逃げ口上の在処
もどかしげにシャツを脱ぎ捨てた乱歩が覆い被さってくる。
それを受け止めながら、たしかにここのところ平穏だったな、と与謝野は考えていた。
日頃から定期的に、というより気がつくと厄介事の渦中にいる探偵社であるが、思えばここひとつきほど平和が続いていた。うずまきに顔を出せば調査員のひとりやふたり、下手をすると塊で油を売っているくらいには平和だった。その上で頻繁に医務室に担がれてきては解体されるに至った谷崎や敦に関しては引きが悪いとしかいいようがないが、一方で社の柱である名探偵は見かけるたびに昼寝をしているか駄菓子を貪っていたように思う。
おそらくそのせいだ。
猫のような口づけを交わして、頬から顎に喉にとあちこち唇を落とす彼の、記憶の限りではもう少し引き締まっていたはずの脇腹をつまむ。
「なに」
「すこし太ったね、乱歩さん」
「……あのさあ」
不満げに眉を顰めた彼が与謝野の手を掴む。その手は互いに熱い。本来なら指を絡めて没頭するところだが、与謝野は彼の手からするりと逃げて二の腕を辿った。
「駄菓子の食べすぎじゃないのかい。谷崎らを見習って少しくらい動き回ったほうがいいと思うけどね」
「僕は体じゃなくて頭を動かすほうが仕事だ」
「そんなこと云ってると体力なんてすぐに落ちちまうよ、もう色々と折り返しだろう」
「うるさいよ。ていうか集中してくれない?」
二の腕で遊んでいた手は今度こそ絡め取られた。額を合わせて与謝野の視線を捕らえ、緊張感とかないのと尤もらしい苦言を呈するので笑ってしまう。
「つい気になっちまってね」
「何、その気じゃないわけ」
「そう見えるかい?」
「君が思っている以上にね」
そんなことないよと尖らせた唇はそのまま吸われた。
その気じゃないと言ったらどうするつもりなのだろう。与謝野は目をつむって口づけに応える。どうせ意味など成さないに違いない。幾度も唇を擦り合わせ、ぬめる舌が触れると否も応もなく熱が灯る。触れていた指が髪に差し込まれる、少し荒い感触が好きだ。与謝野はたまらず彼の首に腕を回して熱い舌をふくんだ。じかに触れる肌が熱い。きっと自分のからだも熱い。
「ん……っ」
とろとろと思考が溶けてきたところで彼が脇腹をなぞり、与謝野は唇の合間から声を上げた。ひくと体が跳ねる。乱歩の指は止まらない。
「ん、や、待って、乱歩さん」
「与謝野さんこそいつも医務室に籠ってるのに」
「待ってったら、くすぐったいよ」
「むしろもっと食べたほうがいいんじゃない、細すぎ」
無骨な指先が腰をなぞって太腿をたどる。擽ったさとは違う感覚がぞわぞわと肌を這い回り、与謝野は耐えかねて彼の手を取った。どうしたの、とどうせわかっているくせに彼は意地の悪い瞳で笑う。
「……もっと肉付きのいい女が好みかい」
「君こそ筋肉質な男のほうがいい?」
「まあ、ひょろついた男よりはね」
「ふうん」
背に回された手が下着のホックを外し、ふいに訪れた解放感に与謝野はふるりと肩を震わせた。肩紐を捕らえる彼が腕抜いてと言うので大人しく脱がされる。
乱歩は浮いた手を絡め取って首元に顔を埋めた。舌をちらつかせて喉をたどる彼の髪を撫でながら与謝野はぼんやり考える。言われてみるとたしかに、荒事の絶えぬ職場にしてはあまりそれらしい体格の男がいない。国木田などは教え込まれた武術と上背も手伝って体も出来ているが、太宰や谷崎に関しては端からすると完全に優男だ。太宰の場合は優男を装っていながら普通にいい体をしていそうなのが腹立たしい。敦はおそらくこれからだろうけれど、虎化だのなんだので正直よくわからない。
「……ねえ、さっきも云ったけど」
