手のなるほうへ
 ジルがオフィスに押しかけてきたのは定時を目前にした頃だった。  金曜日である。飲みに行く予定があるので後回しにできぬ書類は片付けてあるし、後回しにできる書類は次週分に振り分けている。メールチェックも済ませてあとは時計を見守るだけだったクリスは、突如来訪したジルにほぼ叩き起こされたような形であった。  彼女はつかつかとクリスのデスクに寄ってくると、虚を衝かれるクリスを無視して乱雑なファイルの山を確認し始める。挨拶のひとつもない。 「――ジル?」 「ハァイ、クリス」 「探し物ならそう言ってもらえると俺の心臓にも優しい」 「探し物っていうか――ああ、あった」  下のほうのファイルをジルが引き抜いた。クリスはぐらつく山を慌てて押さえる。 「保管庫のものを私物化しないでっていつも言ってるじゃない。ていうかその山片付くの?」 「切り開いてるところだ。ファイルは帰りに戻そうと」 「それって言い訳? それとも挨拶?」  挨拶寄りかもしれない、とクリスは黙り込む。定番化しすぎた。  クリスの沈黙を反省と捉えたか、ジルは嘆息するとその場でファイルを捲り始めた。必要事項だけ目で拾っている。おそらく返しにいくのは結局自分なのだろう、とクリスはその光景をぼんやり眺める。 「このあとバリーと飲みに行くんだが」 「らしいわね。さっきバリーから聞いた」 「じゃ声掛かっただろ。行くか?」 「残念だけど断ったわ。先約があって」  ぱたりとファイルを閉じたジルが口を曲げた。残念だけど、の表情だろう。差し出されたファイルを受け取りながらクリスは少し笑った。 「なんだ、デートか?」 「そんなところ」  彼女の口振りは軽やかである。少なくとも皮肉を込めたお偉方との付き合いの類いではなさそうだ。  茶化す形で持ち出したデートをジルがあっさり肯定した。自ら種を撒いておいてクリスは少々たじろいでしまう。 「……男?」 「気になる?」 「気になる」  ストレートに返すとジルが噴きだした。駆け引きが下手、と彼女は指摘するが下手というより苦手なのだから仕方がない。 「身長はあなたと同じくらい。あなたのほうが少しイケメンね。ジョークはあなたより上」 「え」 「今日はディナーだけ。ああ、キスはするかも」  次から次へと投げて寄越される情報を、キスの件でいくらかまごついたが、ひとまず処理してからクリスは今いちど男かと訊いた。女性とキスする趣味はないわ、と笑われて安心すればいいのか動揺すればいいのかいまいちわからない。  感情が迷子のうちに定時のベルが鳴った。 「ジル――」 「あとはバリーから聞いて。行かなきゃ」 「ジル!」 「また来週、クリス」  ひらりと片手を振ってジルが去ってゆく。  クリスはその背を見送ってから、馬鹿みたいに手にしたままのファイルをデスクに放った。 ***  帰り際の一件をバリーに話すと笑われるどころか引かれた。ただでさえ慣れぬ話題を持ち出している自覚のあるクリスはいっそう居心地が悪い。 「……たぶんお前だけだぞ」 「何の話だ」 「ジルに男ができたって噂は管理部から現場の隊員まで全員知ってる」  まったくの初耳である。男、とクリスは間の抜けた声で繰り返す。  口にしてみたところで心当たりのないことに変わりはない。いや知らない、とここでようやく応じると、バリーは盛大に溜息をついた。 「信じられんな。俺なんか廊下歩くごとに本当かどうかとか……ああ、そうか」 「なんだ?」 「みんなお前には聞きづらかったんだろうな。というか話しづらかったというか」  たぶんそうだ、とバリーは一人で納得している。噂の出回り方など知りようもないが、避けられていた事実よりもその理由のほうが聞き捨てならず、いや、え、とクリスは変な汗をかきそうだった。 「それって――」 「ほんとおめでたい奴だな。お前ら二人が何も言われてないわけないだろ」 「いや、だって、聞いたことないぞ」 「本人に聞こえるように噂する馬鹿がいるか」  ぐるりとクリスの脳が混乱をきたす。なにか色々とまずい気がする。ストイックかつ確固たる相棒という関係を、傍目に見てもそうだろうと得意がっていた自分が急に滑稽に思えてきた。 「な、にを言われてるんだ、俺たち」 「寝てるなんて話はザラだな。いろいろあって離婚したとか、やっぱり何もなくてお前がゲイだとか、先月は事実婚の真相を訊かれた」 「じ……」 「噂だけの子どもがいないだけましだ」 「慰めてるつもりか?」  