手のなるほうへ
ドッグタグを受け取ってから一週間ほど、彼とじかに顔を合わせる機会がないまま思いがけない人物とかち合った。
会議から戻るとオフィスの前に佇む人影がある。見知ったシルエットだ。手持ち無沙汰そうにしている彼女に、お兄さんならミーティング中よ、とジルは笑いながら声をかけた。
「久しぶりね、クレア」
「ジル。よかった、元気そう」
クリスならもう会った、と兄の扱いはぞんざいである。彼女の口ぶりからして一連の話は耳に届いているのだろう。わざわざ顔見にきてくれたの、と笑うとクレアは肩を竦めた。
「兄の顔見るだけじゃ割りに合わなくて」
「彼また何かやらかしたの?」
「休暇取るって言うから私も合わせて休みを取ってたの、久しぶりに会う約束してたんだけど」
「一日ずれてた」
「あたり」
やりかねない、とジルは神妙に頷く。学習してほしい、とクレアはげんなりを通り越して兄を案じる顔である。
「そんなわけで休みを持て余したからディナーくらい奢ってもらおうと思って。ああ、よかったらジルも一緒にどう?」
「遠慮しておくわ、兄妹水入らずで楽しんで」
「二人だと味気ないのよね」
「ひどい」
指を向けるとクレアは明朗に笑った。冗談と明言しないあたり彼女も大概正直だが、なんだかんだ言って休みを合わせるくらいなのだから仲の良い兄妹である。各々くぐり抜けてきた修羅場を思うと当然なのかもしれない。
「お互い浮いた話もないし」
「そういう問題?」
「そういう問題。だからこそ会えるんだけど」
どっちかが家庭持つとなかなか、と彼女が他人事のように語るのでジルは苦笑した。
「クリスはクリスであなたを心配してたわよ」
「私は自由を楽しむタイプ」
「そういうところじゃない?」
「男運がなくて」
ジルは黙って両手を広げる。お手上げのジェスチャ。コメントしづらい。
「浮いた話といえば」
何事もなかったかのように話を変えるクレアに、ジルは広げていたうちの片手で人差し指を立てた。ちょっと待ってて、とようやくオフィスの扉に手をかける。先程から通りがかる職員や隊員が物珍しげに視線を寄越してくるのだ。ワーカホリックの気があるジル・バレンタインの立ち話を珍しがってか、あるいはクレア・レッドフィールドの存在を珍しがってか、いずれにせよ聞き耳など立てられては堪ったものではない。
「資料置いてくる。ディナー付き合えないおわびにコーヒーくらい奢らせて」
「私、あなたの妹ならよかった」
「光栄だけど彼の妹はあなたにしかつとまらないと思う」
私もそう思う、とクレアの声はどこか達観じみている。相手が俺で大丈夫か、とごちるクリスの表情とはからずも重なった。ジルは噴き出して、そっくり、と指摘しながらドアを引く。
***
考えてみれば自分たちが身を置くネットワークは狭い。
「あなたとクリスがようやく進展するかと思ったら進展どころかむしろ悪化して問題が表面化するわいっそうこじらせるわでそこはとなく気まずいって本当?」
「なんて?」
あやうくコーヒーにむせるところだった。
クレアは何食わぬ顔でシロップ多めのラテをかき混ぜている。甘そう、と言うと彼女は不甲斐ない兄とのやりとりで無駄にカロリーを消耗したのだと主張した。
「バリーから聞いた。というか、バリーが奥さんに話してるのを聞いたモイラから報告をうけてバリーに連絡した」
「まさかとは思うけど腐れ縁じみた政府直属エージェントの彼にまで伝わってないわよね?」
「今のところは。バリーがなんて言ってたか知りたい?」
「色々遅すぎるって文句ならじかに聞いたわ」
それも盛大な溜息とともに。
彼の言わんとするところはわかる。あと少し、たとえば目の前のものを失うことよりも手に入れることばかり考える若さがあれば、いちばん強い感情に従って彼を受け入れていただろう。逆だってそうだ。あのクリス・レッドフィールドが、強い意志でジルを引き留めた可能性だってありえた。
「うーん、ちょっと違う。その愚痴も聞いたけど。私は一生そんな話にもならないと思ってたからむしろ兄を見直した」
「それたぶん彼傷つくから黙っててあげて」
「だって本当にびっくりしたんだから。ここまであなたと何もなかったのに今さらそんな話持ち出す甲斐性がどこにあったの? というかこれ甲斐性って呼べる?」
「捉え方次第ね。少なくともあの時の彼は誠実だった」
「クリスはあなたにはいつだって誠実」
笑うようにつぶやいて、クレアは甘ったるそうなラテに口をつける。兄妹の間でどんなやりとりが交わされているのかなど知りようもないが、自分の知らぬところで彼の口から自分の名が紡がれていたことを思うと、ジルは擽ったい一方で妙にやるせない気持ちになった。
「私は、昔、いつかあなたが姉になるんだと思ってた」
クレアの言葉はまるで独り言のようでもある。不用意に立ち入る話題にせめて少し距離をはかるような。この兄妹は本当に似ている、とジルは苦笑した。
「――クレア」
「クリスがあなたを大事にしてることは知ってた。話を聞いてればわかるわ、何より兄の目がそう言ってたし。同じようにクリスが大事にされてることもね」
「相棒だもの、って言ったら怒られそう」
「まさか。だってあなたたち二人は人よりずっと重たいものを背負ってきたじゃない。戦って、いくつもの地獄を見て、英雄だなんて呼ばれて――それを支えてきたのが相棒としてのクリスであり、相棒としてのあなただったのよ。それを無下にできる人がいる?」