ふと乱歩が顔を上げて指先で胸元をなぞった。おや、と思考が戻されたことと体が震えたことはほぼ同時で、鼻にかかった中途半端な声がこぼれる。彼の手がそのままゆっくりと柔らかみを遊び出して、与謝野は咄嗟に口元を手でおさえた。
「集中してくれる?」
「してるよ。してる」
「うそつき」
親指がしこる先端をかすめ、ふ、と鼻から声が漏れた。優しく押し潰されて体が震え、時おり爪を立てられてちりと走る痛みに背がしなる。唇を噛む与謝野に面白くなさそうな顔をした彼が、今度は舌先でそれを捉えた。
「ッ、あ」
「他の男のこと考えてた」
「他、ッて……、探偵社の奴らだよ」
「しってる」
余計にいやだ。触れる吐息が擽ったく、そこで喋るなと文句を言おうとした矢先に口に含まれた。敏感になりきった頂きを食まれて情けない悲鳴が上がる。舌でねぶられ、歯を立てられて吸われて、執拗に与えられる快楽に与謝野は身を捩る。
「ん、あ、ぁ……っ」
「そういうの、野暮なんじゃない」
「そん、な……ッ、つもりじゃ」
唾液にまみれたそれを指先で転がし、乱歩は胸元に吸い付いて情痕を残す。こら、と思わず声を上げると彼はこんなところ見えやしないと開き直った。他人に頓着しない彼の執着が自分に向けられると思うといまいち強く出られないが、一応、万が一ってことがあるだろう、と文句をつける。
「何、万が一って」
「へ?」
「さっきから気が散ってるのもその所為?」
「何の話――ッ」
顔を上げた乱歩が与謝野の頬を掬い、再びかみつくような口づけをした。思わず縮こまる舌を乱歩のそれが探り当てて唾液と一緒に絡み合う。一体何の話だ。翻弄されながら与謝野は懸命に心当たりを探す。確かに普段より気が散っているかもしれないが、その所為と言われてもどの所為なのかまるで見当がつかない。
暴走を許す前に問いただしたほうが良さそうだ。結論を出したところで乱歩がリップ音を残して唇を離した。頬を撫でられる感触に瞼を持ち上げ、見下ろす彼の瞳が思った以上に思い詰めた色をしていて驚く。
「もう、僕に飽きた?」
挙げ句そんなことを言い出すのだ。
「乱歩さん?」
「僕じゃない誰かの事を考えてる。痕だって見られると困るんだ、僕に飽きたのか飽き飽きしたのかは知らないけど」
ぐしゃぐしゃに丸めて放り投げるような言い方である。先刻までは狡い大人の顔をしていたくせに、神妙な面持ちで何を言い出すかと思えば。与謝野は添えられた彼の手に触れる。
「そんな筈」
ないよ、という声はすでに震えていた。
だめだ。可愛い。
「……そんなにおもしろい」
一度笑い出すと止まらなかった。むすりとする乱歩に悪い悪いと言いながら与謝野は声を立てて笑う。名探偵だってすべての推理が完璧なわけではない、けれどこんな局面でそんな悲愴じみた顔で外さなくたっていいだろうに。噛み締めれば噛み締めるほど可笑しくてたまらない。
「ああ、だめだ、腹筋がいたい」
「笑いすぎ」
「悪かったよ、だって乱歩さんがあまりにかわいくてね」
「それ全然フォローになってないから」
憮然とする乱歩の髪をぐしゃぐしゃ撫でる。やめてと言うのでそのまま頭を引き寄せて唇をあわせた。誤魔化そうとしてる、と口づけの合間に乱歩がつぶやいて危うくまた笑い出すところだった。
「乱歩さんに飽きたとしたらよその男なんて相手にならないよ」
「その気じゃないくせに」
「それは関係ない話だ」
「否定しなよ」
おっと、と与謝野はわざとらしく口元をおさえた。指の下でくつくつ笑い声を漏らすと乱歩が少し不安そうな目をして、ほんとうに、と与謝野の芝居がかった手をどかす。本当に気移りとかじゃないわけ。
与謝野は息を吐くように笑った。
「勘弁しとくれ、乱歩さんだけだよ」
「もっと」
「乱歩さんじゃなきゃいやだ」
「まだだめ」
「乱歩さんがほしい」
