poco a poco
夜半過ぎの来訪者である。
こんな時間に、と驚いてドアを開けるとやけに沈んだ顔の弟子が佇んでいた。日頃の溌溂とした様子はなりを潜め、滅多に見ない表情にさしものナギも面食らってしまう。
「サファイア、どうしたんだ」
「あ、えと、先生、こげな時間に押し掛けてしもて……」
「そんなことはいい、それより何があったんだ。というか一人か? 感心できないな、いくらなんでも危なすぎる」
「大丈夫ですったい。あたしには強か仲間がおるけん」
「そういう問題じゃないよ。とにかく、中に」
サファイアを促したところで、あ、とナギは問題発生に気づいた。ただごとではない弟子の様子に気を取られてすっかり忘れていた。少し待ってくれ、と言いかけたがすでに遅かった。
「ナギ? お客様かい?」
声とともに現れたのはミクリである。目下の問題はこの男がこの部屋に存在することだが間の悪さも大概だ。案の定サファイアは勝手に気まずそうな顔をしている。
「せ、先生、あたし、お邪魔じゃなかと?」
「気にするな。仕事で来て勝手にくつろいでいるだけだ」
「ずいぶんな言いぐさだな。サファイア、久しぶりだね。とりあえず上がったらどうだい」
「ここはおまえの家か」
いいじゃないかと笑うミクリはさっさと奥に引っ込んでしまう。ナギはひとつ息を吐いて、相変わらず居心地悪そうにしている少女を今度こそ中に促した。
サファイアを二人掛けのソファに座らせると、当然のように彼女の前にティーカップが置かれた。ミクリである。
「カモミールティーだよ。心が落ち着く」
「あ……すいません」
「おい、ここは私の家で、というかそんなものどこに」
「この間持ってきてストックしておいたんだ。気づかなかったかい」
「またおまえは勝手に……」
言いかけて、ナギはぎょっとして続きを飲み込んだ。サファイアの瞳からぽろぽろと涙が溢れ落ちている。慌ててどうしたと問うが、彼女は唇を噛んで首を振るばかりである。
困惑しきってミクリを見ると、彼はふむと頷いてサファイアの肩に手を置いた。
「ルビーと何かあったんだね?」
「え」
視線を戻すと、サファイアはさらに顔をくしゃくしゃにして泣き出した。抱きつかれたナギはひとまず少女の体を受け止め、あやすように背を叩いてやる。説明がほしい。けれど今ではない。まるきり事情がわからぬまま、苦笑するだけのミクリにナギはただ首を傾けていた。
***
ひとしきり泣いて落ち着いたサファイアが、鼻をすすりながらカップに口をつける。頃合いを見計らったようにナギの前にもティーカップが置かれ、まったくそつのない男だ、とナギはむしろ呆れた。
「すまんち……取り乱してしもうて」
「いいんだ、気にするな」
サファイアの隣に腰を落ち着けたナギは努めて何でもないように笑う。カップを持ったミクリは向かいのソファに腰かけて、口を挟むこともせず優雅に茶を飲んでいる。どうやら彼なりに適度な距離感を心掛けているようだった。
「それで? いったい何があったんだ」
「先生……」
サファイアが思い詰めたような顔でナギを見上げる。この少女の瞳はいつだって真っ直ぐで強い光を失わないのに、今は不安と焦燥と逡巡でいっぱいでともすれば溢れそうだ。ミクリの言葉が正しければ彼女にこんな顔をさせているのは唯一の想い人らしく、若いな、とナギは表情に困った。
「先生、恋人になりよったら、何かせんといけんと?」
「…………」
おおよその事情が読めた。
ミクリを見やる。彼はまるきり他人事の風体である。
「……つまり、何かされたのか」
「き、キス、されたったい」
ああ、とナギは嘆息した。
「嫌だったのか?」
「先生」
途端にサファイアが泣き出しそうな顔をした。よほどこたえているのだろう。拒絶に近い感情を抱いてしまった自分に傷つき、相手を傷つけたことにまた傷ついている。
