純情概論(2)
そう、と呟いたベルトルトは、それきり何も言わなかった。何かを言う様子すら見せなかった。
もどかしい沈黙がじわりと充満しはじめる。アニは急にひやりとした。怖い、と状況に似つかわぬ感情が頭をもたげる。
彼がこれ以上何も言わないのかと思うとたまらなかった。たまらなく息苦しかった。
「——なんで」
「アニ?」
「そうって、何……、それだけ……?」
ベルトルトが戸惑いをあらわに言葉を探し直す。探さなければならないほどのものなのか、とアニは焦れる。その焦燥感の正体すら判然とせず、アニはどういうわけか、泣きそうでもあった。
「僕は、だって、何か言う資格なんてないよ。アニの気持ちをいちばんにするべきだし」
「は? 何言ってんの?」
「アニの重荷になりたくない。だから行かないでとか、そういうの、言えないよ」
ふつりと脳のどこかが沸騰した。この男は何を言っているのだろう。気持ちってなんだ。
泣きそうだった。泣いてしまいたいという感情もあった。この馬鹿は本当に何もわかっていないのだ。
「——ば、かじゃないの」
「アニ」
「私の気持ちって、なんで、なんで勝手に決めつけて、なんで勝手に諦めんの」
「ま、待って、そうじゃないって」
ベルトルトが体の向きを変える。アニの顔を覗き込むように目を合わせてきたが、アニはその瞳から逃げるようにうつむいた。目が合った途端に泣いてしまう予感があった。そんなみっともない顔は死んでも晒したくない。
「決めつけてるつもりなんてないよ。ただ、アニは優しいから」
「優しいからなに? お情けであんたと付き合ってやってるって話? なにそれ、ひとのこと馬鹿にして」
「違うよ! そんなつもりじゃ」
「あんただけだよ、あんただけなんにもわかってない」
不器用な自分がもどかしい。けれどそれ以上に、馬鹿みたいにやさしいこの男がもどかしい。
「あんたの中にいる私は、いつになったら、アルミンよりあんたをすきになるわけ」
クリスタの言葉が脳裏に蘇る。淋しいね、と彼女は泣いた。アニはあの時よりもずっと淋しくてかなしい。
ベルトルトは固まっている。なんだかひどく馬鹿馬鹿しく思えた。一人よがりな言葉も、一人走りしてまうほどの感情も、この男には何ひとつ届いていないのだ。
「私はあんたがすきだよ」
「アニ……?」
「あんたがいくなって言うなら行かない。あんたが、行けって言っても、行かない。いきたくない」
声が震える。みっともない。みっともないくらいにこの男がすきなのに伝わらない。とんだ茶番だ。
「もし、あんたが、どっか行くって言うなら、私は置いてくなって怒るし、つれてけって言う。アルミンがどこにいるのも関係ない。私はあんたがすきなの。あんたのところにいたいの」
アニはようやく顔を上げた。その勢いのまま呆けているベルトルトを睨みつける。泣きそうな目許のせいで変な顔になっていたかもしれない。
「あんたにとって私ってそんなもんなの? 行くって言ったらあっさり手放す? その程度?」
「そっ」
「ばっかみたい……!」
吐き捨てて立ち上がる。ベルトルトがぎょっとした。穏やかでない展開を察知したらしい彼は慌ててアニに追いすがる。
「ちょっ、アニ! 待っ——」
「うるさい!」
「痛っ!」
立ち上がりかけたベルトルトの足を容赦なく蹴飛ばした。口より先に足の出る性格だという自覚はあったが、要するに口が出ても結局足は出るらしい。今は自己嫌悪に陥るほどの余裕もなかった。
「あんたが勝手にしろっていうならもういい、勝手にする」
「アニ!」
「うるさい腰抜け! だいっきら」
い、というところで涙腺が限界を迎えた。アニは慌てて踵を返して玄関へ向かう。
アニ、と叫んだベルトルトが追ってくる気配がした。同時にトラ猫がアニの足元を駆け抜けてゆき、次の瞬間、ベルトルトの残念な悲鳴が聞こえた。家主はどうやら飼い猫に襲われている。
アニは振り返りもせずに部屋を飛び出した。足を止めたら感情に負けてしまいそうな気がして、目許を乱暴に拭いながら、自分は怒っているのだと言い聞かせて走り続けた。
***
引っ掻かれはしなかったが飛び付かれた勢いで引き戸に頭をぶつけ、ベルトルトは声もなくうずくまっていた。閉まったドアの向こうで足音は無情にも遠ざかっていく。さいあくだ、とベルトルトは項垂れる。
元凶の猫はざりざりと満足げに毛繕いをしている。アニもベルトルトも共通して犬より猫派だが、この猫はこの猫で一貫してベルトルトよりもアニ派らしい。