それ、と乱歩が満面の笑みを浮かべた。
なんだかなし崩しに言わされたような気もする。勘繰る与謝野であったが、熱い手が腰から腹をなぞって呆気なく思考は散ってしまった。
「ちなみに」
彼の指が下着にかかる。もったいぶった動きでそれを引き抜かれ、無防備に晒されたからだが心許なくて与謝野は膝を擦り合わせる。内股をたどる乱歩の手はまるきり頓着せず、滑り込んだ無骨な指先がたぎる熱を探り当てた。いりぐちを掠める快楽に与謝野は身を震わせる。
「ぁ……ッ」
「乗り気じゃないって云うのも結構燃えるんだよね」
文句は抑え込んだ嬌声とともに消えた。
くぷと沈んだ指が押し返す濡肉をゆるゆるほぐし、声を漏らさぬよう堪えているうちに指が増やされて腰が引けた。逃げないでと低く囁く声すら甘い刺激となって顔を逸らす。彼の指は緩い抽送を繰り返しながら奥へと押し進み、時折いいところを掻き撫でられて与謝野はふやけた声を上げた。ここ、と乱歩が意地悪く問う。
「あ……ッ、ぁ、や、……!」
「嫌? もっと奥?」
「違ッ、――ンあぁ!」
ぐちりと抉られて喉が反った。腹の奥がきゅうとうずく。蠢く指先にいちいち体が震えて、手一杯だというのに秘芯まで押し潰されてたまらずシーツに縋り付いた。固く瞑ったまなじりに涙が滲む。鋭利な刺激に情けなく喘ぎながら、いやいやと首を振るが乱歩は手を止めない。いやだ。やめて。おおよそ意味の成さぬ声はそのくせずいぶん甘えたような色をしている。
「ま、って、まってらんぽさ、ほんとに……ッ」
「どうしたの」
「ッや、奥、だめ……!」
届くようで届かぬ刺激がもどかしくてこわい。その先の悦楽を求めていいのか、求めた先のそれに普通でいられるのか、与謝野はいつもわからず乱歩に助けを求める。彼の答えは結局のところ快楽でしかないのだけれど。
ゆっくりと秘芽を捏ねられてあわや気をやるかと思った瞬間、それまで好き放題動き回っていた乱歩の指が引き抜かれた。その刺激にまた体が震える。ん、と声を上げた与謝野に乱歩が口づけて笑った。
「その気になったかい」
「……意、地の、悪いひとだね」
「あー、意地悪って云ってみてくれない?」
「どっちかって云うと悪趣味だ」
「憎まれ口もその顔じゃ最高にかわいいよ」
「勘弁しとくれ……」
流された口説き文句にも頓着せず乱歩は可笑しそうにしている。その瞳に一瞬余裕のない色を宿したのが少々不穏ではあった。
彼は緩慢な動きで身を起こすと、残りの衣服を脱いで避妊具を手に取る。この時間がいつも少し肌寒い。中途半端に疼く体ではつけてやろうかと強がりを言う気力もなく、おそらくわざとゆっくりつけている彼が恨めしくてたまらない。じっと睨んでいると顔を上げた彼と目が合い、乱歩はやはりこすい顔でなに、と笑うのだ。与謝野は白旗を上げた。
「いじわる」
乱歩は満足げに笑って覆い被さってきた。
「それだから君って好きだよ」
恥ずかしくてしねる。
深い口づけをされてそれすら体を疼かせてつらい。早く頂戴と泣きそうに訴えると、乱歩は頬に口づけて僕も限界と白状した。
そそり立つそれがいりぐちに押し付けられる。それだけの刺激で背がしなった。惑う与謝野の手を握って乱歩はゆっくりと腰を沈める。
「ッん、ぅあ、あ」
腹の奥を押し開く異物感がくるしい。乱歩の余裕のない吐息が甘く耳朶を震わせて与謝野は目を閉じる。散々に焦らされた体では媚肉を押し分ける鈍い動きすら快楽と捉え、きゅうと締め付けては擦れてさらなる快楽を生む。う、と呻いた彼が耐えかねて強く腰を押し付けて、それがよりにもよって焦がれていたところを抉り、かくんとくらつく感覚がした。だめだ。
「ひ、ッあぁ……!」
ぎゅうと膝頭が彼の体を締め付ける。蠕動に呑まれた乱歩が一度息を詰め、小さく震える与謝野の足を宥めた。
