手のなるほうへ
 グラスが足りない、とバリーが文句を垂れる。 「足りないもなにも集合するなんて聞いてないぞ」 「ああ、モイラは遅刻。先約があるって」 「なんでモイラ?」  グラスを諦めたバリーが、どこから発掘してきたのかBSAA北米支部のロゴ入りマグカップを片手にカウチに腰掛けた。そんなものどこから、と家の主でありながら怪訝がるクリスをよそに、バリーはクレアが持参したワインを注ごうとしている。マグでワインって、とクレアが笑い出した。 「味変わっちゃうんじゃない?」 「大した問題じゃない。というかこいつらが纏まったことより大きな問題があるか?」 「問題って言うな」 「グラスあったわよ、はい、バリー」  すんでのところでジルがグラスを差し出した。すまんな、と受け取ったバリーの隣でクレアはすでに飲んでいる。乾杯はいいのか、とクリスが難癖をつけるとするに決まってるじゃないと涼しい顔で一蹴された。  ジルが声を立てて笑う。 「兄妹喧嘩ならあとにして。大体そのマグカップ、オフィスの備品じゃないの?」 「気づいたらここにあった」 「そんなわけないでしょ。私物化しないでって何度も」 「夫婦喧嘩ならあとにしてって言ったほうがいい?」 「クレア」  たしなめるジルをよそにクレアは満足げである。こういう日を待ち望んでた、と感慨深くつぶやくので、今日ばかりはクリスは妹に対して強く出られない。 「ジルも座ったら?」 「お酒だけでいいの?」 「ピザがある。充分だ」 「そもそもこの家に気の利いたつまみはない」  自虐的に言い切ったクリスはバリーが持参したピザをテーブルに広げる。結局そのまま二人の向かいに腰を下ろしたジルに、クリスがグラスを手渡しながら何を飲む、と問うた。 「自分でやるわ、あなたが働いてると飲めないのよ」 「気遣い無用だ。二人を見ろ」 「引っくり返しそうで見てられないって意味じゃない?」 「クレア。お前の兄がどこまでも間抜けだと思うなよ」 「引っくり返しそうで見てられないって意味よ」  いいから座って、とジルがクリスの腕を引く。バリーが空のグラスを手渡して、流れるようにクレアがボトルを傾けた。有無を言わさぬ流れである。 「モイラの先約ってもしかしてボーイフレンド?」 「さあ」 「おいやめてくれ、聞きたくない」 「なんだ、俺たちのことには散々口挟んできたくせに」 「こじらせた大人と年頃の娘を一緒にするな」  クリスは思わずジルと顔を見合わせた。一拍置いて笑い出すジルを横目に、言い過ぎだ、とクリスはバリーに指を向ける。 「言い過ぎなもんか。クレアに男ができたらお前にもわかる」 「むしろその男と握手したいくらいだよ」 「ねえ、乾杯しないの?」  居心地の悪さを微塵も隠さないクレアが催促する。  誰が、何に、というあやふやな議題を全員が面倒臭がった形で結局バリーが音頭をとった。俺たちに、と雑な名目とともにグラスを掲げる友人に、各々笑いながらグラスを掲げる。 「乾杯なんて言うからなにか言いたいことでもあるのかと思った」 「なんかご馳走さまって感じで文句言う気失せちゃったのよ」 「正直一時間でも足りないくらいだしな」 「胸にしまっておいてくれ、説教はごめんだ」 「じゃあ私が言っていい?」  形式的に一口だけつけたグラスを置いて、ジルが改まって二人の顔を見る。文句らしいことを言いながら二人の表情は晴れやかだ。空気が変わったことでクレアがグラスを置こうとしたが、たいしたことじゃない、とジルが笑いながら制した。 「ただ言っておきたかっただけ。二人がいなかったらきっと後悔してたから」 「ジル」 「心配かけてごめんなさい。本当にありがとう」  もう大丈夫、と言って、ジルがクリスを見上げる。  和らいだ瞳は今まで見た何よりも奇麗だった。クリスは何も言わずに彼女の手を取る。華奢な指先が握り返す感触にささやかな幸福を見出して、俺からも、と言おうとした矢先にクレアが口を挟んだ。 「キスする? どうぞ続けて」 「クレア」 「安心しろ、長居するつもりはない。少しくらいお前たちのことを一緒に喜んだっていいだろ」 「そうそう、モイラもくるし」 「俺も礼を言いたかったんだがこの流れは終わりか?」  未練がましく訴えると礼なんかいるか、とバリーにあしらわれた。クレアはクレアで、お礼より私に謝ったほうがいい、と休暇のことをまだ根に持っている。 「言っておくけどジルに同じことしたら私が怒るから」 「クレア。お前の兄がどこまでも間抜けだと思うなよ」 「水を差すようで悪いがお前ならやる」 「大丈夫よ、クレア、慣れてる」  ジルが微妙なフォローを入れる。どっちの味方なんだ、と問うとあなたに決まってるじゃないときれいに流された。ご馳走さま、とクレアがグラスを掲げて、バリーが黙ったままそれに倣う。一瞬の静寂ののち、耐えかねたクレアが最初に笑いだした。続くようにジルとバリーが声を立てて笑う。  クリスは目を細める。何物にも邪魔されず、彼女が隣で屈託なく笑っていることが幸せだった。この光景を覚えていよう、と胸に刻む。いつかの別れのとき、まっくらな最期のとき、導かれるように彼女たちの笑い声を思い出せたらいい、とクリスは願った。
(2021/05/05)
ヴィレッジ発売(5/8)までにどうにかと思って書き出して(4/27)ギリ書ききった(5/5)という駆け込み乗車な代物でした。粗はSF(すこし・ふしぎ)でお願いします。
ちゃんと書ききるとは自分でも驚いた。成長をかんじる。最後までお付き合いいただいた方、ほんとうにありがとうございます!

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