「……アニさあ、泣いてた?」
前足を舐めながら、ゴッホは、にゃあ、と一声応じた。ベルトルトはだよねえと長い溜め息をつく。
「大嫌いだって」
口下手でしかも口の悪いアニだ。けれど今まで彼女の口からそんな台詞が出てきたことはなかった。たぶん初めてだ。初めてベルトルトを傷つける言葉を吐いて、そうして、律儀なことに彼女自身まで傷ついている。
ひどいことを言わせてしまった。
こんな傷つけかたってあるんだな、とベルトルトは憂鬱でならない。
よろりと立ち上がったところでスマートフォンが鳴った。着信だ。
なぜか臨戦体勢に入るゴッホの背中を宥めながら、画面に表示されている名前を見て余計に気が重くなる。ユミルだ。とんだタイミングである。
ベルトルトは溜め息をついて着信マークをスワイプさせた。
「——もしもし?」
「よっ! 修羅場なう!」
「……………あのさあ」
笑い声の向こうからユミルをたしなめるクリスタの声が聞こえた。それを取り巻く雑踏の音も聞こえる。おそらく外だ。
「いやいや怒んなって。たった今おたくのアニちゃんと擦れ違ってな」
「——え」
「まーひでえ顔してたもんだからよ、ウチの天使が声かけたわけ。あいつ、なんでもないって行っちゃったけど、なんでもなくないんだろ」
「いや、まあ……」
ひとつ失念していたことに思い至り、ベルトルトは今さらながらに焦った。ひどい顔というのは十中八九泣いていたのだろうが、そんな彼女は、そういえばどこへ向かったのだろう。
「あの、ユミル、アニは」
「で、クリスタが怒ってる」
「え、いや、——おこってる?」
「ちょっと今替わるなー」
「えっ、ちょっ、うわ待って待って」
あの天使が怒るとはいったい何だ。何事だ。
心の準備もままならぬうちにあっさり電話の相手は交代してしまい、もしもし、と声の主はたしかにクリスタで、彼女の声はたしかに冷えていて、ベルトルトは思わずその場に正座した。
「……えっと、クリスタ?」
「ベルトルト、今、家にいるの?」
「え、あ、はい」
「なんで追いかけないの? 追いかける資格ないとか、そういうくだらないこと?」
「いや、違……」
いや、多少、なくはないな、と逆に思い当たってしまうベルトルトである。そもそもアニが出ていったことの発端といえばベルトルトのこの煮えきらぬ態度だ。反省はすべきだろうが改善となるとまた話がややこしくなってくる。
黙り込むと電話の向こうのクリスタはそれを敏感に察知したらしい。あのね、と彼女の声はすっかり物騒だ。
「アニもいっしょなんだよ」
「え?」
「アニもベルトルトといっしょなの。アニ、ベルトルトの気持ちにつけこんでるって、淋しそうだった」
「え、なんで」
なんでも何もない。クリスタに訊いても仕方ないことは百も承知だが、少なくともベルトルトは初耳だった。これまでずっと近くに居続けたというのに、どうしてそういう大事なことに気付けないのだろう。
「つけ込むって、そんな」
「ほら!」
「えっ」
「ベルトルト、今、そんなことって思ったでしょ。そんなこと思う必要ないのにって、淋しくなったでしょ」
「あの、クリスタ」
「アニもおんなじ気持ちなの」
おんなじ、と腑抜けた鸚鵡返しが口から落下した。
「おんなじ。アニもベルトルトと同じくらいベルトルトのことがすきで、ベルトルトと同じくらい、不安なんだと思う」
言われたところで感情の処理が追い着かず、ベルトルトは少しぼんやりしてしまった。どこか遠く感じられる電話の向こう、それ以上は野暮だろとユミルの声が聞こえる。
心臓がじくりと痛む。野暮は自分だ、と頭のどこかがベルトルトを糾弾する。
彼女の気持ちが大事などとのたまって、本当は傷つくことがこわくて寛容をうそぶいていただけだ。拒絶がこわくて執着から目を背けた。彼女の腰抜けという罵倒は実に的を射ている。
いったい自分は何をしているのだ。
ベルトルトと同じほどに不安だというアニは、それなのに、ベルトルトに執着して、ベルトルトに怒ってくれた。
心許ない声が今でも脳裏に残っている。好きだと言うことにどれほどの勇気が必要だっただろう。
たまらなくなって立ち上がった。
ありったけに伝えたかった。本当はまだ彼女の気持ちを汲み取り切れる自信なんてなかったけれど、それでも、自分だってどうしようもなく好きなのだと衝動にも近い感情ごと。
「クリスタ!」
「おっと、ベルトルさんよ、前に私にかました説教忘れたわけじゃねえだろうな」