噂というより一件誤解が入っている。いっとき同僚と話すたびに妙な視線を向けられていた原因はおそらくそれだ。  知らないほうがいい事実だった。どうしてこんな話になった、と後悔を噛み締めたクリスは、ここでようやく本題を思い出した。 「違う。そんな話はどうでもいいんだ」 「どうでもいいってツラじゃなかったがな。ジルの相手?」 「ああ。お前に聞けと言われた」  俺もそんな詳しくは聞いてないけどな、とバリーが苦笑する。適当にあしらわれたという悲しい可能性について、クリスは深く考えないようにした。 「先月ジルがオークランドで調査にあたったの知ってるか?」 「ああ、聞いたような」 「その時のバックアップチームのリーダーらしい。お前も知ってる名前だと思う」  聞くかと問われたがいいとクリスは断った。聞いたところでどうしろと言うのだ。  バリーは溜息をついて、お前は昔から不器用だが、と傷口を抉りながらしみじみ語る。自分のことを不器用の一言で片付けてくれる人間も今となってはずいぶん減った。彼とも彼女とも、思えば長い付き合いになる。 「今のお前は不器用というより馬鹿だな」 「馬鹿か」 「ああ、大馬鹿だ」  最悪だなとまで付け足すので言い過ぎだとクリスは呻いた。  けれど、たしかに、馬鹿ではある。長らく殺伐とした戦線に身を置いてきたせいか愛だとか恋だとかまるきり無縁だと思っていたのだ。それをあろうことか彼女も同じだと一方的に思い込んでいた。身勝手にも程がある。  だって彼女はずっと傍にいた。  たったそれだけのことでクリスは信じていられたのだ。彼女がこの先もずっと傍にいると。ひとつの根拠もなく。  相棒と呼び戦友と呼んだ、色気のひとつもない関係こそが確かなものだと。 「……ああ」  そうだ。たしかに馬鹿だ。  考えてもいなかった。そこに見知らぬ誰かが踏み入るなど。  呑気な自惚れを切り伏せるように現実が立ちはだかる。その意味をようやく理解したクリスが抱いた感情は、奪われる、というそれだった。 (奪われる)  彼女の隣を。彼女との時間を。  ジル・バレンタインという女性を。  彼女とともにした時間が、光景が、たくさんの情動を伴って脳内を駆け巡る。戦場で見せる横顔が好きだった。同胞の死に折れぬ強さも割り切れない弱さも。装備を紛失したクリスを叱責する声、呆れ顔、くだらない雑談とまるきり片付かない残業。そしてなによりクリスを呼ばう、彼女の声が。  ああ、とクリスはようやく腑に落ちた。 「……俺は馬鹿な上に鈍い」 「そうだな、知ってた」 「彼女を愛してる」 「知ってるよ」  バリーは呆れている。手元にグラスを押しやりながら、俺が口出すのも野暮だが、と笑う彼の声は先よりも少し優しかった。彼なりの祝福か、あるいは同情か。 「ジルにもお前にも幸せになってもらわなきゃ困るんだ。どんな形だっていい、お前らが纏まろうが纏まらなかろうが、それぞれ幸せなら」 「――俺は」 「だがお前は何してる? ようやく自覚したようだから言わせてもらうがな、この手の後悔は一生引きずるぞ」  後悔、とクリスはその言葉を舌に転がした。いやに苦い。  ファイルを戻せと叱責するジルの姿が脳裏を掠める。駆け引きが下手だと笑う顔も。つい先刻合わせたはずの顔がどこかひどく遠い。  あのときジルを引きとめたかった。  ほかの男など選んでほしくなかった。  なるほど、とクリスは自嘲した。  そこにあるのは見て見ぬふりをしてきた浅ましい執着だ。今までどうして普通でいられたのかわからないほど、泥臭い独占欲が。 「まあ、そうなったらそうなったで自業自得だな。だから言っただろと言ってやる」 「手厳しいな……」 「今さら気を遣う仲か? それに次の任務だって血みどろだぞ、いつ死ぬかわからん身だ」  後悔するな、とバリーが、噛んで含めるように繰り返す。  グラスを取る手に知らず力が籠っていた。  彼女の幸せを望むのならすべて飲み込むことが正解だろう。それでも、とクリスはようやく目を逸らすことをやめた。身勝手だと詰られても、独りよがりだと笑われても、たとえ彼女を傷つけるとこになったとしても、黙って彼女を手放すことなどできるはずがなかった。
6とか7とかと噛み合わせ悪そうだなと思いつつぼやっと理想のBSAAで書いてます。バリーが定まらない。

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