手のなるほうへ
 飲みに行かないか、と誘う彼の声は妙に他人行儀で、ジルは答えるよりも先に彼の身を案じてしまった。 「どうしたの? 何かあったの?」 「俺が君を誘うのはそんなに変か?」  一見普段通りである。けれど彼の瞳の奥のほうには今まで見たことのないよそよそしさがあって、奢るぞ、という言葉も取って付けたかのようで不自然だ。何かあったの、とジルは念を押すように繰り返した。 「何もないよ」  クリスは鷹揚に笑う。誰も死んでない、とひどいジョークを飛ばすのでジルは引き下がるほかない。そもそも何もないのに奢るというのも変な話だ。貸しでもあっただろうか、とぼんやり心当たりを探す。 「せっかくだけど、今日はパス」 「先約か? 例の実働部隊の」 「バリーから聞いたの?」 「聞けって言ったのは君だろ」  そうだった、とジルは顎を引く。違和感だらけの相棒を前にいまいち調子が戻らない。 「そうよ、その人」 「寝たのか?」  その相棒から相棒らしからぬ台詞が出てきたので驚いた。  ジルは思わずクリスを見る。どんな風の吹き回しだろう。彼はなんでもないような顔をしているが、日ごろ他人のテリトリーに不用意に立ち入らぬことを知るジルからしてみればそれ自体が不自然だ。今までこんな風に詮索してくることなんてなかった。ただでさえ堅物と呼ばれるような男が、寝たかなどと。 「珍しいわね、あなたがその手の話を振ってくるなんて」 「いや、一応、気になって」 「一応?」  一応、とクリスが繰り返す。ジルはコートを羽織りながら、どうにも上の空なクリスの顔を覗き込んだ。やっぱりなにか変、と指摘するが彼はいや別に、と歯切れが悪い。 「別れ際にキスしたくらいよ。寝てない」 「俺、そんなに変なことを訊いてるかな」 「あなたにしてはね。そんなに気になる?」  少し間を空けてから、ああ、とクリスはやや強張った声で応じた。  彼の表情から作っていたものが剥がれた。つまり、なんでもないような顔、が剥がれ落ちた。その下にあったのは静かな諦観と覚悟を据えた寂しげな顔で、ジルはふいに見てはいけないものを見たような気になる。諦観と寂寥。ずいぶん複雑な取り合わせをしている。 「……気になるさ。気になるに決まってる」  深い瞳はうら寂しく、そのくせ揺らぐことなくまっすぐジルを映しだす。一体なにを諦めたというのだろう。諦観のちらつく眼差しが、言いようのない不安を掻き立てた。 「そんなの、そんな言い方あなたらしくない。本当にどうしたの? バリーに何か聞かれた?」 「いいや、だれも関係ない」 「じゃあ何? 同僚だから?」 「違う。君だから」  ジル、と呼ばう声が心を揺さぶる。彼に名を呼ばれることなど数えきれぬほどあったというのに、こうもストレートにジルを動揺させたのは初めてだった。耳に心地よい彼の声。聞いてはいけない、とその声に初めて、本能が警鐘を鳴らす。 「クリス」 「君を引き止めたかったんだ」 「どうして――」 「君を渡したくなくて」  ああ、とジルはかすかな絶望を抱いた。彼の口から発されたそれは確かな執着で、他でもない彼が自分に向けたもので、自分たちの関係の脆さを痛いほどに知らしめるものだった。聞くべきではなかった。こんなにも呆気なく、彼との関係がふやけていく。 「あなた、なにか変……」 「そうかな。だとしたら俺はずっとそうだった」 「クリス」 「君を愛してる」  冗談だろうと。  笑い飛ばせてしまえたらどれほどよかっただろう。  今まで見ないようにしてきた感情があった。それはひとつの名を持つ感情で、その感情を暴くことでこれまでの関係をやすやす壊してしまい得る残酷な感情だ。長い付き合いになる。互いに触れぬようにしてきたことは明白だろう、それを今さらどうして。  切実な瞳がまっすぐにジルをとらえる。冗談にしようものならきっと彼を傷つけることになるだろう。逃げ場はなく、選べる道も少なく、彼との距離も関係も、もう取り返しがつかない。  ジルは動揺する心の中に答えを探した。相棒であり同僚であり、長年の友人である彼に愛していると言われた。  こわい、と思った。それが答えだった。 「わ、私」 「俺とはキスできない?」 「違うの、待って」  恐怖の正体もわからない。  けれどどんな形であれ自分たちの関係性が変わるのだと思うと、ジルはひどく混乱した。 「お願い、待って……」  眦が熱い。泣きそうだ。  ごった返す感情の中でジルは彼との関係に縋り付いていた。彼のことは愛している。そこに間違いはない。  けれど、得体の知れぬ恐怖が、ジルの感情を阻む。  待ってと懇願したきり途方に暮れるジルの頬に、クリスの大きな手が触れた。優しい接触に驚いて彼を見上げる。迷いのない瞳に射抜かれて、近付く唇を拒絶することもできなかった。  くちびるが触れる。  ジルの内側でなにかが崩れるのがわかった。  彼のキスが心を満たそうとする。気付くべきではなかった。 「――だめ、やめて!」  