手のなるほうへ
ドッグタグを託された。
片割れをなくした金属片。そこに刻まれた名をクリスは知っている。
記憶を辿って彼のことを思う。
一度現場をともにしたことがあるが的確なバックアップで大きく助けられたことを覚えている。ジョークが上手くて任務中にもかかわらず何度か笑わされた。少々楽天的で、それでも誠実な人間で、優秀な部隊長だった。彼女からもそう聞いていた。
ジル・バレンタインの傍にあるべき名を、クリスはそのドッグタグに見た。
訪ねてきたのは彼の相棒という男だった。
「家族はいません。テロでなくしたそうです」
楽しい男でした、と彼は声を詰まらせる。数日前のことだ。本部の部隊を中心とした大規模な作戦のさなか、眼前の男はその相棒をなくした。
オフィスを訪れた彼はひどく憔悴していた。件の作戦では大きく犠牲を出したと聞いている。おそらく相棒以外にもたくさんの仲間をなくしたのだろう。到底他人事にはできぬ痛みだった。
「よく酒を飲みました。酔うと薀蓄が長いので彼女の前ではやるなと仲間内でからかっていました。彼女のことを話す相棒はとても幸せそうでした」
いいやつだった、幸せになるべきだった。彼は口の端を震わせて感情を押し殺している。
「彼女に持っていてもらえたら。そしてたまに思い出してほしい。相棒もきっと報われます」
差し出されたドッグタグを拒否するすべなどクリスは持ち合わせていなかった。
悲しみとともに手にするドッグタグはいつだって冷たい。
***
託されたドッグタグを携えてクリスは彼女のオフィスへと向かう。
間違いなくこの訃報はジルの耳にも届いている。彼女のことだ、泣くこともせず一人で対処して飲み込むのだろう、と思うひどく気が滅入った。
「ジル、入るぞ」
申し訳程度の声掛けをしてドアを開ける。終業時刻は過ぎていたがジルは当然のようにパソコンのキーボードを叩いていた。
「あら、クリス。どうかしたの」
ディスプレイから目を上げずにジルが問う。いつも通りの会話だ。クリスは答えずに彼女のデスクを回り込み、頑なにメールを作成している彼女を見下ろす。
ジルの視線がようやくディスプレイから離れた。デスクチェアをくるりと回してクリスを見上げる。
「何の用、クリス」
いささか語気が荒い。普段の彼女ならもう少し穏便な物言いをする。
こういう時の彼女は気が立っているか動揺しているかのどちらかだ。そして今日に限っては十中八九後者のほうで、それを苛立ちとして誤魔化そうとしている。もしくは苛立っているのだと自分に言い聞かせている。いずれにしてもクリスの目にもわかる程度の虚栄だった。
「預かりものだ」
嘆息してドッグタグを差し出す。
刻まれた名を捉えた彼女の瞳が、たしかに揺れた。
「――これ、どうして」
「彼の相棒から預かった。君に持っていてほしいと」
おずおずとクリスを見上げたジルは、先の剣呑な物腰から一転してひどく心許ない顔をしていた。手を伸ばす様子はない。受け取ることを遠慮しているのかと思ったがそれも違う。クリスは揺れる眼差しに唯一、葛藤の色を見た。ドッグタグ、あるいは彼の死を突き付けられて、何かしら持て余しているかのような。
「ジル?」
「私、受け取る資格なんてない……」
そんなことはない、と気休めを口にするには彼女の瞳があまりに辛そうだった。かわりにクリスは、なぜ、とその真意を問う。ジルは力なくかぶりを振った。
「彼の相棒が持っているべきだわ。私ではなくて。気持ちだけありがとうと伝えて」
「……君がそう言うなら。彼の死がそんなにつらい?」
「ええ、とても」
クリスは仕方なくドッグタグを手中に戻した。無機質な冷たさが指先に戻る。
それで終わりにするのは容易いことだった。クリスがこの場を去るだけだ。けれどクリスは彼女の前を去らず、ジルのほうもパソコンに向き直らぬまま。
「……俺のドッグタグなら君は持っていてくれるか」
ひどい問いかけである。
顔を上げたジルはついに泣きそうな顔をした。
「そんな話をしないで」
「ジル」
「私、違うの、彼にひどいことをした」
クリスはゆっくりと腰を屈めて彼女の顔を覗き込む。何かあったのか、と優しく促すが彼女は目線を落とすばかりだ。
「先に言っておくが、引っぱたいたくらいならひどいことには入らない」
