手のなるほうへ
雨がぱらついている。
タクシーから彼の部屋までの距離を少し雨に濡れた。取り立てて急がなかったのは雨脚が弱かったこともあるが、雨を厭うほどの気力がなかったことのほうが大きい。傘をさすことも、足早に歩くことも、なにか億劫だった。
湿気をもった空気がひんやりと気持ちいい。ジルは部屋に明かりがついていることを確認してドアチャイムを慣らした。ビー、と呻くような音を聞きながら、ここでようやく連絡のひとつも入れていないことに思い至る。驚くだろうか。衣服の水気を払っていると、やや置いてからドア越しに誰何する声が聞こえた。
「こんばんは」
「――ジル?」
途端に慌ただしい物音が聞こえる。少し待っててくれ、という声のすぐあとに鍵の開く音がして、くつろいだ格好のクリスが現れた。
ジルは苦笑する。
「急にごめんなさい、せっかくの休みなのに。邪魔じゃない?」
「ああ、大丈夫。連絡くれたらなにか用意しておいたのに」
「違うの、勢いで……、いろいろ考えてたら、無性にあなたと話がしたくなって」
連絡しそびれた、と正直に白状するとクリスはいささか面食らったような顔をした。迷惑じゃないかと重ねて問う。彼は苦笑して、大丈夫だ、と先と同じ言葉でフォローした。
「君が押しかけてくるのは初めてじゃないだろ。驚いたのは君が珍しく弱気だから」
「ええ……、そうかも、確かにちょっと参ってる」
「そんな相棒を雨の中に突き返すなんてできないさ。ほら、入れ」
優しい声に促されて部屋に上がった。散らかってるが、とわかりきったことを言う彼のあとを上の空でついていく。
話をしたかったという言葉に嘘はない。けれど本当は、ただ彼の声が聞きたかっただけだ。死んだ同僚と彼への後悔が頭から離れず、あれこれ考え込んでいるうちに気が滅入って、気付いたら彼に会いたかった。彼の顔が見たかった。
この感情の名前をジルは知っている。思い知るのはこれで何度目だろう。何度気づかぬふりをしてきただろう。知ってしまった今、そこにあるのは不毛で不実な時間だけだというのに。
ジル、と名を呼ばれてはっとする。
佇んだままのジルをクリスが心配そうに覗き込んでいた。
「あ、ごめんなさい。何?」
「いや、コーヒーでいいかと……、やっぱり変だぞ。何かあったのか?」
「何も、ただ、考え事を」
「何もなかったらそんな顔にはならない。ジル、一人で抱え込むなと何度――」
そんな顔って何、と言い返して驚いた。ひどい声だった。何より目の前のクリスも驚いている。勝手に視界が滲んで、誤魔化す間もなく涙が溢れた。
狼狽えたのはジルのほうだ。自身の涙におののいて、咄嗟にクリスから距離を取ろうとして、けれど彼の手がそれを許さなかった。たくましい手がジルの肩をやんわり押さえる。すまない、と告げるクリスの声は少し沈んですらいた。
「すまない、強く言いすぎた」
「私……、違うの、泣くつもりなんて」
「ジル」
「あなたを愛してる」
クリスの手がぴくりと震えた。
溢れる涙のせいで彼の表情がわからない。ジルは自分の表情さえわからずにいた。自分は今どんな顔をしているのだろう。何を伝えようとしているのだろう。感情が先走るばかりで、心が、言葉が、追いつかない。
「こんなことを言いにきたわけじゃないの。考えたことがたくさん……、だけどわからないことだらけで、ずっと息苦しくて」
「大丈夫だ、ゆっくりでいい」
「彼のことを考えるの、そうして彼が死んだことを思い知る、私は後悔でいっぱいになって、なのに気付くとあなたのことを考えてる。あなたがいなくなったときのこと、あなたのドッグタグ、あなたへの後悔——」
苦しくてたまらなかった。同胞の死はこれまで幾度も乗り越えてきたはずなのに、今回はどういうわけか理性が機能しない。一体自分はどうしてしまったのだろう、とジルはもどかしい。
クリスの手がそろりとジルの肩を撫でる。彼はジルの手から荷物を下ろさせると、そのまま優しくカウチへと誘導した。されるがままのジルに寄り添うように彼が隣に腰を下ろす。添えられた手のひらは大きく、大丈夫だ、と揺るがぬ声も相まって、ジルをゆっくりと安心させた。
「……ごめんなさい、支離滅裂ね」
「俺の報告書に比べたらましだ。いくらでも聞くよ」
「私が混乱してるのは、彼の思いに応えなかったことをとても後悔してるから。そしてこのままだと同じ過ちを繰り返してしまう」
「過ち?」
「そう……、あなたに会いにきたのは、きっと、あなたとちゃんと向き合うため」
添えられた彼の手を取る。クリスはその不器用な手で、不器用なりにジルの手を握り返そうとしてくれた。優しい手だ。驚くほど自然に、ジルの体から力が抜け落ちる。
「愛してるわ、クリス。あなたを愛してる」
不思議だった。あんなにも躊躇していた言葉が、あんなにも遠ざけていた言葉が、当たり前のようにすんなりと形を成す。
そのときジルが抱いたのは安堵に近い感情だった。人の死も、裏切りも、ひどい不条理も悪逆もさんざん目の当たりにして、それでもまだこの言葉に意味を見出すことができるのだ。葛藤して渇望してこの言葉にたどり着くことができるのだ。その事実はあまりに陳腐で優しく、それを知った自分にジルはようやく肩の荷が下りるようだった。
「……それは、キスをしても押しのけられないほうの、愛してる?」
「あれは……ごめんなさい、混乱してたの」