「ユ、ユミル」
「それとうちのとこはそんなお人好しじゃねえからな、おたくみたいに迷子預かったりしないぜ」
「いや、あの、アニどこに向かったとかそういうの」
「アルミンのホテルでも教えてやろうか」
「——ちょっと急ぐからまた!!」
耳から離したスピーカーからユミルの爆笑が聞こえている。構わずに通話を切って玄関へ向かった。勢い込んで開けたドアからなぜか真っ先にゴッホが飛び出し、ベルトルトは出遅れまいと手早く鍵をかけて自転車を目指す。
***
ベルトルトに連絡を入れようとこっそりスマートフォンを手に取ると剣呑な視線が突き刺さった。ハイ黙っておきますと両手を挙げて、ライナーは諦めてスマートフォンを置く。
「つーかいくら何でも出てくることねえだろ」
「うるさい」
「しかも俺ん家って真っ先にばれるからな」
「うるさい」
アニはコーヒーを淹れながらぶすくれている。時折鼻をすする音が聞こえて、何も仏頂面で泣かなくともとライナーは呆れるほかない。
喧嘩してアニが家を飛び出すだなんてことはライナーの知る限り今回が初めてだ。喧嘩となれば大体ベルトルトが折れるし、アニも無意識のうちにそれを待っている節がある。こんなふうにアニの衝動が勝って、折れる折れない以前のところでこじれることは珍しかった。
「泣くならベルトルトの前で泣いてやれよ」
「——だって」
アニの眉間に皺が寄る。泣きそうなのだ。
「だって、そんなの、あいつ、慰めるし。慰めてほしいんじゃない。そんなのがほしいんじゃない」
「けどなあ、あいつそういうとこ鈍いぞ」
「しってるよ。だから全部言ってきたよ。ばかみたいに全部」
ライナーは嘆息しながら冷蔵庫を開ける。牛乳を取り出して勝手にアニのマグに注いだ。彼女はされるがまま、手元で色合いを変えるコーヒーを睨みつけている。睨みつけたまま、ばかみたい、という独り言をとりこぼした。
「ばかみたい、あいつ、私の気持ちのほう優先できんの。私はそんなのできないよ。私の気持ちって、なんなの、私ばっかりあいつのこと」
「アニ」
それは違う。
不安を一人走りさせるアニに、それ以上はと遮ったものの何を言うべきか思い付けなかった。どれを取ってもベルトルトが彼女に言わねば意味を持たぬ気がした。
けれど彼女の横顔が、日頃不遜に人をひっくり返すとは到底思えないほど心許なくて、ライナーはどうにかせねばと手を伸ばす。
苦し紛れに小さな頭を撫でてやった。睨み上げるアニの瞳にじわりと膜が張り、いよいよ溢れるかと危惧した矢先、玄関から騒がしいドアの開け閉ての音が響いた。
ライナー、と余裕のない声が先行して飛び込んでくる。続いて余裕のない本人が。
「ライナー! アニきてる!?」
「ああ、見てのとおりだ」
飛び込んできたベルトルトはどういうわけか足元に猫を連れていた。彼はアニの姿を認めるや否やがくりと安堵を滲ませ、けれどすぐさま目元を決して、ずかずかと二人のもとへ寄ってくる。
「ベル——」
「ライナーごめん」
虚をつかれたままのアニをベルトルトがやや強引に引き寄せる。ライナーの中途半端な手が居場所をなくした。
「ごめん、今ちょっと誰にも触らせたくないんだ」
ははあ、とライナーは感心なかばに半端な手を下ろす。おそらくベルトルトの精一杯であろう。冷や汗さえなければ満点をやりたいところだ。
腕をとられたままのアニはどうやら言葉をなくしていた。それもそうだろうな、とライナーはベルトルトの心境の変化がいまいち把握できない。
「急に押し掛けてごめん。とりあえず今日は帰る。今度改めて連絡する」
「……まあ、そのあたりはどうでもいいんだが」
何があったかは知らないが、色々と吹っ切れたらしい彼の瞳を見上げる。アニがここへ来る前にユミルたちと会ったと言っていたから、トリガーは彼女たちかもしれない。
「これ以上こいつ泣かせるようならいくらお前でも許さんぞ」
「……肝に銘じておくよ」
踵を返したベルトルトに腕を引かれながら、アニが何かを求めてライナーを振り返った。ライナーはさっさと行けと手で追いやる。
ぱたんと先よりいくらも控えめなドアの音がした。やれやれと溜め息をつくと足にトラ猫が絡んできて、ライナーは苦笑しながら屈み込む。
「……お前も苦労が絶えんなあ」
空気を読んだ猫はアニと同様ライナーの家を退散先に決めたらしい。とりあえず足拭こうな、と猫を抱き上げながら、それにしても猫って何食うんだとライナーの気苦労はまだ絶えない。