか思えなかった。 「……アニ、僕はまだ、君のことがすきだよ」  けれどアルミンはずっと後悔している。  そういう不器用なところまで好きなのだと、本当はあのときに、彼女が安心するまできちんと伝えてやるべきだったのだ。 「もう後悔したくないんだ」  彼女をまっすぐに見つめる。  アニはその視線を受け止めながら、どこか泣きそうな顔をしていた。美しい瞳には諦観の色さえ見える。  こうなることを予想していたのかもしれない。  だとしたらとても残酷なことをしている。ごめんね、と心の内で懺悔しながら、アルミンはそれでも、彼女へ向けた感情を偽ることもできなかった。 ***  夕飯どうしようかな、とソファでぼんやりしているうちにアニが帰宅した。  ベルトルトは時計を見る。十七時を過ぎた頃だ。意外と早かったな、と率直な感想を抱き、意外とってなんだ、と地味な苦味を噛み締める。  たぶん、という今朝の彼女の何気ない言葉が脳裏によぎる。引きずるように数日前のユミルの言葉まで思い出してしまった。アニはおそらく何かを予感していて、ベルトルトはその予感を予感し、ただ情けなく怯えている。  ただいま、とアニが居間に現れた。  おかえり、と出迎えながら、ベルトルトは首を傾ける。寝ていたはずのトラ猫が足元から駆け出した。 「……ゴッホも、ただいま」 「アニ?」  背もたれから背を浮かせ、ベルトルトは、けれど彼女の違和感にどう声を掛けたらいいのかわからない。なにかあったの。訊くことは簡単だ。なにかあったことなど明白だった。彼女はそういう表情をしている。  まるで迷子になったこどものよう。  腕に抱いたトラ猫も相まって、拾ってきた当時のことを思い起こさせた。 「アニ」  けれどその時とはまるで異なる感情が目元に滲んでいる。  何をそんなに思い詰めているのだろう。 「……アルミンと、会ってきた」 「うん。元気だった?」 「元気だった。相変わらずだったよ」  アニはのろのろと近付いてきて、ゴッホを抱いたまま、ベルトルトの隣にすとんと座り込んだ。  猫を撫でる体でうつむいたままだ。ベルトルトは彼女のやわらかいブロンドを見下ろしながら、こちらは猫のかわりに静かな予感を抱いたまま、黙ってアニの言葉を待つ。 「……アルミンも、あんたと同じこと聞いてきた。ベルトルトは元気かって」 「そう」 「本を返そうとしたら断られた」 「え?」  ようやくアニが顔を上げた。視線がまじわる。  てっきり途方に暮れているものと思っていた眼差しは、思いがけず、まっすぐにベルトルトを見つめた。来週、と感情の見えぬ声が話を続ける。 「来週、また会ってくれって」 「来週? またって、なんで」 「アルミン、向こうの研究室に誘われてるんだって。この先のことも考えてるって言ってた」  気まぐれな猫がしなやかにアニの膝から下りていく。  行き場のなくした手を脇に下ろして、アニはこの時、初めて瞳を揺らがせた。 「——だから、私も、いっしょにきてくれないかって」  日頃から感情の滲みにくい声が掠れている。アニはおそらくベルトルトに何かを求めていた。そこまでわかってやれて、それなのにそれ以上はわかってやれなかった。  感情が凝り固まってゆく。ぼんやりとした感情のなか、ベルトルトはそう、とだけ応じた。不思議なほどに凪いだ声だった。凪いだ心で、ユミルすごいな、と到底場違いな感想を抱いていた。

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