「どうして?」
「そういうものなんだ。待て、本当に引っぱたいた?」
ジルは首を振る。何か言いかけて、やはりやめて、いいえ、と今いちど噛みしめるようにつぶやいた。迷いを孕んだ沈黙。クリスは辛抱強く彼女の言葉を待つ。
「……彼に、愛してると言われた」
「君は?」
「答えられなかった。受け入れることも拒絶することもしなかった」
それきりだった、とジルが目を伏せる。さすがのクリスも、引っぱたくよりましだ、などとは口にできない。
「答えを出すべきだったと?」
「彼の望む答えは出せなかったかもしれない、だけど彼の気持ちとは向き合うべきだった。こんな、逃げるような真似」
「彼は君に気持ちを伝えられただけ幸せだったよ。伝え損ねたままのほうがよっぽど死にきれない」
「あなたってポジティブね」
ここでジルが少し笑った。普段よりずっと力ないそれだったが、彼女のその表情にクリスはようやく胸を撫で下ろす。
やけに実感がこもってる、とジルは苦笑していた。本人相手に経験談になるところだったとはさすがに言えず、そういう友人ならいくらでも見た、と当たり障りのない代名詞で誤魔化した。
「対処の仕方は人それぞれだ、後悔することも間違いじゃない。だけどきっと、後悔だけが残ることを彼は望まない」
「……でも」
「ジル。彼は君を愛していたんだろう。だとしたらそれを覚えているべきだ」
そのほうがずっといい。クリスは噛んで含めるように言う。彼の死に自分のそれを重ねていることはとうに自覚していた。自分も同じだ、思い出すとしたら彼女を愛していたことを思い出してほしい。
「彼はきっと、ドッグタグが君の手に残ることを望んでるよ」
握りしめたドッグタグを今いちどジルに差し出す。彼女は手のひらに乗ったそれをしばらく見つめて、やがてクリスを見上げた。不思議ね、と困ったように笑う。
「どうしてあなたにわかるの?」
「聞かないほうがいい」
簡単だ。彼も自分も立つところは同じだからだ。
恋しがってもらうことよりも悲しんでもらうことよりも、彼女の手元にこの名を残したかった。傍にいられないのなら傍に置いてほしい。できうることなら時折思い返してくれたら。
クリスは言葉にはしなかった。
聡い彼女はすべて汲み取って、あなたは強い、と呟いた。
「本当なら私に優しくする道理なんてないのに」
「道理ならある。相棒だからな」
その時ジルが、にわかに息を詰めた。
クリスは彼女が泣き出すかと思った。それほどまでに危うい目元を一度閉ざして、ジルは意を決したようにクリスに微笑んでみせる。涙の気配はなかった。
「ありがとう、クリス」
複雑な彼女の感情など到底理解してやれない。泣きそうにみえた理由も、葛藤のすえの微笑みも、クリスにはわからなかった。
ジルがそろりと白い手を延べる。クリスはその手を取って、預かったドッグタグを彼女に握らせた。ひとりの男の名が刻まれたそれを、ジルはゆっくりと、それでもかたく握りしめる。彼の名を、彼の存在を、どうにか刻み込むように。
「――ジル」
言いさして、やめた。
不思議そうに見上げてくる彼女になんでもないと笑う。今日は早めに帰ったほうがいい、と釘を刺してクリスは腰を上げた。
「これを口実にそろそろ休暇消化したほうがいいんじゃないか」
「やめてよ。だいたいそれあなたが言える立場?」
「俺は来週クレアと約束がある。あいつ休みを合わせる相手が俺で大丈夫か?」
「過保護」
ジルが笑う。身近な名前が効いたのだろう、彼女の表情から翳りは消えつつあった。
一方のクリスはなんとなく後ろめたさが拭えずにいる。自身の願望を、思いを、彼の死にかこつけて彼女に押し付けている自覚はあった。ひどい傲慢だ。ジルは納得しないだろうが、クリスはたしかに彼を通して自身の死とそのあとを見ている。
自分が死んだあと、彼女は自分との記憶をどうするだろう。
自分の言葉を、感情を、どう留めてくれるだろう。
俺だったら泣いてくれたか、という言葉をクリスは飲み込んだ。泣きそうに歪んでそれも泣かなかった深い双眸に思いを馳せる。こんなことで優越感を見出そうとしているのだからまったく救いようがない。
なにが相棒だ、とクリスは自嘲する。
道理を踏み躙っているのはクリスのほうだった。