「そうね、あなたのお兄さんとか」
「ああ、前言撤回、やっぱり甲斐性じゃなくて野暮」
軽やかに展開される持論にジルは笑ってしまう。野暮は言いすぎ、と一応彼の肩を持ってみるがクレアはどこ吹く風である。妹であるがゆえの無遠慮さであろう、ここまで素を出されるとジルのほうもつい気が緩んでしまう。
「……でもうれしかったわ、ちゃんと。うまく言えないけど、相棒じゃなくて私のことを見てくれてたんだって」
「私が言うのも何だけど兄はほんとうにあなたしか見てないわよ」
「あなたが言うと説得力が違う」
「年季入ってるから」
私もクリスも、とクレアは事もなげに告げる。
このところ何かと実感することが増えた。クリスやバリーはもちろん、それに付随してクレアやバートン家ともずいぶん長い付き合いになる。心配をかけているのだろう、とジルもわかってはいた。心配いらないと言えたらどれほどよかっただろう。クリスが一歩踏み込んだことも、ジルが一歩慄いたことも、残念ながら彼女らの心配を的中させたこととなる。
「……バリーはなんて?」
「俺のせいだって」
笑ってた、と。クレアはわざと軽やかに告げた。
「なんだか自分が情けない」
「なに、急に。クリスじゃあるまいし」
「逆よ、あなたのお兄さんのほうがずっと強い」
そうだ。彼はたしかに向き合おうとしてくれた。
自分はただ怖気づいてばかりだと言うのに。
クレアはじっとジルを見つめて、ふと天井を仰いで、うーん、と小難しい顔をした。なにか言いたげである。踏み込んで聞くべきか触れずにいるべきか悩むジルをよそに、逆ね、とクレアが一言発した。
「怖気づいたのはクリスのほう。いや、あなたに男ができたって聞いて焦ったのもあると思うけど」
というかその時初めて自覚したんだろうけど、とクレアは逐一辛辣である。
「本人が言わないことを私から言うのはたぶんフェアじゃない、でも兄は言わない気がするから」
「何の話?」
「クリスはあの作戦に参加する予定だったの」
ふつりと。ジルの息は止まった。
あの作戦、が近く、多くの犠牲を出した大規模な作戦を指すのだと理解するまでにしばらくかかった。その犠牲の中には葛藤のすえドッグタグを引き取った彼の人も含まれる。ジルにとって、あるいは彼の相棒やチームメイトにとって、大きな意味を持つはずの名は、そのときいとも簡単に記号と化したのだ。殉職者という記号。犠牲者という数字。戦場というのはそういうものだった、と改めて思い知った瞬間でもあった。
「――クリスが?」
そこにクリスがいるはずだったという。
ひとりの人間が呆気なく掻き消された、その場所に。
「急遽別の任務に引っ張り込まれたとかで結局外れたらしいけど。本部でもそれなりの犠牲は覚悟してたみたいだし、アンデッドだなんて言われてる兄も思うところがあったのかも」
「どうして……」
「どうしてそれを黙ってるかって? 簡単よ、だってあなたの重荷になるだけだもの。下手すると傷つけるだろうし、そんなつけ込むような真似あの人はしない」
ジルは後悔に目を瞑った。ドッグタグを握らせたのち、何か言いかけてなんでもないと笑ったクリスの顔が脳裏をよぎる。
あのとき彼は何を告げるつもりだったのだろう。何を問うつもりだったのだろう。不安がるばかりのジルにこれ以上の負担をかけまいと、彼が意図的に言葉を飲み込んだことは確かだ。損してばっかり、と彼の優しさをなじると、損得なんて計算してない、とクレアは涼やかに笑った。
「言ったでしょ、クリスはあなたにはいつだって誠実」
彼女の表情は自信に満ちている。クリスが沈黙を貫くであろうこと、その意味と彼の意志、それらすべてを尊重し誇るかのようだった。
クレアはわかっているのだ。ジルだって知っている。人はきっと彼を不器用だと笑うのだろう。愚かだと呆れるのだろう。けれどそれが何だと言うのだ。不器用なくせに繊細で、滑稽なほどに実直な男だ。愚かしいほど優しい男だ。
クリス・レッドフィールドという人間はそういうひとだ。
ジルの知り得る限り、変わらずにずっと。
「――ばかな人……」
ジル、とクレアがいたわるように名を呼ぶ。
ジルは眦に滲んだ涙を無造作に払った。
「……大丈夫よ、ごめんなさい」
「いいのよ、馬鹿に違いはないし。私こそ余計なことを喋ったわ、あなたとクリスの関係はひどく複雑なのに」
「複雑なんかじゃない、私が臆病なだけ」
ジルは自嘲する。なにもかも単純で、その感情の名前だってはっきりしていて、どうするべきかだって知っている。目を逸らさずに向き合うだけだ。彼が、彼らが、そうしてくれたように。
「うーん、兄の教えだけど逃げるべき時は逃げたほうがいい」
「それ現場での話でしょ? あなたのお兄さんがクリーチャーなら逃げてたけど」
「うっかりするとそっちの類いかも。というかあなたに泣かれるとバリーに怒られるのよ」
「クリスと同じこと言ってる」
そっくり、とジルはとうとう笑い出した。
クレアは何も言わずに笑っている。彼女だって兄の幸せを願っているだろうに、それを押し付けずジルの不安に寄り添おうとしてくれるのだ。まっすぐな優しさが今の自分にはもったいない気がしてならない。揺れるばかりの答えが彼女たちに対して誠実と呼べないことは自覚していた。
向き合わなくては、と理性的なジル・バレンタインが告げる。
臆病なジルの心はやはり揺れる。