ジルはどうにか彼を引きはがした。  本当は縋り付きたい手で彼の肩を押し返す。やめて、と訴える声は揺れていて、彼の顔を見上げた拍子にとうとう涙が落ちた。 「ごめんなさい、クリス、こんなの」 「ジル……」 「私はあなたを大切に思ってる。相棒として、友人として、とても愛してるわ。でも」  長い時間を近い存在でありすぎた。その自覚は互いにあるはずだった。クリスはそこに未来を見出していたのかもしれない、ジルだって少しも期待していなかったと言ったら嘘になる。彼とそういう人生を送るのも悪くはない。彼を愛して彼に愛される日々はきっと幸せだろう。  そうだ。だからこそ怖いのだ。  自分たちはいつも死と隣り合わせにいる。 「あなたを失った時が怖い……」  死んだ同胞たちの家族が泣き崩れる光景を幾度も目にした。残されたドッグタグ。遺された人々。そうしていつも自問を繰り返す。彼らは死に自分たちは生きている、何が違ったのだろうと。  ただの傲慢だ。  自分も彼も、無残な亡骸と何一つ変わりやしないのに。 「今まで、何年もずっと、たくさんの仲間の死を目の当たりにしたわ、それなのに私はあなたがいなくなるわけがないってまだ思ってる。死ぬはずがないって。だけどあなただって人間で、なにかひとつでも間違えたら生きて帰ってこないのよ。それをわかりもしないで、このままあなたを愛して、あなたに愛されて、そうしてあなたを失った時にまっすぐ立っていられる自信がない」 「ジル」 「あなただって――」  あなただってそう、とジルは声を絞り出す。  誰よりも屈強な戦士でありながら誰よりも繊細な男だ。ジルが何よりも怖れているのは彼が折れてしまうことだった。英雄と謡われる彼が、バイオテロという過酷な戦いの希望たり得る彼が、ジル・バレンタインの死ひとつできっと立ち上がれぬまま戦うことすらやめてしまう。自惚れなどではない。その瞬間の絶望も後悔も憤りも、自分のことのようにわかるから。 「私のせいであなたが戦えなくなる、そんなことはあってはいけないの」 「……戦うために、ひとりの女性を愛することを諦めろと?」 「いいえ、違う。だけどそれは私では駄目なのよ。ジル・バレンタイの死は、あなたにとってただの相棒の死でないと」  ふと、何か言いかけたクリスが口を閉ざして、物憂げに目を伏せた。悲しい瞳をしていた。  ジルは奥歯を噛み締める。自分の言葉がどんな意味を持つのかとうに自覚していて、自覚していたはずなのに、崩れ落ちそうなほどに心が痛い。 「――ただの相棒か」  彼を傷つけている。  誰よりも幸せを願う相棒の心を。  クリスは一度手のひらを握りしめて、そうしてその手をほどいて、息を吐くように笑った。自嘲のようだった。ゆっくりと向けられた双眸には拭いきれぬ寂寥が滲んでいて、ジルの胸を息苦しいほどに締め付ける。 「君が出した答えなら俺はそれで構わない。今まで通りの関係を君が望むなら」 「クリス」 「だが、どうあっても、君の死がただの相棒の死で片付くはずがないんだ」  クリスの手がそろりとジルの頬に触れる。銃器を軽々扱う彼の手は無骨でそのくせ優しい。今にも決壊しそうなジルの眦を指でなぞって、すまない、と彼は言った。 「すまなかった、ジル」 「どうしてあなたが謝るの? 私は――」 「全部俺のわがままだ。君にこんな顔をさせたかったわけじゃない」  ジルは唇を噛む。我儘も傲慢も身勝手も、身を削って戦い続けた彼なら少しくらい許されたっていいはずだ。少しくらい望んだっていいはずだ。何故それを阻むのが自分なのだろう。 「……あなたを傷つけてる」 「だからって君が傷つく必要はない」  彼の体温が恋しい。  目を伏せた拍子に再び涙が零れた。クリスはじんわり苦笑してその涙を指先で拭う。君を泣かせたらバリーに怒られる、と彼の声はまるで幼子をあやすようでもあった。 「彼は幸運だ」 「あなた今日ずっと変。そういう台詞も言えたのね」 「嫉妬で正気じゃないのかもな」 「笑えない」  頬に触れるクリスの手に自分のそれを重ねて、ジルはおそるおそる彼の手を握り締めた。大きな手のひらだ。この手に何度支えらて、何度救われただろう。手を貸し手を引かれ、寄り添う彼の手に焦がれた時だって確かにあったのに。 「……私、あなたの相棒でいられる?」  きっと縋るような顔をしていただろう。卑怯な言葉だとわかっていながら、ジルはじっとクリスの答えを待つ。 「ほかに誰がいるんだ」  わかりきっていたことだ。クリス・レッドフィールドがジル・バレンタインを拒むはずがないと。  ひどい欺瞞を自覚しながら、それでもジルはクリスの隣にいることに執着する。彼を傷つけている。彼の優しさに付け込んでいる。それでもすべて無駄にしてしまいそうで謝ることすらできない。ジル、と変わらず自分を呼ぶ声が恋しくて、厚い手のひらにそっと頬を寄せた。

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