嘘の行方と使いよう
 今日泊めて、と隣のウサギは事も無げに言った。  ちらと横目にジュディを見ると彼女はレンタルしてきたドラマに夢中で、本当に何という事もなく、ただ必要に応じた発言だったことが窺える。つまり彼女の部屋にテレビという媒体は存在しない。  ふむ、とニックは考える。彼女はそろそろテレビを買ったほうがいいし引っ越したほうがいい。ドラマが観たいだのフットボール中継が観たいだので逐一転がり込まれていては身がもたない。もちろん迷惑などという意味ではなく。  ジュディ・ホップスは若く魅力的な女性だ。  最高の友人であり無二の相棒。  手など出せるはずもない。  返答のないニックを訝しんだジュディがまずいかしら、とニックを見上げた。まずいかと訊かれたらまずいに決まっている。主にニックの情緒面が。 「いいや? 大歓迎さ。どうぞ寛いでくれ」 「なあに、その言い方。迷惑なら帰るわよ」 「そんなことは言ってない」 「あなたの皮肉ってわかりやすいのよ」  わかりづらい皮肉なんて皮肉として成立していない。ニックははあと溜め息をついて、迷惑じゃない本当さ、と両手を広げた。気が進まないだけで、と本音を追加する。ジュディが大きな瞳を不満げにすがめた。 「つまり迷惑なんじゃない」 「複雑なんだよ。深く考えなさんな」 「何よ、そうやってはぐらかして。いいわよ別に、泊まるもんね」 「はいはい。そういうわがままも今のうちに使っといてくれ」  ビールに手を伸ばす。が、届く前に横からの衝撃でカウチに撃沈した。抱きつかれたという表現が正しいし押し倒されたという表現のほうが色っぽいのだろうが、ニックの所感としては、タックルを決められた、という表現がしっくりくる。彼女ならきっといいラインバッカーになれる。その当人はニックの上で何やら神妙な顔をしていた。 「それどういう意味?」 「は?」 「今のうちって何? どこかにいなくなるつもり? ねえ、私が何かしたなら」 「ストップ、落ち着けニンジン。どこにも行くつもりはないし君の相棒なんて座をだれかに譲るつもりもないよ」 「じゃあどういう」 「そのまんまの意味さ。今の状態が続くまで」  ひとまずニックがどこにも行かないと明言したことで勢いを削がれたらしい。ジュディは強烈なタックルを決めたとは思えぬ表情でわからない、と呟いた。今の状態って何、と腑に落ちない様子の彼女にニックは笑う。 「君は認識してないようだが俺って男だし君は女だしお互い大人だ」 「今すごく馬鹿にされたってことは認識したわ」 「つまりこの状況ってお互いフリーだから成立することだろ。いずれ君は気障っぽい都会ウサギと恋に落ちるかもしれないし俺だって目元のセクシーなキツネと」 「全っ然わかんない。つまり何なの?」 「どっちかに良い相手ができたら泊めるだの泊まるだの論外ってこと」  その時ニックは、目の前の愛らしい顔がわずかに強張ったのを見た。元詐欺師の軽口にも負けずにニックとの応酬を繰り広げる達者な口が、今はたしかに言葉を見失っている。ここでの模範回答はおそらく、あなたに良い相手なんてそんな物好き、とかそのあたりだ。 「……ニンジン?」 「……なんでもない。そうよね、うん」 「おーい」 「泊まってく」 「ああそう」  もう好きにしたらいい。  ジュディがようやくニックから下りたので体を起こす。ビールに口をつけたがとうにぬるくなっていた。  ニックを押し倒したくだりでロスした数分を律儀に巻き戻し、ジュディは黙ってドラマを眺める。ニックもその隣でやはりドラマを眺める。つまみは湿気ている。  奇妙な気まずさがあった。  ジュディが夢中になってドラマを観ている時はそれに配慮して黙っていた。けれどそこから彼女の熱量が消えた時、そこには不思議と沈黙という概念が生まれる。なんとなく居たたまれない、その上打破しづらい沈黙が。  明らかに先までの空気感と違った。  泊まってまでドラマを観たがっていた熱量はどこへいったのだ。 「――ねえ」 「ん?」  そんな気まずさの中で突如声を掛けられれば心臓が跳ねるのは当たり前である。ニックはこの時ばかりは余裕ぶった表情を心から誇らしく思った。 「例えばあなたにそういう、物好きな相手ができたとして」 「ああ、物好きってワードに花丸をやりたいね」 「ほらそうやって。あなたって皮肉とか憎まれ口ばっかりじゃない?」 「話逸れてないかい、ニンジン」 「逸れてないわ。つまり、そういうあなたでも、誰かに愛してるとか、そういうの言えるのかなって」  ずいぶん踏み込んだ疑問をずいぶん平坦に訊かれた。  その踏み込んだ理由も、平坦である理由も、深読みしてはいけない、とニックは静かに自戒した。そこに彼女の深意を探してはいけない。だって理由を見つけてしまえばきっと根こそぎほしくなってしまう。  突き放せるくらいだったら簡単なのに。ニックは息をつく。 「言えるさ」  きっと。取りつく島もないくらい平坦な声をした。ジュディはふうんと言ってそれきり何も言わず、シーズンフィナーレの近いドラマを眺めている。  襲いかかってやれば満足だろうか、とニックは考える。衝動のまま本能のままに彼女を求めて何もかも暴いて、未来ある彼女を閉塞的な自分との関係性に閉じ込める。ああ、最悪だ。彼女はもっと自由でもっと幸せでいるべきだ。  ぼんやりとテレビに意識を戻す。  銃撃に倒れたヒロインを抱き起こした主人公が死ぬなと訴えていた。