そっとサファイアの肩に触れると細い肩がひくりと揺れた。濡れた瞳がすがるようにナギを見上げる。
「先生、あたし、アイツの傍におれればそれで満足ったい。やけど、それじゃいけん?」
「サファイア」
「わからんち……恋人になったら今までのままじゃあおられんと? キスもせんといけん? 先生とミクリさんもそげんこつやりよう?」
「え」
話の矛先を突然自分に向けられてナギはふつうに面食らった。これこそミクリの管轄ではないのか。けれどサファイアの瞳はまっすぐにナギを射抜いていて、話も視線も到底逸らせる状況ではない。
「それは、それだ、サファイア。人それぞれ違う。きみたちは、きみたちのペースでやっていけばいいんだよ」
「そうじゃなか! 先生もミクリさんとキスばするやろ? そげん時、嫌じゃなか? 怖くなかと?」
「怖……」
そうくるか。
呻くナギの視界の隅で、表面には出さないが明らかに面白がっている様子の男が流れを見守っていた。助け舟を出す気配は一切ない。他人事ぶるか首を突っ込むかどちらかにしたらどうだ、とナギは頭が痛かった。
「……そうだな、私も最初は不安だったよ。そうやって他人に触れるのは初めてだったからね」
「最初は……? 今はもう大丈夫になったと?」
「ああ」
視界に入る男を無視してナギはどうにか笑みを作り出す。顔が熱い。
「さっきも言ったがそれぞれのペースがある。最初こそいろいろ葛藤もあるだろうが、そのうち自分からも触れたいと思えるようになるよ。あまり考えすぎるな、サファイア」
「やけど、先生、あたし、アイツのことば傷つけたかもしれん……」
「サファイア」
ここでようやくミクリが口を開いた。今か、とナギはげんなりする。口を挟むなら挟むでもっと早く挟めただろうに。
「きちんと話せば必ずわかってくれるよ。きみが思ったことを話して、傷つけたことを謝ればいい。ルビーもきっと聞いてくれるはずだ」
「そ、そうやろか」
「ああ、だってきみの魅力はそのまっすぐな心とまっすぐな言葉だろう。ルビーはそんなきみを好きになったんだよ、遠慮する必要がどこにある?」
不安を拭えずにいるサファイアに、ミクリはふんわりと優しい微笑みを寄越した。相手の肩の力を抜くような年長者らしい笑い方である。ナギにしてみれば胡散臭いの一言に尽きるが、彼はそういう表情のとり方をよく心得ている。
「そう……そうったいね、こげにうじうじしとっても何も変わらんとやね」
「うん。その調子だ」
「ありがとう、先生、ミクリさん。やっぱり来てよかったったい」
サファイアはようやく笑った。その瞳にはまだ迷いの色も見え隠れしているが、すくなくとも彼女らしい表情であることにナギは胸を撫で下ろす。
もう時間も遅いことだし泊まっていけと言うと、サファイアは首を振って立ち上がった。
「気持ちは嬉しかやけど、今日は帰るったい。どうせ寝れんけん、一人でじっくり考えたいとね」
「そうか。それならチルタリスで送ろう」
「ありがとう、先生」
飛行服に着替えるべく立ち上がったところで、三人分のカップを下げようとしているミクリと目が合った。この流れで当たり前のように帰る様子を見せあたり、すごい神経をしている。
「おまえは帰らないのか」
「留守番してるよ」
いってらっしゃいと微笑まれ、ナギはついほだされてしまった。帰れと強く言えない自分も自分だ。
ラブラブったいねえと本気で羨ましがるサファイアに、ナギは何も言わずにただ苦笑した。彼女たちの絆のほうがきっと強い。それでもくすぐったいほどの感情を実感してしまい、強がって否定するのも馬鹿らしくなってしまった。
サファイアちゃんがくそほどむずかしかったです
その後のミクナギ→
カシミア