「今ようやく君の気持ちがわかったよ」
「混乱してるの?」
「すごくな」
そう言うくせに彼の眼差しはやわらかい。ジルはそっと笑う。
「本当は彼に愛してると言われたときに気付いてた、あのとき彼のことよりもあなたのことを考えてたから。それが後ろめたくて、あなたを拒んだこともひどく後悔して、だけど身勝手だと幻滅されるのが怖くて」
「幻滅なんか」
「クレアから聞いた、あの作戦に投入される予定だったなんてどうして黙ってたの?」
クリスがふつりと押し黙った。うまい言い分を考えているのだろう、彼の性格上たいした弁明にならないことはわかっている。ジルは恨みがましくクリスを見上げて、知らないまま終わるところだった、と呟いた。
「ぞっとしたわ」
ひとつでも間違えたら生きて帰ってこなかった。
いつか口にしたその可能性がおそろしいほどの現実味をもってジルに襲いかかる。あのとき自分は立っていられる自信がないと言った。戯言もいいところだ、とジルは自分を嘲る。
「あなたが死んだとき、私はあの時のことを死ぬほど後悔する。あの時あなたを受け入れていたらよかった、愛してるって言ったらよかった、きっとその後悔はほかの何よりも私を苦しめる。そんなの悲しすぎる、私はあなたとの時間を後悔で終わるなんて絶対に嫌」
「ジル……」
「いつか立ち上がれなくなるほどつらい時を迎えるとしても、あなたの傍にいて幸せだったと言い切れる時間を残したい」
ひどい身勝手を言っている。それでもこの男はそんな言葉にすらじっと耳を傾けてくれるのだ。こんなにも滅茶苦茶な感情に寄り添おうとしてくれる。ほんとうに、どこまでも損な男だ、とジルは無性に泣きたくなった。
「……まだ、愛してるって言ってくれる?」
その時驚くほど乱暴に引き寄せられて、ジルは続くはずの言葉を飲み込んだ。
きつく抱きしめられる。今までの気軽なハグとは比べものにならない力強さだった。分厚い体は多少のことでは揺らぎそうもなく、遠慮を忘れた腕の強さにジルは息を詰まらせる。知っているはずの腕が、体が、まるで知らぬ人のようで。
「ク、リス」
「ドッグタグを渡した時、君は道理を聞いただろう。俺は相棒だからだと言った」
「……ええ、覚えてる」
「あんなのは嘘だ。あのとき彼の死と自分の死を比べて優越感すら見出そうとしていた、君に作戦のことを言えなかったのはそういう自分への後ろめたさだと思う。俺は君が思ってるよりもずっと未練がましくて身勝手な男なんだ。まだ君を愛してるかだって?」
聞くまでもない、とクリスの腕がさらに強まる。
「こんな劇的に告白されて舞い上がらない男がどこにいるんだ」
「でも」
「理屈じゃないんだ、ジル。君が混乱してるのは理屈も建前も通用しないと気付いたからだろ。そういうものなんだ」
「だけど、クリス、私はあなたを――」
次の瞬間には唇を塞がれていた。何度も傷つけた、という覆しようのない事実をキスで遮って、彼はジルの背をあやすように撫でる。
「俺だって君を不安がらせた」
「……私が答えを出すために必要だったことよ」
「なら一緒だ、こうやって同じ答えにたどり着くのに君だけが苦しんでいいはずがない」
「あなたって本当に私が好きね」
「ああ、知らなかったのか?」
今さらだ、とクリスは息を吐くように笑った。
「君を愛してる」
そうして再び口づけを交わす。
甘ったるい音を立てて唇をついばんで、角度を変えるごとにキスは深まってゆく。ジルはためらいながらも彼を受け入れていった。無骨な指が横髪を掻き上げて、そのままジルの頭を抱き込むように引き寄せる。クリスはなかなか解放してくれなかった。もどかしげな指先を感じるたび、熱い吐息を感じるたび、ジルの内側に抗いようのない熱をともらせる。
「ちょっ……と、待って、クリス」
「またか」
「ちがう、押しのけたりしないわ、しないけど」
「けど?」
唇を離して、けれどそれ以上の距離をクリスは許してくれない。
乱された呼吸を自覚しながら、だって、とジルはたまらず笑い出した。
「だってついさっきまで相棒だったのよ、なのにこんな……、こんな、笑っちゃいそう」
「ジル」
「なに――んぅ……っ」
文句もまともに言いきっていない。噛みつくような口付けに思わずクリスの肩を押し返していた。押しのけないんだろ、と彼が掠めるように笑う。
「あまり煽るな」
「そういうあなたは前のめりすぎ」
「舞い上がってると言っただろ、それにもう充分待った」
「理由になってない、待ってってば」
「だめだ。待たない」
まったく年甲斐もない。
有無を言わさぬ唇がジルの呼吸をも奪い取り、抗議をかいくぐって分厚い舌が絡みつく。甘えたような声を抑える気もすでに失せていた。執拗に口腔をねぶる舌がジルの脳髄まで溶かして、気付くと逞しい首に腕を絡めている。
こんなふうに欲望をさらけ出す姿をジルは知らない。それはひとつ恐ろしくもあって、ひとつジルに満ち足りた感情をもたらした。英雄だのアンデッドだのと言われるあのクリス・レッドフィールドが、ジルの前で今、こんなにもただの人間だ。
相棒でない彼のことをもっと知ろう、とジルは腹を括る。
もっと貪欲に愛してしまおう。いつかむごい死がどちらかに訪れようと、後悔に満ちた別れが待ち受けていようと、それでもそれまでの間、この日のことすら笑い合えたらいい、とジルは願う。
完結。次ページはエピローグ的に書いたやつです。