「あ……れ、いっちゃった?」
「ん、……んっ」
ひくつく体が自分の情欲ばかり浮き彫りにしているようでいたたまれない。こくこくと頷く与謝野の頭を撫で、結構余裕ないねと白々しく唇をよせてくる。誰のせいだ。
「でもごめん、悪いんだけど」
締め付けられて余裕がないのは彼も同じのようである。は、と息をついた乱歩が億劫に視線をもたげた与謝野に微笑み、次の瞬間、ずんと奥まで穿たれた。
「うあ、ぁ、ら、ぽさ……ッ、待っ」
「君の、気移りとか、不安にさせられたわけだし」
「ぁ、やだ、ぁあッ、今だめ、妾、まだ」
「もうすこし付き合ってよ」
駄目だというのに彼は取り合わない。慣らす動きが徐々に強く膣内を突き崩し、ぐちぐちとひどい音に与謝野は耳を塞ぎたくなった。ほとんど形を成さぬ嬌声に時おり呻くような声が重なり、彼は彼で余裕のないことがわかる。わかるけれど達したばかりの体には刺激が強すぎる。過ぎる快楽をどう逃がせばいいのかわからず、背をしならせて晒された喉に乱歩が噛み付いた。ぞわと背筋が粟立つ。よもや痛いのかきもちいいのかさえわからない。
「いッ、ぁ、ら、らんぽさ、らんぽさん……ッ!」
「は……っ、やば、かわいい」
「んぁ……!」
駄目だ。きもちいい。つたない声で限界を訴えると乱歩が手を握り締めた。浮いた手で彼にすがりつく。迫りくる波を懸命に受け止め、とうとう奥に突き込まれた何度目かの瞬間、ひときわ高い声を上げて与謝野は達した。
「ッぁ、や、ああ……っ!」
きゅうと強く彼を呑み込む。うあ、と声を取りこぼした乱歩が顔をゆがめ、窮屈そうに腰を擦り付けて達した。薄い膜越しに脈打つ熱が過敏な内壁を収斂させる。
悦楽に呑まれて頭がぼうとする。ずるりと引き抜かれてからだがひくついた。絶頂の余韻に震える与謝野の額に口付けて、身を起こした彼はさっさと避妊具を処理して屑籠に放り込む。この作業がいちばん萎えるのだと彼はよく愚痴るが、そのわりに毎回きちんと着けてくれるあたりがいじらしい。
大丈夫、と無責任に問う乱歩が張り付いた髪を払って顔を寄せた。ついばむような口づけに億劫に応じる。
「……くたびれてる?」
「らんぽさんのせいだろ……」
「君のほうこそ体力落ちてるんじゃない」
「蒸し返さないでおくれ」
やっと呼吸が落ち着いてきて、彼の手を握りしめたまま強張っていた指を開く。握力はなかなかとわざとらしく手を振るので膝で軽く小突いてやった。はずだった。ろくに力が入らず腑の抜けた接触に、乱歩が喉元で笑う。
「云っておくけど僕はもう一回って云えるくらいの体力あるから」
「もうやらないよ、というか気は晴れたのかい」
「何が?」
「不安にさせたんだろう」
へ、と虚を衝かれた乱歩がやがて、じんわりと相好を崩して与謝野の頬に触れた。君って案外律儀だよねと、軽口を装ってその声は嬉しそうで、どうやら不安は剥がれ落ちたらしいと与謝野も微笑む。
彼の唇を受け止めて、最後にまた深い口づけを交わす。正直言ってもう眠たい。じゃれつく舌の相手をしながらとろりと思考がぼやけ始めた矢先、ふと違和感を覚えて与謝野は目を開いた。
翠の瞳が思っていた色と違う。しまったと勘付くがもう遅い。
視線の意味に気づいた乱歩がにんまりと笑う。
「ごめん、よさのさん」
だめかも。
笑んだ双眸に情欲を揺らめかせて彼が不穏な降伏を告げた。
与謝野は極力冗談ぶって、できればそのまま流れが変わることを願って、その気じゃないと先の流れを汲んでみたがそういうのいいからと一蹴された。呆気なかった。
ふたつめの袋を破る音がする。からだが震えたのは彼の眼差しに理性が慄いたためか熱が疼いたためか、せめて前者であれと与謝野は願う。