愛しているとヒロインを呼び止めている。ゆっくり瞼を下ろすヒロインの眦から涙がひとすじ。最高のクリフハンガー、とニックは口笛を吹きたいくらいであった。次のシーズンのパッケージに元気そうなヒロインが映っていたことをニックは覚えている。  ちらと横目にジュディを見る。普段であれば何これ気になるじゃないと前のめりになっていてもおかしくはないのに、彼女は相変わらず静かな表情でテレビを眺めていた。これは早いところ寝てしまったほうがよさそうだ、とニックはビールを煽る。  と、エンドクレジットを見送っていたジュディがふいに口を開いた。 「ねえ、ニック」 「ん?」 「もし私があんなふうに死にかけたら」 「縁起でもねえな」 「愛してるっていってくれる?」  危うくビールを吹き出すところであった。  ニックは口の中のアルコールをどうにか嚥下して、さりげなくビールをテーブルに避難させながら平静を手繰り寄せる。どういう脈絡だ。 「なんだ、感情移入が過ぎたか」 「違うわよ。ヒロインなら次のシーズンでも元気そうだったわ」 「そういうとこ可愛くないよな、おまえ」 「しってる」  可愛くない、とやけに思い詰めた声をしていた。これはいよいよまずい展開になりそうだ、と天井を仰ぐ。これ以上踏み込んで踏み込まれて何もせずにいられる自信がない。 「そろそろ寝ないか、相棒」 「相棒なんて――」  口走った。身構えたのはニックのほうだった。何も言うな、と願う。けれど彼女がやにわにニックを見上げたことでその願いもあっけなく霧散した。何も言わずとも大きな瞳が訴えている。あと一歩とニックに縋っている。 「――おとなしく寝るわ。だからひとつだけお願いがあるの」 「子守唄なら喜んで」 「愛してるって言って」  その瞳は残酷なほどに綺麗だった。  ニックは片手で目元を覆う。最悪だ。 「――ニンジン」 「だってあなたは詐欺師でしょ、そんな嘘もきっとお手のものじゃない」 「そういう問題じゃない」 「わかってるわ、私たちはただの相棒で……、明日になったら忘れる、約束するわ、だから」  だから。言い募る彼女の口を塞いだ。  ん、と遮られた声が口内でつぶれる。本能的に身を引かせた彼女の頬を押さえて深い角度でキスをして、引き結ばれた唇のかたちを舌でなぞり、強張る体から力を奪っていく。彼女の不揃いな吐息にニックの思考はじわじわと溶け、熱を持ちながらもひどく泣きたい気分になった。こんなつもりはなかった。そのくせずっとこの熱に焦がれていたなんて。  こうなることをずっと恐れていた。  だってもう手遅れだ。もうとまらない。 「……あいにくだがな、俺は詐欺師は卒業したんだ。嘘なんて必要ない」 「ニック」 「君を愛してる」  彼女の瞳はいつも綺麗で気高く時おり苛立たしいほどにまっすぐだ。そのしたたかな芯はいつもと変わらないのにあっけなく決壊し、日頃見せぬような感情を滲ませて大きな瞳からぼろと涙をこぼした。 「もう一度言って」 「愛してるよ、ジュディ」 「もう一度」 「愛してる。きみだけだ」  とうとう泣き顔になったジュディがたどたどしく身を寄せてきたので、ニックは彼女が迷わぬようしっかりと抱き寄せた。改めて抱き締めた体は思った以上に小さい。震えるようにしゃくりあげる様が幼くてニックは無性にやるせなくなった。 「……あなたを愛してるの」 「今同じこと言ったよ」 「相棒として隣にいられるだけでいいって思ってた。でもそんなのじゃなかったの。愛してるって、あなたが他の誰かに言うなんて思ったら」 「ジュディ」 「やだ――やだ。やだ。誰にもそんなこと言わないで」  言うものか、とニックは彼女の背中をさする。こんな小っ恥ずかしい台詞、他の誰に言えると思っているのだ。危なっかしいウサギで手一杯である。 「俺さっき君だけだって言ったろ。泣き止んでくれないかい、ニンジンちゃん」 「……さっきみたいなキスしてくれる?」 「願い事は寝る前にひとつだけって君が言ったんだぜ」 「嘘ついてってお願いしたのよ。嘘じゃないんでしょ」 「ほんとかわいくないな」 「それ嘘?」  いよいよ堪らなくなって減らず口に齧りついた。勢い余って歯がぶつかったがどうだっていい。舌を押し込むと彼女は小さな口で懸命にニックの舌を含む。押し付けるように絡めて舌を吸って、漏れる声すら逃さぬよう何度も唇を合わせる。年甲斐もなくキスに没頭していた。慣れぬであろう行為にジュディの体は強張っていたが、それでもせがむように触れる手が熱くて煽られる一方である。  落ち着け、とニックは自制する。頑張りやで背伸びばかりする彼女なのだ。無理はさせたくない。 「……明日にでもドラマの続き借りに行くかい」 「いい。もう必要なくなったもの」  前言撤回。駄目かもしれない。  優しくとか紳士的にとか、そういったワードは結果的に意味を成さなかった。無理だがっつく、と諦めて彼女ごとカウチに沈む。なけなしの配慮で無理するなよと鼻先にキスをして、あまりに性急すぎる展開に互いの思考にアルコールが残っていないことを祈るばかりであった。
(2016/06/11)
ささやかなる不都合の前夜のつもりで書いたらしいですが別物でもいけそう。当時のわたしは口内炎がなおらないとのこと。ちなみにこれのドラマはキャッスルです。

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